「そう。これは…夢だよ」

 抑揚のない低い声が闇に響いた。

「そもそもこの世界は、自己認識している事象の一つに過ぎない。誰もが当然だと思い込んでいる目の前に存在する世界を、果たして誰もが自分と同様に捉えているのだと…それを証明する術はあると思うかい?」

 そうやって彼は、詭弁とも真理とも取れる言葉を用いて彼女を追い詰める。

 僅かな隙すら与えることなく、緩慢に、けれど確実に。

「だから…あなたは」

 彼の冷たい指が、彼女の言葉を遮るように唇に触れた。

 ゆるりと、その形を辿る。

 闇よりも尚濃い彼の双眸は、今や彼女のすぐ目の前にあった。

「逃げ場は、ないよ」

「…あなたは狡いです」

「ああそうだね。自覚はしているよ」

 彼が微かに笑ったのはほんの一瞬のことだ。

 やがて指よりも冷たく柔らかな彼の唇が、彼女のそれを塞いだ。

 それはまるで、闇に呑まれてしまうような。

 何故か、そんな感覚に囚われた。

 彼に触れられた部分は性急に熱を孕み、それとは裏腹に、意識は徐々に混濁していく。

 ねじ伏せられた訳では決してないというのに。

 どこか抗い難い、見えない力に蹂躙されるかのようだ。

 倦怠感に囚われ、自分の体が思うように動かない。

 けれど、私は。

 彼の重みを受け止めると、その息苦しさが増すごとに鼓動が早くなっていく。

 全てを埋め尽くすように肌の上を這い回る彼の指や唇に、声にならない声が漏れた。

 それらの感覚は、確かに私がここにいる証拠だ。

 決して夢や虚構などではなく。

 そう、思いたかった。

 薄闇の中、彼の乱れた呼吸を、流れ落ちる汗を、それでいて全てを見透かすような容赦のない彼の漆黒の双眸を、自分の中の何処かに辛うじて残っている冷静な部分で見つめていた。

 鋭敏な反応を示す身体に置き去りにされたその意識は、次第に生身のそれとは乖離してゆき、やがて残滓ばかりのものとなる。

 その合間に、彼の唇が自分の名を紡ぐ様が目に焼き付いた。

 それでもあなたは、この出来事を夢だと言うのだろうか。





「全く…榎さんといい君といい、ここを自分の家の寝室か何かと勘違いしているんじゃないのかい」

 本から顔を上げた中禅寺は、不機嫌極まりない表情で瑠花をじろりと睨んだ。

 一方瑠花の方は、そんな彼の態度に怖じ気付く様子もなく、ぼんやりとその非難めいた視線を受け止めていた。

 あれは夢だったのだ。

 当人の目の前で、何て大胆な夢を見てしまったのだろう。

 瑠花は急に気恥ずかしくなり、中禅寺の顔をまともに見ることができなくなった。

 大きな安堵感と羞恥心の中で、ほんの幾許かは残念だと考えている自分に驚き、内心で動揺を覚える。

 それよりも、私は何か変なことを言わなかっただろうか。

 …そんなこと聞ける訳がない。

 けれど。

 何処か違和感めいたものを感じるのは何故だろう。

 下を向いたまま微動だにしない瑠花を見て、中禅寺は険しい表情を僅かに緩める。

 彼に名前を呼ばれ、瑠花は一歩遅れた動作で顔を起こした。

「…悪夢にでも苛まれたような顔をしている」

 彼はそう言いながら、心持ち口角を上げた。

 同時に細められた闇色の双眸から目が離せない。

 そうだ。全く同じ表情で、彼は。

 静かに本を閉じた中禅寺は、やはり静かな動作で立ち上がった。

 畳の上、足音を立てることなく瑠花の元へと歩み寄る。

 咄嗟に逃げ出したくなった理由が、瑠花にはとうとう解らなかった。

 にも拘らず自分は、その場から一歩も動けないでいる。

 ふと気付けば、いつの間にかすぐ傍に彼の姿があった。

「瑠花」

 頬に伸びた、冷たい彼の手。

 この感触を私は確かに知っている。

 自分に注がれている彼の視線を、瑠花はゆっくりと受け止めた。

「夢…ではなかったのですか?」

「どうだろうね。それを証明する術はどこにもないよ。…それでも、確かめてみるかい?」

 そう言って彼は、その冷たい指で彼女の唇に触れた。

 それはやがて、彼の唇と入れ替わる。

「…中、禅寺さん」

「逃げ場は、ないよ」

 僅かに離れた唇の隙間、彼は低い声で囁いた。

 何かを言う間も与えられず再び重ねられた唇に、彼が触れる部分の一つ一つに、あの時と同じ熱が記憶の底から甦る。

 そう。それはまるで、闇に呑まれてしまうような。

 酷く、息苦しい。

 私はまだ、夢の続きを見ているのだろうか。

 それとも。



200610



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