部屋中に紫煙が充満している。
さながら霧の中にいるようだと寅吉は思ったが、窓を開ける動作も憚る程に彼の主人の機嫌は最悪だった。
彼は窓側にある広い机に行儀悪く両足を放り出し、咥えていた短い煙草を灰皿に雑に擦り付けた。
その直後、何本目かも解らない新しい煙草に火を付ける。
紫煙の霧は益々濃くなるばかりで、その机上にある「探偵」と書かれた三角錘さえ霞んで見える。
文字通り触らぬ神に祟りなしを決め込んだ寅吉は、台所へ避難した。
その時、事務所入口のドアがカランという音と共に大きく開いた。
「うわ、凄いことになってますね」
この場の雰囲気にそぐわない軽い調子の物言いで、姿を見せたのは益田だった。
「榎木津さん、どうしたんですか。…これじゃあどこかの阿片窟みたいですよ」
益田はやはり軽妙な口調でそう言うと、机のすぐ近くにある窓を全開にした。
「煩いぞ馬鹿オロカ。僕がどこで何をしようが下僕にとやかく言われる筋合いはない!」
「別にとやかく言ってる訳じゃないですよぉ。今の状況を報告した上で、最善の行動をとったつもりなんですけど」
「マスカマごときに最善も最良もない。お前なんか常に最悪だ最悪」
酷いなあと呟いたものの、益田が特に気落ちした様子はない。
彼は台所から顔を覗かせていた寅吉に珈琲を頼むと、ソファに腰を下ろした。
榎木津は相変わらず咥え煙草のまま、益田の方を見ていた。
正確には彼の額辺りを大きな瞳を僅かに細めて。
「あ…視えちゃいました?じゃあ、今から僕の言わんとすることも、お解りですね」
「…瑠花は京極の所にいるのだな」
まだ吸い始めたばかりの煙草を消すと、榎木津は机から両足を下ろして俄かに立ち上がった。
「そう言やあ、瑠花さん最近いらっしゃいませんね」
すっかり板に付いた給仕の所作で、珈琲のカップを榎木津と益田の前に置いた寅吉が言った。
「何でもレポートってやつに追われてるらしいですよ。僕は仕事の件で中禅寺さんのお知恵を拝借してたんですけど、瑠花さんは本に埋もれて、懸命に調べたり書いたりしてました」
「そいつは難儀だなぁ」
「いやぁでも何だかんだ言って、瑠花さん勉強好きみたいですからねぇ。多忙ながらも案外充実した日々を送ってるんじゃないですかね」
「益田君、少しは君も見習うといいんじゃないのかい?」
「何言ってるんですか和寅さん。僕みたいな真面目且つ謹厳実直な人はそうそういませんよ」
「客観的に自分を見られない君に、よく探偵の助手が務まるものだな。全く、先生の気が知れやしない」
「和寅さんまで酷いなぁ。口の悪さって空気感染するんですかね」
延々と続きそうな二人の無駄話を、榎木津が黙って聞いている筈もなかった。
彼は派手な音を立てて扉を開閉すると事務所を後にした。
あまりにも勢いが良かった為、例によって扉に付いた鐘は本来の鐘らしからぬ妙な音がした。
「そう言やぁ、瑠花さんと五目並べしてる時なんかは、先生かなりご機嫌だったなぁ」
寅吉は、主の機嫌がすこぶる悪かった理由に漸く気付いたようで、手付かずの榎木津の珈琲を飲みながら呟いた。
「案外わかりやすい人ですよね」
益田は顎に手を当てると、意地悪そうで軽薄そうな笑みを浮かべた。
「とうとうあのオジサンにも春が来たんですね」
薔薇十字探偵社が紫煙の霧に包まれる少し前のことだ。
瑠花は提出期日の差し迫るレポートを仕上げる為、京極堂に来ていた。
多種多用な本が累々と積み上げられているこの古本屋は、ある意味では図書館より資料が充実している。
彼女の課題のテーマにとっては、の話ではあるが。
瑠花は毎日のように京極堂に通い詰めていた。
店主である中禅寺が、役立つのであれば好きなだけ読むといいよと言ってくれたのだ。
「中禅寺さん、こんにちは。今日もお邪魔致します」
「毎日ご苦労だね」
中禅寺は読んでいた本から僅かばかり顔を上げて、微かに笑った。
これでも彼をよく知る人なら驚きを隠せない位、愛想のいい方なのだ。
瑠花はそんなことも露知らず、いつものように本を物色し始めた。
「ああそうだ。すまないが、今日は僕の部屋を使ってくれないか。居間の座卓程大きくはないが文机はあるから」
「どこでも大丈夫です。こちらこそ毎日居間を占領してしまい申し訳ありません」
深々と頭を下げる瑠花に、中禅寺は穏やかな表情を向けた。
「ここに来る輩は殆どが本など読まないからね。気が済むまで読むなり調べるなりするといいよ。ただ今日は益田君が来ることになっていて、多分話し込むことになりそうなんだ」
いかにも不本意で面倒だと言わんばかりに、中禅寺は溜息を吐いた。
お忙しい中すみませんと再び頭を下げた瑠花に、君が謝る必要はないよと中禅寺は答えた後で、再び机上の本に目を落とした。
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