禁忌の森に、吸血鬼が潜んでいる。

 常に何らかの問題を抱えているホグワーツの、目下の話題だった。

 それは血を抜かれた動物の不自然な遺骸の発見に起因する、不確かな噂なのだけれど。

 校長から特別な通達があった訳ではない。

 けれど教師陣はどことなく素知らぬ様子で、しかも隠そうとすればする程、皆の周知のところとなる訳で。

 それでも、所詮は噂に過ぎないとあっさり看過したルカは、いつも通り深夜の校内散策を楽しんでいた。





 渡り廊下からふらりと外に出ると、長身の人影に気付いた。

 あの後ろ姿はスネイプ教授のように見える。

 こんな時間にどうしたのだろう。

 単なる巡回でもないようだし、しかもあの様子だと禁忌の森に向かっているようだ。

 真夜中に人知れず。

 関わらない方がいいことは一目瞭然だけれど、ルカは無意識に教授の後を追っていた。





 昼間でさえ鬱蒼としたその森は、今や果てのない闇の入口のように感じられた。

 頼りない月明りだけが、教授の後ろ姿を照らしている。

 彼が明かりを持っている様子はなく、それでも普段のように足が早い。

 瞬く間にルカはその姿を見失った。

 目的が潰えると急に恐怖感が募った。

 暗がりは別に怖くないけれど、それは場所にもよるのだと思い知った。

 同時に例の噂を思い出し、間の悪い自分を叱咤する。

 そんなに遠く迄は来ていない筈だけれど、無事に帰ることができるだろうか。

 踵を返すと人の気配がして、ルカは思わず悲鳴を上げたが、素早く口を塞がれた。

「騒ぐな」

 闇の中の赤い瞳。

 そう見えたのは一瞬のことで、ルカの口を手で塞いでいたのは、紛れもなく教授だった。

「こんな所で何をしている」

 ゆっくりと手を下ろした彼は、依然として険しい表現でルカを見下ろしていた。

 深夜に無断外出。

 立ち入り禁止の森に立ち入って。

 成り行きで教授を尾行したものの、あっさり撒かれた上にこの現状。

 …もしかして、最悪な状況?

