随分と甘くなったものだと彼は自嘲する。
彼女に対してではなく、自分自身を律することに。
感情を伴うからこそ人は苦悩し、己は不幸だと悲嘆する。
ならば、排除してしまえばいい。
余計なものなど。
光があるからこそ人は暗闇に畏怖の念を抱く。
ならば闇に馴染み、手探りで這えばいい。
今迄そうやって生きてきた。
そして、これからもそのつもりだった。
だが、その意志を阻む者が現れた。
彼女は私の目の前にいる。
私のすぐ傍に。
「悩める子羊よ。そなたの告解を聞いてしんぜよう」
わざとらしく作った低い声とふざけた口調で紡がれた彼女のその言葉は、明らかに私に対して向けられたものであった。
「…誰が子羊だ」
「眉間の皺がどうしても取れない、仏頂顔の可愛くない黒い子羊ですね。あ、今また皺が深くなった」
堂々と侮辱的な言葉を投げ付けてくる彼女に多少立腹したものの、言いたいことは充分に理解していた為、これ見よがしな溜息を吐くだけにとどめる。
「打ち明けて解決するものであれば、とうにそうしている」
「解決しないに違いないと、決め付けているだけかもしれませんよ?」
幾分妥協した回答を出してみたものの、それでも尚しつこく食い下がる彼女を私は鋭く睨んだ。
「君に言ったところで、どうにもならんということだ」
「その通りです。多分どうにもできません」
意外にも彼女は怯む様子さえ見せず、私の言い分を素直に認めた。
「それでも私は大好きな人の力になりたいといつも思っています。誰の支えも必要としないような強い誰かさんに、少しくらいは頼られてみたかったというのもありますけど」
でも今回ばかりは相手が悪いし、流石に無謀過ぎましたねと彼女は笑った。
何故かその笑顔をまともに見ることに抵抗を感じた私は、彼女から目を背けた。
「私は強くなどない」
「本当に強い人は、自分は強いぞと慢心しないでしょうね」
「そうだろうな。だが…事実だ」
再び視線を転じると、何も言わずに頷く彼女の姿が目に映った。
「では強くない者らしく、そろそろ自分の為だけに生きたっていいのでは?」
もう充分罪は償ったでしょう?
彼女の声は、まるで天からの救済のように私の脳裏に響き渡る。
或いは悪魔の誘いのように。
それは、酷く抗い難いものだった。
彼女に言われるまでもなく、ともすれば屈してしまいそうな自分自身と私は長い間闘ってきたのだから。
不必要なものを、僅かな光さえも自ら振り払いながら。
「一体何の話だ」
「今更はぐらかしても無駄ですよ」
彼女の言葉は容赦なく私を追い詰める。
未だにどこかで決意しかねている、私の脆弱な部分を探り当てて暴き出すかのように。
「…まだだ」
低く呟いた私の言葉に彼女は僅かに首を傾げた。
「まだ、終わっていないのだ」
今はそれだけしか言えない。
だが、これ以上誤魔化すつもりもない。
常に湛えている笑みを収め、真摯な表情で真っ直ぐ私を見つめる彼女の姿があった。
いつもの朗らかな様子はなりを潜め、全てを見通すかのような強い意志を感じる。
暫くの後、彼女は解りましたとだけ言った。
私のその一言だけで、全てを察したかのように。
「でも、孤独だなんて思わないで下さい」
嫌がられてもそばにいますよと言った後で、彼女は屈託なく笑う。
教授の心の内なんてとっくにお見通しですよ、とも。
「自信過剰だな」
「まさか。愛の深さゆえにです」
堂々たる態度で即答しておきながら、私と目が合うと慌てて目を泳がせる彼女に苦笑を覚える。
赤く染まった頬に笑いがこみ上げそうになり、同時に愛しさをも感じていた。
若くて未熟で愚かな君は、時として驚くような強さをも私に見せ付ける。
その伸びやかで率直な君の感情が眩しく、疎ましくもあり羨ましい。
そんな君の存在に、どんなに私が救われているか、果たして君は知っているのだろうか。
常時まとわり付いて離れることのない苦悩と葛藤。
それらと背反しつつも共にある、胸を焦がすような想い。
今の自分には不必要で忌避すべき感情の筈だった。
何と愚かで脆弱なことか。
だが、それでも。
「ルカ」
「何でしょう?」
「今度は君の告解を聞くことにしよう。よもや拒否できる立場にないことは、重々承知している筈だが?」
途端に顔をしかめる彼女の様子を見届けながら、私は口の端だけで笑った。
本当の告解は、今後も決して口外することはない。
彼女の為に、そして自分の為に。
だが自分のそばに、手を伸ばせば届く距離にいる彼女を目にするその度に、その意志が脆く崩れそうになるのも確かなのだ。
そうと解っていながらも尚、こうして君と過ごす時間を大事に思う自分もまた愚かだと笑った。
200705