寡黙な人だと思った。

 皮肉や嫌味や小言や説教といった毒を吐くことに関しては煩いくらい饒舌なのに、大事なことは滅多に口にしない人だと思った。

 時折それらの悪態に混じって紡がれる肝心なその言葉は、油断しているとあっという間に耳元を擦り抜けてしまう。

 その残滓を記憶の淵から丹念に拾い集めては、それに一喜一憂する自分がいる。

 そして、知ってしまった。

 彼の計り知れない強さを、捻くれた優しさを、意外な不器用さを。

 そんな彼に、私はこの上なく惹かれて止まないのだと。

 だから彼を失うことには、どうしても耐えられないのだと。





 驚くべきことに、教授からロンドンへのデートに誘われた。

 正確には魔法薬の材料の仕入れに付き合わされるだけなのだけれど、こうなればデートも同然だった。

 将来はその方面の職種に就きたいと考えている私に対し、勉強の一環だと教授は事も無げに言ってのけた。

 こっちはデートのつもりでいても、当人は含むところなど一切持ち合わせておらず、純粋に自らが発言した通りのスタンスで振舞うのだから決まりが悪い。

 素直に喜ぶのが何だか癪で悔しくて、仕方ありませんね、その日は予定もないし確かに学ぶべきことがありそうだし付き合って差し上げますと、つい偉そうな返事をしてしまった。

