ほとんど眠れずに朝を迎えた。
薬学の授業で教授と顔を合わせることが億劫だった。
それなのに実習を行う生徒たちに対し、一見そうとは聞こえないアドバイスやあからさまな皮肉を言って回る彼の姿から、ルカは目が離せなかった。
そうだ、あのカードに書いたことは偽りではなく、彼は本当に真面目な教師なのだ。
「ナイトレイ」
目が合った瞬間、名を呼ばれる。
昨夜のことが嘘のように、暗く冷たい闇色の双眸がルカを見据えていた。
「自分の鍋に集中したまえ」
見るも無残な状態になっているそれを始末する為に、教授に謝罪した後でルカは杖を取り出す。
その時点では珍しく減点等を免れることができたものの、その後も失敗続きだったルカは、とうとう罰則を命じられる羽目になった。
重い足取りで教授の自室に向かう。
いつもなら心が弾む筈の道のりが辛かった。
意外に不器用だったんだなと自分を振り返りながら、ルカは力なく笑う。
実習のことではない。
自らの心中を未だに整理できないだけならまだしも、それを素直に態度に出してしまう自分のことだ。
教授にちゃんと謝ろう。
まずはそれからだと思い直した。
そう言えばこの件に対するお咎めはまだないと、今頃になってルカは考える。
やはり、薬の所為で覚えてはいないのだろうか。
それとも。
彼女が扉をノックする音はいつもより小さかったが、その扉が開くのはいつもより早いような気がした。
部屋に入室してからも、ルカは教授の目をまともに見ることができないでいた。
「君に対する罰則だが、薬の原料とその効果についてAから順に書き写していただこう。どの文字で終わるかは…君の努力次第だ」
机の上には相当分厚い魔法薬の材料辞典が用意されている。
表紙を確認するだけでも随分使い込まれている様子が解った。
開いてみると細かい文字で注釈まで書かれてあり、教授が長年愛用している本なのかもしれないとルカは思う。
書くことで覚えるものだと、教授は教師の域を超えない態度でルカに椅子を指し示した。
「その前に謝らなければならないことがあります」
「…珍しく殊勝なことだ。だが、どの件かね?」
勇気を振り絞って教授を見上げると、心当たりが多過ぎると言って彼は口の端だけで笑った。
昨夜の件ですと小声で告げた後で、椅子に掛けたルカは深呼吸する。
それから本当なら思い出したくもない話を教授に聞かせた。
薬を飲んだ教授がどんな態度だったかは簡潔に伝える。
それでも多少の動揺を覚えてしまったが。
「謝って済むことではないと思いますが、知らない振りもできませんでした」
本当にすみませんとルカは頭を下げた。
しばらく何かを考えていた様子の教授は、それで今日は調子がおかしかったのか?とルカに確認する。
普段通りではないことに気付いてくれていたのだと喜ぶ元気も今のルカにはなかった。
彼女が力なく頷くと、彼は盛大な溜息を吐いた。
「君は私に愛の妙薬を飲ませたと信じ込んでいるようだが、本当にそうだったと考えているのかね?」
思いもよらない教授の言葉にルカはただ驚き、彼の顔をまじまじと見つめた。
「違うんですか?」
教授は心底呆れたような表情を浮かべた。
溜息混じりにしたたかな君らしくもないと、褒められているのか貶されているのかよく解らないことまで言われる。
「他の可能性を考えようとはしなかったのか」
その言葉の意味を理解することができないまま、ルカは教授を見ていた。
@あの薬は愛の妙薬だった。君の考える通り、私は心にもない告白をさせられ、そのことにより君は授業で無様な醜態を晒す程苦しむことになった。
Aあの薬は確かに真実薬だった。かねてより君に想い焦がれていた私の態度がその薬の効果によって表面化した。
B全くの偽物だった。当然効き目はない。だが君たちの下らん悪行を予め知っていた私は紅茶を口にすることなく、有頂天になった君たちを懲らしめる為に乗せられた振りをした。
