「一体何の真似だ」
冷たく、低く。
にもかかわらず、耳に心地よく響く声。
ルカは羽ペンを持つ手を止めると、羊皮紙から顔を上げた。
すぐ間近にある教授の険しい表情に思わず見蕩れる。
万人に対し、今私は不愉快極まりないのだと明瞭に伝わる筈の無言のメッセージも、ルカからすれば愛しい人のチャームポイント以外の何者でもない。
すべからく絶対零度を孕んだ冷酷無比で殺人さえ可能に思われる視線や、死人と同等の顔色の悪さや(数え上げるとキリがない為以下略)、彼のまとう闇でさえも。
そんな教授を見つめたまま、ルカは朗らかな笑みを浮かべた。
「先程も言った通り眼鏡が行方不明なんです」
「…それと今の状況がどう関与しているというのだ」
教授の執務机に、二人は肩を並べて向かっていた。
正確にはルカが机の三分の一程を教授の許可なく占拠し、そこに自分のレポートや参考文献を広げ、隣りに居座っているという有様だ。
「私目が相当悪くて。もう今日は一日大変でした。遺失物を見つける魔法ってありませんでした?寧ろ視力自体の回復を切望したいところですけど。そんな薬、作っていただけませんか?」
好き勝手に喋るだけで全く要領を得ないルカの言葉に、教授の眉間の皺は益々深まるばかりだ。
「決して邪魔はしませんから。お互いのやるべきことに集中しましょう」
教授の凶悪な表情に全くもって怯むことなく、ルカは再び羊皮紙に目を落とした。
本当に集中してレポートに取り組みだした彼女を睨み付けながら、彼は深い溜息を吐く。
それは自由奔放な彼女に呆れたからなのか、そんな彼女を追いやることができない自分に対してなのか。
恐らく、両方なのだろう。
「だから何の真似だと聞いている」
ルカのレポートが仕上がると、今度はソファで二人は肩を寄せ合い座っていた。
正確には休憩を兼ねてソファに移った教授の隣りに、紅茶を運んできた彼女が密着して座っているという有様だ。
「だから眼鏡が行方不明なんです。何度も同じことを言わせないで下さい」
「それは私の台詞だ。君が眼鏡を失くしたことと今の状況の関連性を説明しろと言っている」
ルカはポットから紅茶を注ぐと、幾分落胆した表情で教授を見上げた。
「ぼやけちゃって全然見えないんですよ…何もかも」
依然として納得しかねる様子で自分を見据える教授に、ルカは微笑む。
「勿論、教授の姿も」
ようやくルカの意図を理解した教授は、眉をひそめると一瞬の間を置いて口を開いた。
「…それが何か支障を来たすとでも言うのか」
「大いに来たしますよ!寧ろ教授が見えないことこそが重要な問題で。だからこそ、この状況な訳です」
一石二鳥だしとルカは小声で呟き、それは教授の耳にもしっかり届いていた。
「いい度胸だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「…褒めてはいない」
「そんなに凄まないで下さい。別に喧嘩を売ってる訳ではないので」
相変わらず笑みを湛えたままのルカに、教授は何度目かの溜息を吐く。
「…用件は済んだのだろう。それを飲んだら部屋へ戻りたまえ」
「はいはい」
「聞いているのか?」
「ちゃんと聞いていますよ。何しろ大切な人の言葉ですから」
そう言って自分を見上げたルカの瞳は、レンズで遮られた普段とは違った雰囲気を含んでいるように見えた。
もっと、近くで。
突如心の奥底から湧き上がった衝動は、気のせいだと自分に言い聞かせる。
けれど。
呆気なくそれに支配される自分がいることも確かだ。
そう自覚した時には、彼の手はルカへと伸びていた。
自分を挟み込むようにして、ソファの背凭れを押さえている教授の両腕がある。
この状況を認識できず、ルカはぼんやりと教授を見上げていた。
「…もしかして、想いが成就したと思っても?」
ようやく自分の状況を把握した後に思わず呟いた台詞は、駆け引きのないルカの本音だった。
教授の闇色の瞳が静かに、けれど確実に自分を捉えている。
ルカは我知らず高鳴る鼓動を宥めた。
「…君には、何も見えてはいない」
「こんなに近ければ、さすがに見えますよ?」
「違う。私の何を見ているというのだ」
そう低く囁く教授の声音は、どこか普段の冷静さを欠き、しかも非難めいていた。
「見ているけれど見えてはいないもの…もしかして、なぞなぞですか?」
ルカは屈託なく笑い、けれど教授の厳しい表情に変化はなかった。
「ルカ…君は何も知らない」
「そうかもしれないですね」
教授の台詞からはいつもの皮肉や嘲笑めいたものが感じられず、ルカは素直に頷いた。
「何も、見てはいない」
「そうかもしれませんけど…。その一方で、教授が見られていないと思っている何かを、実は見ているかもしれないですよ?」
教授は意表を衝かれたように目を見張ったものの、けれどそれを誤魔化すように鋭い視線でルカを睨み付ける。
そんな表情の変化が意外で可笑しかった。
「…油断大敵だな」
「そんなに身構えないで下さい」
苦笑するルカにつられたように教授も微かに笑う。
ルカは教授の腕にそっと触れると、改めて教授を見上げた。
「私の知らない貴方や見えていない何か。決して見せることのない部分。それは誰にでもあると思います。…全てを知る必要はないでしょう?大事なのは、今をどう生きているかだと思うから」
ルカから目を逸らすことなく、教授は彼女の言葉の持つ意味を咀嚼していた。
何だか偉そうですねとルカは照れ笑い、触れたままの教授の腕を軽く揉みほぐした。
「デスクワークでお疲れでしょう。マッサージは如何ですか?」
「遠慮しておく」
「残念。堂々とスキンシップできる良い口実だと思ったのに」
そう言いながらも満面の笑みを浮かべているルカに、教授は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「いつでも仰って下さいね」
「そんな暇があるのなら、一度くらい添削不要のレポートを仕上げてみたまえ」
「…また痛いところを突きますね」
途端に表情を曇らせ、どことなく覇気が失くなったルカの様子に教授は思わず苦笑する。
「期待している」
「本当ですか?」
弾かれたように、自分を見上げてルカは嬉しそうに笑う。
そのまぶしい笑顔を、いつまでも見ていたいと心から思った。
たとえそれが、叶わぬ想いだとしても。