薄闇の中に炎が灯る。

 ゆらりとたなびく紫煙と小さな赤い残骸だけを置き去りにして、その炎は役目を終えるとすぐに消えた。

「イザーク…その細葉巻の煙はキツい。寝煙草も感心しないな」

 間近から聞こえる、起き抜けの弱々しく掠れた声。

 けれど存外に非難のこもった声に、“魔術師”は苦笑した。

「ルカ…起こしてしまったかね?」

「煙草は嫌いだと言った筈だよ。…わざと?」

 ルカの険しい視線を平然と受け止めながら、“魔術師”は煙を吐き出した。

「嗜好品の趣味は人それぞれだ。君と分かち合えないのは至極残念だが、多少は相容れなくとも仕方がない」

「多少どころかかなり迷惑だよ。この強烈な煙を共有させるのはどうかと思うな」

 ルカは不服そうな表情を見せると勢い良く枕に顔を埋める。

 “魔術師”は口の端に笑みを残したまま彼女の髪を梳いた。





 数時間前のことだ。

 “魔術師”が崇拝にも等しい関心を寄せる、あの方の弟と初めて遭遇した。

 クルースニクを起動していない彼は、どこにでもいるような短生種そのものだった(しかも同じ短生種も唖然とするに違いない、相当の間抜けぶりだった)。

 同行していた他の者は、かつてあの方の強大な力の片鱗にさえ酷く恐れを抱いたことも忘れたように、その上辺だけを見て楽勝だと嘲笑した。

 ああ見えても、彼はあの方に比肩しうる力を潜在しているというのに。

 同じ騎士団とも思えぬ浅はかな愚考ぶりに、呆れ果ててものを言う気力さえ失くした。





「いつまでそうしている気だね?」

 自分の髪に触れたままの“魔術師”の手を払い除けると、ルカは両肘を付いて上体を起こした。

 いつの間にか開いていた、窓から忍び込む冷たい夜気が素肌の熱を奪っていく。

「イザーク。彼を見くびらない方がいい」

 “魔術師”は光らない目でルカを見つめると、心外だとばかりに小さく肩を竦めた。

「それは今夜君が会った彼のことかね?ならば君の思い違いだよ。私はあの方を…アベル様をとても大切に思っているのだよ」

「そうかな…彼の酷く人間的な部分を、そのまま彼の弱さだと決め付けてない?」

「違うのかね?」

 黙ったまま自分を見上げるルカの背中に、“魔術師”はゆっくりと手を回した。

「ねえイザーク。彼はもしかしたら…あの方より強いのかもしれない」

「ほう…?」

「アベルは自我を失っていない。奴等に魂諸共喰われてしまった方が余程楽な筈だ。自分の内なる悍ましい力に抗いながら、気の遠くなるような長い歳月を彼は戦い続けてきた。そして恐らく…これからも」

 切れ長の目を更に細めて“魔術師”は笑う。

 細葉巻を灰皿に押し付けると、ルカの背中を優しく撫でた。

「ふむ…君は意外にロマンティストなのだね。だが君の紡ぐ物語の結末は、カイン様が望む方向とは違うようだが?」

「謀反者として幹部の前で吊し上げる?」

「まさか。私は優秀な同士を陥れるつもりは全くないよ。…皆が皆、そう思っているとは限らないがね」

 かつて同士の謀略に嵌められたものの、手酷くやり返した男は薄く笑った。

 “魔術師”を罠に嵌めようとした彼らは、既に生きてはいない。

「そうだね…私も用心するよ。あのディートに危険人物呼ばわりされる程の貴方を、陥れようとする勇気ある人はそうそういないと思うけど、周囲の“同士”に寝首をかかれないようイザークも充分に気を付けて」

 “魔術師”を静かに組み敷き、彼の長い黒髪に触れながら、ルカは隙のない笑顔を見せた。

「…でも、その一人と同じベッドで眠るなんて、殺して下さいと言ってるようなものだと思わない?」

「…言葉の端々に刺がある気がするのだが、私は君に恨みを持たれる覚えはないのだがね。だが、君に殺されるなら本望だよ」

「…いっそのことクルースニクに喰われた方が、貴方に相応しいよ」

 声を立てずに笑う“魔術師”の薄い胸板を撫でながら、ルカは呆れたように呟いた。

「流石の貴方でも、彼らには到底敵わないだろうから。…それ以前に歯向かうことさえなさそうだけど」

「所詮我々等、彼らの前では無力に等しい」

「やけに嬉しそうだね」

「ふむ…そうかね?」

 一見微笑しているようにしか見えない“魔術師”の表情から、愉悦に歪む狂気めいた何かをルカは感じ取っていた。

 神とも崇める彼らへの、ここまでの凄まじい執着心は一体どのようにして培われたのだろう。

 常に冷静に見える、彼の奥深くに潜む熱。

 それを垣間見ることができるのは、彼らに関与する話の時だけだ。

 ある意味“魔術師”は、彼らよりも得体の知れない人物なのかもしれない。

「私が欲しているのはクルースニク02という破壊神だ。可能であれば、アベル様自身にも我々を受け入れていただきたいのだがね」

「欲張り」

「君の虚偽が私を酔わせ、私の魂は、苦悩により君の両目から湧く水で渇きを癒す――ボードレール」

「イザーク。それじゃあまるで彼の苦痛を楽しんでるみたいだ。…知ってたけど」

 “魔術師”は笑いながらルカに口づけた。

「全ては我が君の望むがままに…」

「…あの方に責任転嫁できるのはイザークぐらいだよ」

「私に遠慮ない物言いでくってかかるのは、君と“人形使い”ぐらいだ」

「二人共好奇心旺盛だから、興味深い人物にはちょっかいをかけたくなるみたい」

 それは光栄なことだと“魔術師”は苦笑して、今度は長い口づけを交わした。

 そのままルカの首筋を辿る彼の薄い唇は、先程よりも熱を帯びていた。



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