早朝の突き刺すような冷気を頬に感じる。

 何かに魅きつけられたかのように歩き出すと、踏み応えのない新雪に瞬く間に飲み込まれた。

 静かに降り続ける雪は止むことを知らず、柔らかくも冷たいその姿は、行く手を阻む意志ある何かにも思えた。

 視界が狭い。

 普段であれば、ここからでも見える筈の禁忌の森は、今は鬱蒼としたその輪郭さえ伺い知ることができない。

 見渡す限りの広大な白い世界に於て、矮小な自分の存在を馬鹿馬鹿しく感じた。

 このまま雪に埋もれて、くたくたな思いも何もかも綺麗に消滅してしまえばいいのに。

 色々な煩わしさから開放される時の気分は最高に違いない。

「あ…何もかも消えたら、そんな気分も味わえないか」

 それでもその誘惑はとても蠱惑的だった。

 冷え過ぎて既に感覚の無い両足をまだ動かせる程に。

 ふと振り返ると、一人分の獣道ができていた。

 その即席の小道の向こう側には、寮の塔が影のように遠くに見える。

 ここまで来ても尚、くだらないことを色々と考えている間に結構進んでいたようだ。

 視界が悪いので、実際にはそんなに遠くないのだろうけれど。

「流石に、もう歩けないかな」

 果てしなく降り続ける雪を次々と生み出す、鈍色の空を見上げる。

 そのまま白い大地を褥に寝転がった。

 顔に降りかかる雪の冷たさが不快だったが、暫くすると気にならなくなった。

 もう少し待てば、何もかもが不快ではなくなるのだろうか。





 一面の白い視界に、突如暗い影が飛び込んだ。

「あー…死神が迎えに来た。やっぱり黒いのか」

「誰が死神だ」

 黒衣の男は眉間に皺を刻んで、雪に埋もれたルカを睨んだ。

「おや教授ではありませんか。奇遇ですね。何故こんな所に」

「それは我輩の台詞だ。一体何をしている」

「話せば長くなるので聞かないで下さい」

「要約して話せ」

 ルカは苦笑しながら教授を見つめた。

「言うなれば…命の洗濯?簡単には消せないので取り敢えず」

 ルカの不可解な答えに、彼は怪訝な表情を浮かべた。

 それでも不機嫌な様子に変わりないのだけれど。

「いつまでそうしている気だ」

「気が済むまで」

「馬鹿者。早く起きろ」

 教授はルカの腕を強引に掴んで引き起こすと、杖を振って彼女の周りの雪を消した。

 杖をローブにしまうとルカの手を掴み、その驚くような冷たさに忌々し気に舌を打つ。

「全く…何をやっているんだ」

「…温かいですね。教授の手。お約束的ですけど心が冷たいからですか?」

「こんな状況でも減らず口だけは健在か」

 呆れたような表情で、教授はルカを睨んだ。

「心外ですね。私なりに感謝してるのに」

 白い世界に救いを求めに来たというのに。

 闇をまとった男に救われてしまった。

 私は安堵している?

 否、酷く嬉しいのだ。

 不意に胸中を込み上げた感情は、彼の姿と周りの景色を徐々にぼやけさせた。

「何故泣く」

「予想外の出来事に、冷静に対応できないみたいです」

 その漆黒の闇は、周囲に広がる白い大地よりも遥かに包容力があるように見えて、それに埋もれてしまいたくなる。

 頬を辿る微かな温もり。

 自分の中にまだ熱を帯びたものが残っていたのだと頭の片隅で考えながら、教授の黒いローブに触れた手に力をこめる。

 気付くと、彼を下敷きにして再び雪の中に倒れ込んでいた。





「お前は一体何を…!」

 教授の怒声は、自分の腕の中で咽び泣くルカの様子を捉えた時点で止まった。

 肩を震わせているのは寒さの為ではないのだろう。

 嗚咽を堪えて、必死に自分の黒いローブを掴んでいる。

 懸命に自分に縋る華奢な体を、一瞬力任せに抱き締めたい衝動に駆られた。

 両腕を彼女の背中に回したところで、彼は自嘲気味に笑う。

 親にぐずる子供のようなものだ。

 半ば無理矢理結論付けることで、何故か余裕のようなものが生まれた。

 子供をあやすように、ルカの背中を撫で擦ってやる。

 何があったかは尋ねないことにした。

 それを聞いたところで、ルカの背負ったものがどうにかなる訳ではないことが解るからだ。

 彼女もそれを求めていないからこそ、このような状況に陥っているのだと思った。

 ひたすらあやした(?)その後に、ルカの呼吸が整ってくると、教授は大きく溜息を吐いた。

「…お前と校内で遭難するつもりはないぞ」

「私はそれでも良かったんですけど、貴方には生きていて欲しいので諦めることにします」

 自分の胸元で、ようやくいつものルカの無駄口が聞こえたことに彼は安堵した。

「何戯けたことを言っている。早く起きろ」

「…もう少し貴方の高鳴る胸の鼓動を聞いていたかったんですが、これも諦めます」

 近々同じようなシチュエーションが実現することを期待してますなどと小声で呟きながら、全く動く気配のないルカを見限ると、教授は彼女を抱え込んだまま起き上がった。

 ふらついたルカをすかさず支える。

「優しいじゃないですか教授。一体どうされたんですか」

「さあな」

 そう投げやりに答えると、今の今まで泣いていたのが嘘のようにルカは屈託のない笑顔を向けた。

 教授はその笑顔に何故か苛立ちを覚え、ルカに付着した雪をやや乱暴に払った。

「痛い痛い。もう少し丁寧にお願いします」

「喧しい」

 教授は杖を取り出し、ルカと自分に向けて一振りする。

 雪で濡れていた二人のローブが瞬く間に乾いた。

「…授業が始まる。戻るぞ」

 そう言い捨てて踵を返した教授は、ルカを振り返る事なく足早に雪道を進んでいく。

 ルカは慌てて教授の後を追った。





「さっきまでは、この白銀の大地が天使のように見えたんですけど、天使より悪魔に惹かれる人間の気持ちがよくわかりました」

「誰が悪魔だ」

「優しい悪魔ですね」

 早い歩調を緩める事なく、教授は忌々しげにルカを睨んだ。

「君のせいで貴重な時間が台無しだ」

「それはそれは申し訳ないことを」

 あまり申し訳なさそうでもなく、大袈裟に肩さえ竦めながらルカは詫びた。

「今日の授業後、器具の片付けは全部君一人でやれ。魔法は使用禁止だ」

「それって全然罰じゃないですよ」

 教授に言われずとも、時々自らやっていることだからだ。

 他の生徒が嫌がることを何故率先して行うのか、教授は考えてくれているのだろうかとルカは思った。

「後は課題だ。外気温変化に対する身体反応を詳細に明記。その症状回復に効果のある薬の原料及び精製、使用方法を羊皮紙二巻分にまとめて提出」

「え?」

「たった今身を持って体験したことだ。簡単ではないか」

 口の端を微かに上げて薄く笑う教授に、やっぱり悪魔だとルカは小声で呟いた。

「それ以上の不遜な発言は減点対象とする」

「職権乱用じゃないですか。…でもそんな悪魔なのに、魅力的なんですよね」





 何気なくルカの口から零れた台詞が、自分の足許を掬うような錯覚に、彼は軽い眩暈を覚えた。

 それは、まるで罠に墮ちるような。

 決して不快ではないものに、けれどじわじわと絡め獲られるような。

 辛うじてのところで堪える自分がどこかにいる。

 どちらが悪魔だ。

 そして、本当に心惹かれているのは。



200502



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