 この可愛げのなさとは裏腹に、私がその日を指折り数えてそれはそれは楽しみに待っていると知ったら、教授はどう思うだろう。

 実のところ、何も言わないけれど彼はとっくにお見通しなのかもしれない。

 それに関しては、何故か素直に受け入れることができた。

 同時に、私は無理に背伸びしているだけなのかもしれないと少しだけ反省もした。

 誰かを想うことは自分の未熟さや愚かさを自覚するだけでなく、時として自己成長にも繋がるのだと一人で納得もしていた。





 そしてデート当日(もうそういうことにしておこう)、マグルの薬店にも立ち寄るという理由により、ダークスーツ姿の教授と対面した。

 僅かばかりの違和感を抱きつつも、文字通りスパイさながらのその格好に、見とれるどころか笑い出しそうになる。

「ネクタイ、曲がってますよ」

 そう言い終わる前に、私は少し背伸びをして教授の首元へと手を伸ばした。

 先程身支度を終えたばかりなのだがと怪訝そうに呟く教授をよそに、実は一部の隙もなくきっちりと締められているそれを適当に整える振りをする。

 避けられなかったことに安堵しながら、別に外そうという訳ではないのだし、せめてこれくらいの役得は大目に見て欲しいとも思った。

「ルカ」

「なんでしょう?」

「人の世話を焼いている場合かね?」

 とても間近で目が合ったものの、途中までで止まっているらしきブーツのファスナーを指差され、照れる間もなく下を向く。

 何て目敏いのだろう。

 スカートのファスナーじゃなくて本当に良かった。

 さすがに上げて下さいと足を差し出す訳にもいかず、後でやろうと思っていたんですと下手な言い訳をしながら自分で直した。





 色気も素っ気もなく、教授と二人で薬屋と本屋を巡る。

 ひらすら地味でありながらも、十二分に有意義な時間だと思った。

 要するに彼と一緒に過ごせるならば何だって構わないということだ。

 連れて来たことを後悔されても困るので、本当は大騒ぎしながらはしゃぎ回りたいところを、何とか堪えて満面の笑み程度に抑えた。

 そんな努力の甲斐もなく、教授からは何か不気味なものを観察するような目つきで見られたが、今日ばかりは一向に気にならなかった。

 次々と視界に飛び込む薬の材料は、教授の研究室や薬品庫の規模を大幅に広げたかのようだ。

 可憐に見えて実は猛毒を持つ植物、瓶詰めされたグロテスクな物体、教授が手にする材料の数々。

 勉学の為と言うより、実は好奇心の方が遥かに勝った私の質問に対しても、教授は逐一丁寧な解説を施してくれた。

 このような彼の優秀な教師ぶりが、大勢の生徒たちへ生かされていないことが残念だ。

 けれど少し考えた後で、それはやはり自業自得かもしれないと苦笑した。

 夏季休暇に教授と偶然出くわした薬店へも足を向けた。

 人の良さそうな店主は、すぐに私を思い出してくれたようだった。

 教授が付近にいないのを見計らいながら、彼は今でも捻くれた宿題を出すのかいと同情したように聞いてきたりもした。

 本屋では教授の存在を忘れたかのように本に没頭してしまった。

 ホグワーツの図書室は蔵書の数こそ膨大なものの、生憎新書には恵まれていない。

 寮生活ともなればホグズミードを除いて滅多に遠出することもないので、こんな機会は皆無だった。

 そんな私の様子を見て苦笑する教授がいたことに、その彼の視線が穏やかなものだったことに、結局私は気付かなかったのだけれど。





 マグルの薬店でも幾つかの材料を購入し、店員にポンド紙幣を差し出す教授を不思議な面持ちで眺めていた。

 恐らく彼は、どの世界でも生きていけるのかもしれない。

 さも仕方ないといった不機嫌な態度で、けれど意外な程の順応性を発揮して。

 どことも知れぬ街の喧騒に紛れ、誰も彼を知らない場所で、密やかに息衝くことも可能なように思えた。

 その時不意に思い付いたある考えは、私の脳裏に焼き付いたままいつまでも離れなかった。





 せっかくだからロンドン・アイに乗りたいという私のリクエストはすげなく一蹴され、テムズ川の河畔で指を咥えて巨大な観覧車を遠巻きに眺めるだけに終わった。

 赤い陽が傾き、空が藍色に染まり始めると、入れ替わるように地上の世界には人工的な明かりが灯り始めた。

 水面に反射したそれらの光が眩しくて、思わず目を細める。

 綺麗な偽りの光の所為で、闇は更に深くなるというのに。

 また、夜が来る。

 どんなに暗くても、いつかは必ず明けることを約束された夜が。

 彼が歩む夜には、果たして黎明の光が与えられるのだろうか。

 目前に広がるその景色は、人を感傷的にさせる何かを持っていた。

 否、それは無理矢理なこじつけに過ぎない。

 先程から考えていたことを、私はようやく口に出して伝える勇気と機会に恵まれた。

「このまま、一緒にいなくなりますか?」

 貴方を知る全ての者たちの前から。

 誰も貴方を知らない、どこか遠くの地へ。

 その言葉を瞬時には理解できなかったかのように、教授は私を凝視している。

 聞き逃した訳ではない筈だ。

 確かにその言葉は、一字一句正確に彼の元へと届いている。

 険しい表情で黙ったまま私を見つめている教授のその様子は、虚を衝かれた自分を押し隠し、冷静に立て直しているかのようにも見えた。

 或いは自分に都合良く考えてしまうならば、大いなる苦悩と葛藤に苛まれているようにも。

 けれど、閉心術に長けた彼の本意が掴める筈もなかった。

「…下手な冗談だ」

 ようやく教授は溜息混じりに言葉を吐き出した。

 珍しくも力のない低い声に、暖色灯の下でさえ血色の悪い顔。

 急に彼に濃い疲労の影が差したように見えた。

「冗談ではありません」

 私は教授に向き直った。

「どうしても失いたくないんです。貴方を」

「…私はいつ君のものになったのだ?」

 幾分気を取り直したように、そう言って口の端だけで嘲笑する教授を、けれど私は真摯な表情を保ったまま見つめていた。

「そうだといいのにとは常々思っていますが、寧ろそれは二の次です。貴方だけを逃がすことも…」

「私を誰だと思っている。そう簡単にはくたばらん」

 皮肉的な笑みを滲ませたまま、何でもないことのように教授は語る。

 君に心配されるとは、私も落ちたものだなと。

 そうだ。

 いつもそうやって彼は、肝心で稀有なその言葉を憎まれ口の中に混濁させてしまう。

「簡単でも難航でもくたばってもらっては困ります」

「下らない屁理屈を…」

「はぐらかさないで下さい」

「はぐらかしてなどいない。私は真剣だ」

「私だって真剣です」

 今や完全に陽の落ちた宵闇が二人を取り囲んでいる。

 元々険しい教授の表情は益々悪化の一途を辿り、今にも怒鳴り出しそうな雰囲気さえまとっていた。

 もしくは、それが彼なりの苦悩の表現方法なのだろうか。

 けれど、今更引く気はない。

 私の様子を見て取った教授は、やがて目を逸らすと深い溜息を吐いた。

「無理だ」

 そのたった一言を、彼は酷く重いもののように吐き出した。

 それを受け止めた私にも、その言葉は重圧を伴い重くのしかかる。

「…どうしても?」

 どうしても貴方は立ち向かうつもりですか?

 どうしても使命を全うすると?

 自らの命をかけてまで?

 疑問符に続く後の言葉は、口に出すことができなかった。

「ルカ。…私は」

「解りました。今までのやりとりは度の過ぎた際どい冗談だと思って忘れて下さい」

 気が変わった時は言って下さいね。

 今は冗談でとどめておきますから。

 笑顔で言い切る自信があったのに、余計なものが付いてきた。

 こみ上げる自分の感情は、目の前の教授と背後の景色をぼやけさせる。

 それは不甲斐ない自分に対する悔しさの涙なのか、彼の決意に対しての悲観的な涙なのか、自分の為だけの愚かな涙なのか判別がつかない。

 恐らく、全てだ。

 黒い影が私に近付き、ぼんやりとした視界を真っ黒に覆い尽くした。

 息苦しい程の圧迫感に包まれる。

 私は、教授の腕の中にいた。

「これも冗談の延長ですか?」

「そう思いたければ、それで構わん」

 耳元で聞こえた低い声と共に、更に強められる教授の両腕。

 彼の懐に残る仄かな薬の匂い。

 そして留処なく零れ落ちる涙。

 このぬくもりが失われることに、やはり私は耐えられそうにない。

 けれど。

 それでも、貴方は。

 夢にまでみた教授との抱擁は、実際には酷く辛く胸が痛むものだった。





 何事もなかったかのように、私たちは元いた場所へと帰途に着く。

 実際何事もなかったのだ。

 結局私には何事も起せなかった。

 彼自身がそう望んだ。

 何もかもを覚悟して、何もかもを背負って、断固とした強い意志をもって。

 偉大なる魔法使いの庇護下にある、あの場所へ。

 彼にとってはかりそめの平穏に過ぎない、あの場所へ戻ることを。



200702



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