Cどちらかの薬は確かに入っていた。だが君の様子からその薬に事前に気付いた私は紅茶に手を付けず、飲んだ振りをして、普段は決して言えない想いの丈を口にした。
「細かに分析すればまだ出る筈だ。すなわち、どうとでも考えられる」
平然と言い放つ教授にルカは唖然とするしかなかった。
頭ごなしに怒鳴られてもいいくらいなのに、冷静にそれらの考えを披露する彼の意図はどこにあるのだろう。
しかもそれらが嘘にしろ事実にしろ、当人の口から語られるには相当驚くべき内容だ。
「AかCなら願ったり叶ったりですけど、私はそこまで自惚れてはいません」
「…ほう。わきまえているようだな」
その言葉にルカは多少落ち込みながら、残った薬を調べれば可能性を絞ることはできると考えていた。
それでも真実には辿り付けない。
教授のこの言い様から察するに、B辺りが妥当なところだろうか。
試した小瓶以外は偽物だったのだ。
もしくはどちらにしても薬は本物で、計画を前もって知られていたか、或いは直前に気付かれたかで、結局のところはかわされてしまったという可能性も有り得る。
そう考えるとどんだけ意地悪なんだこの人はと思わないでもなかったが、一番納得のいく真実でもあった。
それにしても、あれが演技だったと考えると思わず笑いがこみ上げる。
そこら辺の俳優も顔負けじゃないか。
同時に、演技であそこまで振舞えるのかと思うとへこみたくなった。
まだまだだな、自分。
笑ったり泣きそうになったりしていると、たちまち教授に不審そうな顔で睨まれた。
当人のふてぶてしい態度を眺めていると、あんなに落ち込んだのが馬鹿みたいだとルカは思った。
それでも薬を使用することに対する心構え、大切なことは身を持って知ることができたとも思う。
呪文にしても薬にしても、使う時にはそれらが及ぼす効果を考え、それなりの覚悟が必要なのだ。
もしかして教授はそれを教えたかったのだろうか。
そう考えるのは買い被り過ぎだろうか。
「正解を教えては…貰えませんよね」
「知りたいならば、今度こそ私に真実薬を飲ませてみることだ」
そう言って彼は腕を組むと居高な態度で嘲笑した。
前言撤回。
自らの過失もさて置き、これは相当悔しい。
ルカは机の下で拳を握り締めた。
それでも私は、そんな貴方が好きなのだ。
面と向かってそう言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
「何をぼんやりしている。さっさと済ませたまえ」
罰則のことをすっかり忘れていたルカは、改めて分厚い辞典と教授とを交互に見やった。
「明日までかかると思うので今夜は泊めて下さい」
「五点減点」
「最悪。陰険。鬼。悪魔。人でな(以下略)」
机に両手を置いた教授の顔がルカの間近に迫り、この間の熱い眼差しを思い出した彼女の鼓動は大きく跳ねた。
「私にそれだけの口を叩ける度胸は賞賛に値する。だが今はその小賢しい口よりも手を動かした方が君の為だ」
せっかくの魅惑的な低い声で今度は脅迫か…だがこれでこそ教授だ。
そして無駄にドキドキしたのが馬鹿みたいだ。
ルカは仕方なく机に目を落とすと渋々羽ペンを手に取った。
それにしてもAだけで何ページあるんだこの辞書は。
まさかこの細々とした注釈まで書けなんてことは…。
早くもルカがうんざりし始めた頃、紅茶の入ったカップが机の端に置かれた。
「何も入っていない。安心して飲みたまえ」
教授はこの皮肉が言いたかっただけかもしれない。
顔を上げると案の上で、彼は意地の悪い笑みを浮かべている。
「教授に聞かれて困ることなんて、私にはありませんよ」
それに愛の妙薬だって必要ありません。
胸を張って笑顔でそう返すと意表を付かれたような教授の表情が目に入り、ルカは少しだけ胸がすく思いを味わった。
教授の語った多くの偽りと幾許かの真実。
彼女は知らない。
そこに彼女の思いも寄らない彼の本心の欠片が紛れていたことを。
Harry Potter Top
20090501