灯を近付けると夜の深さが真実に思われる。

 物音のしない月夜の中へ、緩やかに歩み去ってゆくものを感じる。

 露じみた青い世界の冷たい暗室が、私のこの一つ身だ。

 眼を閉じるようにして灯を消したあと、真白く冷たい敷布にしばらく手を触れていた。

 辺りは幾千年代わり映えのない静寂と深い闇。

 私は思う。

 せつに思う。

 我が世を澄んでくる一つの影を。

 我が身に潜む大いなる影を。

 微かに呼吸をまたたかせ、私はもう一遍開いてみる。

 夢を得ようとしない我が瞼を。




 
 彼は確かに存在する月夜の中に佇んでいた。

 今しがたの夢か現か判別のつかないものではなく、目前に広がる夜の世界と己の身体の重さは確かにそこにあった。

 雪こそ降ってはいないものの、突き刺すような冷気を孕んだ風が絶えず彼の体温を奪い続ける。

 それは役割を果たせずにいた、彼の脆弱な睡魔を彼方へ追い払った。

 仄かな月明かりの中、湖畔に小さな人影を見留めた彼は自らの目を疑う。

 だが彼の双眸が捉えたものも、確かにそこに存在していたのだ。





「何をしている」

「教授こそ。こんな時間にどうされたのですか?」

 その影は夜毎彼を苛み脅かす類のものとは異なり、多少の驚きを含みつつも親しみを込めた笑みを彼に向けた。

「私のことはどうでも良い。質問に答えたまえ」

「実は時々こうやって散歩しているんですけど…とうとう見つかってしまいました」

 生徒の誰もが震え上がる容赦のない教授の詰問に、ルカは笑みを湛えたままのんびりと返事をした。

「答になっていない」

「思い煩って眠れなくなることは誰にでもあります。こればかりは先生も生徒も関係ないですよ」

「だとしても、規律を侵す理由にはならん」

 何気ないルカのその言葉が、実のところ核心を突いていることに対して、教授は無関心を装い平常通りにやり過ごした。

 そのような意図など、彼女には微塵もないのかもしれない。

 だがほんの僅かでも彼の心にさざなみを起こすことに、彼女の預かり知らぬところで成功していたのも事実だった。

 ルカに開心術の心得はない。

 一介の生徒に過ぎない彼女を、魔術に長けた者たらしめているものは一体何なのだろう。

 しげしげと教授の表情を眺めながら、私と違って恋の悩み等ではなさそうですねと言ったルカは、身体を震わせると自分のまとったローブを掻き合わせた。

 凛と冴えた夜気の中で、彼女の息は白く曇っている。

 そして自らが吐き出す息もまた。





「教授の抱えるものに比べたらおよそ取るに足りない悩みですけど、それでも私にとっては一大事なんです」

 大好きな貴方を、どうやって振り向かせようかと。

 過酷なものに独りで立ち向かおうとしている貴方に、私は何ができるだろう。

 恐らくそれを望まない貴方に、私は。

「罰則を覚悟で、深夜に部屋を抜け出す程にかね。しかも散歩には到底不向きな時季でもある」

 真顔で教授を見つめた後で、ルカは破顔する。

 後の方の言葉はそのまま教授にお返ししますと、楽しそうに答えた。

「その点教授は罰則がなくていいですね」

「その分罰則を何とか免れようと下らぬ画策を凝らす者や、何故その状況に至ったのかを考えもせず、それを教訓ともしない生徒に手を焼いている」

 お前もその一人だと言わんばかりの教授の険しい表情とその視線に、ルカは自分の状況も忘れて思わず吹き出しそうになる。

 その代わりに、成程それはそれで大変ですねえと自分のことは棚に上げつつ、訳知り顔で何度も頷いて見せた。

 頭痛を覚えた教授は、眉間の皺を更に深く刻むと溜息を吐く。

 だが一向に悪びれないルカの態度に、結局苦笑せざるを得なくなった。

 そして彼は気付いていない。

 夜毎自らを苛むものを、僅かな時間でありがらも完全に忘れ去っている自分に。





「学び舎では誰もが一度は辿らざるを得ないことではある。潔く諦めたまえ。もっとも、優秀な我が寮生ならば本来はその限りではない筈なのだが」

 お決まりの皮肉と共に教授は嘲笑を浮かべる。

 だがそれらが本来及ぼす筈の影響も、ルカには全く無効のようだ。

「その口振りだと、教授も学生時代にはということですか?それともその限りではなかったのでしょうか。当時の話をいつか聞かせて下さいね」

 相変わらずの彼女の笑顔に対し、教授は相変わらずの険しさを維持している。

「その前にやるべきことがあるだろう」

 彼はそう冷たく言い放つと、脇道に逸れそうになった話を即座に軌道修正した。

「別に抵抗している訳ではありませんよ」

 どうぞ何なりと言いつけて下さいと、ルカは教授を見上げている。

 罰則を受けるには、そして厳寒なこの場所には似つかわしくない穏やかな笑顔で。

「いつまでここにいるつもりだ」

「貴方がここにいる限り」

「ルカ…10点減点だ」

 何だかタイミングがおかしくないですかと不満げなルカに、教授は戻るぞと言った後で彼女に背を向けた。

「明日の授業後に残りたまえ。罰則はその時だ」

「わかりました。でも、こうして教授に会えるのなら、私は懲りずに繰り返してしまうかもしれません」

 既に歩き出していた教授は、思わず立ち止まるとルカを振り返った。

 小柄な影が懸命に彼の後を追って来る。

 自分には馴染みのない類の、例え手を伸ばしても届かない、別の道程にある筈の影が。

 だから貴方から命じられるそれらは、本来の意味を成さないのだと。

 だから教訓になんてできないのだと。

 そう言って朗らかに笑う彼女の姿は、僅かな月明かりだけが頼りの夜の中でさえ眩しく、彼は思わず目を細めた。

 自らに潜む暗い影を、歩むべき闇夜の深さを、否応なく思い起こしながら。



200702



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