 しかしルカは、半ば開き直りながら教授を見上げた。

「それは私の台詞です。教授の方こそ挙動不審ですよ」

「君にとやかく言う権利はない。速やかに部屋へ戻りたまえ」

「できればそうしたいんですけど…帰り道が解らなくなりました」

 ルカの間抜けな台詞と照れ笑いに、教授の眉間の皺は益々深まるばかりだ。

「…ついて来い」

 溜息と共に背中を向けた彼は、再び足早に森の中を進み始めた。

「あの…もしかして、教授の目的の場所に向かっているのでしょうか?それとも引き返して?」

「どちらだと思う」

 振り返りもしない教授の、素気ない返事が聞こえた。

「それが解れば教授のお望み通り、速やかに戻ることができたんですけど…」

 とてもまずい状況に出くわしてしまったのではないかと、内心では危惧していた。

 もし同行させてもらっているのなら、そんな心配は不要かもしれない。

 てっきり例の噂絡みだと思ったのだけれど。

 歩きにくい、道とも言えないような道を、教授はどんどん進んで行く。

 ルカも遅れないよう、小走りで付いて行く。

 けれど、どうしても足元がおぼつかない。

 とうとうルカは、何かに足を取られてバランスを崩した。

 すかさず黒いローブから伸びた腕が自分を支えていることに気付き、ルカはその腕にしがみついたまま教授を見上げた。

「気を付けたまえ」

 闇の中の赤い瞳。

 深く煌めく真紅の赤。

 気のせいではなかったのだ。

「…あなたは、誰ですか?」

「質問の意図が解らんな」

 そう言って、あからさまに不機嫌な表情を浮かべる教授は、確かに教授なのだけれど。

 彼の腕の中にいるというのに、いつもの薬の匂いさえしないのだ。

「もしかして、着替えたばかりですか?」

「…何が言いたい」

 一度感じた違和感めいたもの。

 それは酷く不明瞭であるにも関わらず、ルカの中で徐々に膨れ上がった。

「あなたは本当に、セブルス・スネイプ教授なのですか?」

 不意に険を含めて細められた漆黒の瞳。

 その奥に、確かに揺らめく赤い光。

 彼に掴まれたままの腕が痛い。

 ルカは戦慄を覚えながらも、“教授”から目を逸らせずにいた。

「…君はなかなか鋭い。だが私のことは、他言無用に願おう」

 “教授”はルカの耳元でそう囁くと、校庭まで送ると言って薄く笑った。





「あなたがここにいることが、噂になっています」

 先程よりもゆっくりと彼は歩いた。

 配慮してくれているのだろうか。

「いずれ忘れる。長居するつもりもない」

「校長先生はご存知の上で、私たちに何も仰らないのですね」

 だとしたら、教師陣のどこか含みのある態度にも納得がいく。

「私が人畜無害だと解っているのだろう。人狼より分別はあるつもりだ」

「何故…教授の姿を?」

「獲物が最も心惹かれる人物に化けて…狙う。常套手段の一つだ」

 ニヤリと笑った彼の口許に、尖った白い牙がちらりと覗いた。

 教授に見えても、決してそうではないのだ。

「先程言ったことと、矛盾してませんか?」

 心臓を鷲掴みにされたような感覚を味わいながら、それでもルカは尋ねた。

「怯えているようだが…冷静だな。安心しろ。君をどうこうするつもりはない」

 口許だけで笑った彼に、不思議と邪悪な雰囲気は感じなかった。

「本人に出くわしたらどうします?教授は神出鬼没ですよ」

「気配ですぐ解る」

 それは色々な意味で羨ましいけれど、彼が人ならざる者であることを、否応なく再認識させられた。

「教授はいつも思いがけない時にいきなり現れるんです。それは私にとって大概都合の悪い時で、即座に説教と減点です」

 その人ならざる彼に、一体私は何を話しているのだろう。

「君の想い人ではないのか。私が彼の姿であることが、何よりの証拠だ」

 肩を竦めてルカを見つめる彼の視線は、意外に穏やかだった。

「一方通行なんです。教授は色々な鎖や枷に囚われているみたいで、思いを成就させるのは…酷く難しい」

 ルカが苦笑すると、彼も微かに笑った。

「恋に障害は付き物だ。誰もが思い悩む」

 教授の姿と声で呟かれたその台詞の内容は、あまりにも似つかわしくないものだった。

「あなたにも経験が?」

「…遠い昔の話だ。私もまた、彼のように囚われていた。その枷ごと愛してくれる女性がいたというのに。…今でも後悔している」

 淡々と語られた彼の話に、ルカは胸を痛めた。

「君たちは100年にも満たない短い生涯だろう?悔いを残すな」

「あなたは…優しいですね」

 彼は興味深そうにルカを見つめた後、ゆっくりと微笑んだ。

「…彼女にもそう言われたことがあったよ。着いたようだな」

 彼は立ち止まり、木々の間から見える校庭を示した。

「もし宜しければ、あなたの本当の姿を見せてもらえませんか?」

 彼は返事の代わりにローブを翻すと、自分の顔を覆った。

 ルカが再びその姿を見た時には、既に“教授”ではなくなっていた。

 教授よりも長身の銀髪の吸血鬼は、青い瞳を細めて笑った。

「セブルスを頼む」

 ルカの耳元でそう告げた彼は、冷たい唇で彼女の頬に触れた後、霧のように姿を消した。





 多少の混乱とどこか釈然としないものを抱えたまま、ルカは無意識に校庭を横切り、渡り廊下まで戻った。

 目の前に現れた黒い影をぼんやりと見上げる。

「こんな所で何をしている」

 今し方まで聞いていた筈の低い声。

 見ていた筈の、眉間に刻まれた皺。

 険しい表情。

 漆黒の瞳。

 ルカは思わず教授を凝視していた。

「…聞こえなかったのかね?」

 険悪な雰囲気を孕んで細められるその双眸。

 それに闇色以外の光が存在しないことを確認した後、ルカは教授に身を寄せた。

「どうした」

 ローブに残る薬独特の匂い。

 彼女は深く息を吐いて、両腕を教授の背中に回した。

「ルカ」

「教授の姿をした吸血鬼に…あなたを頼むと」

「奴に会ったのか」

 ルカは両腕に力をこめて目を閉じた。

 教授は微動だにせず、けれど彼女を引き離そうともしなかった。

「彼は教授に会いに来たんですね」

「…恐らくな」

「優しい方ですね」

「奴と何を話した」

 ルカは教授から離れると、彼を見上げて微笑んだ。

「私が夢中な人の話を」

 それが自分のことだと、教授はすぐに悟ったようだ。

 一見厳しいその表情の中に、微かな困惑や動揺を押し隠しているようにも見えた。

 それは、希望的観測だろうか?

 それでも、私は。





「ところで、気になることがあるのですが」

「回答可能な範囲に於いて答える」

「もし彼が教授を狙うとしたら、誰に変身するのでしょうね」

「…さあな」

「残念…彼に聞いておけば良かった」

 あからさまに態度を硬化させる教授を見て、ルカは再び微笑む。

 私はただ、教授のそんな反応が見たかっただけかもしれない。

「教授の前のボガートが何に変化するか。それと同じくらい気になりました」

「…くだらん」

「くだらなくないです。夢中な人のことですから」

 いつか、両方共明らかになるような日がくるだろうか?

 それこそ、希望的観測かもしれないけれど。

 ルカは微笑んだまま、おやすみなさいと呟いてその場を後にした。





 毒気を抜かれたように暫くの間立ち尽くしていた彼は、減点しそびれたことに気付いて舌打ちする。

 その後、してやられたと顔をしかめると溜息混じりに苦笑した。



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