遥か遠くの方で、雷鳴の轟く音が聞こえる。

 本当に遠いのか、地下までは届かないだけなのかは不明だ。

 ここでは雨脚の様子さえ窺い知ることができない。

 数時間前は廊下の窓を大粒の雨が叩き付けていた。
 
 それこそ止む様子など微塵もない程に。

 自分の心のどこかに不穏なざわめきを感じたルカは、そんな思いを慌て振り払った。

「ゴシックホラーな雰囲気漂う夜更けですね」

「下らん小説は部屋に戻って読みたまえ」

 ルカとその手元にある文庫本を一瞥して、教授は冷たく言い放った。

 彼の机上には、資料と思しき本やら書類やらが散乱している。

 例によって仕事中なのだろう。

「結構面白いですよ?ちなみに今、三人目が殺されました」

「そんな報告は不要だ。そもそも君は、私の授業で不明な点を質問に来たのではなかったのか?」

「おかげでレポートが捗りました。ありがとうございます」

 ルカは笑顔で羊皮紙をヒラヒラさせた。

 済ませるべきものは、既に済ませているらしい。

「ならばもう用はないだろう」

「今夜も見回りに出られるんですよね?一緒に出ませんか?ついでに寮まで送っていただけると嬉しいです」

 心底迷惑そうな表情で、教授はルカを睨んだものの、それは彼女に届かない。

「その前に一息入れますか。今日はコーヒーで宜しいですか?」

 ルカは笑顔でそう言うと、溜息を吐くしか術のない教授を尻目に、カップなどを準備し始めた。





「何だか雷が近くなってきましたね」

「怖いのか?」

 からかうような口調の教授に、ルカはすかさず反論した。

「まさか!何馬鹿なこと仰ってるんですか」

 結局ルカに乗せられるがままに休憩した後、夜回りのついでに、彼女を寮まで送り届ける羽目になった。

 雨は依然として激しく降り続いていた。

 雷鳴も徐々に近付きつつある。

 薄暗い真夜中の廊下には、二人以外の気配はなかった。

「己の弱点を素直に認めることもできんのか」

「そうすることで、必死に克服しようと弛まぬ努力を続ける、私の健気で繊細な気持ちを足蹴にするつもりですか」

「健気だか繊細だかは疑わしいが、即ち今も尚克服中であり、且つ弱点でもあるという訳だ」

「…嬉しそうに仰らないで下さい」

「被害妄想も甚しいぞ」

「そう言えば私、その弱点のせいで、教授の膝枕で寝てしまったこともありましたね。役得というヤツですか」

「…覚えていたのか。随分前の話だ」

「今度は是非腕枕で」

「断固として断る」

「…少しぐらい動揺するなり悩むなりして下さいよ。何なら再び膝枕でも結構ですが。ああそうだ。今度は私が膝枕を?」

「断固として…」

「解りました。クールガイですよねぇホントに」

「馬鹿にしているのか」

「一応褒め言葉なんですけど…」

『外の雨より騒がしい。痴話喧嘩は余所でやってくれ』

 廊下の壁に掲げられた肖像画から、思わぬ苦情が上がった。

「誰が痴話喧嘩だ!」

『お前たちに決まっておろうが。他に誰がいると言うのだ』

「まあまあ教授。すみませんねミスター、お休みのところを」

 すっかり気を良くしたルカは、満面の笑顔で謝罪した。

 当然悪いことをしたなどとは、全く思っていない。

 逆にすっかり機嫌を損ねた教授は、一刻も早く肖像画から離れるべく足早に立ち去ろうとしていた。

 ルカは慌てて追い掛けながら、ついでに追い討ちも掛けてみた。

「日記に書くべきでしょうか?今日は教授と痴話喧嘩をした。倦怠期かしら?とでも」

 まだニヤニヤ笑っているルカを、教授は険しい表情で睨み付けた。

「だから痴話喧嘩ではないと言っている」

「元々教授が人の足下を見るからいけないんですよ」

 教授は歩調を緩めると大きな溜息を吐いた。

 心なしか表情を和らげて、心外だと言わんばかりにルカを見つめる。

「…つけ込んだ訳ではない。その後は大丈夫なのかと、聞いている」

 その台詞に、いつもの皮肉は含まれていないようだ。

 けれど、普段の彼の辛辣な態度や、刺々しい言葉に潜んだ優しさも、ルカはよく解っていた。

 解っていたのに。

 少し甘え過ぎていたのかもしれない。

「…ありがとうございます。本当に大丈夫です」

「それなら良いのだ」

 余計な世話だったなと苦笑する教授を見て、ルカは再び口を開こうとした。

 その時。

 青白い閃光と共に凄まじい音の雷が轟いた。

 余韻の音が城全体に響き渡る。

 あの肖像画の老紳士も、これなら痴話喧嘩の方がましだと思ったかもしれない。

「確か今君は、本当に大丈夫だ、と言ったな?」

 その言葉を、ルカは教授の胸の中で聞いていた。

 彼のローブを強く掴み、必死に縋り付く。

 不覚なことに、体が震えていた。

 勿論教授にも伝わっているだろう。

 それでもその恐怖からは、なかなか逃れることができない。

 不自然な間隔で繰り返される眩しい光と、胸を抉られるような雷鳴の音に、ルカは目を強く閉じて耐えた。





 忘れなければ。

 10年前の今日と同じような雨の夜。

 両親が死喰い人に殺された雷の夜。

 忘れられる筈がない。

 否、決して忘れてはならないのだ。

 闇に浮かび上がる、黒いフードを深く被った一人の男。

 私を庇った両親の最期の言葉。

 未だに引き摺り続けている、この計り知れない恐怖心でさえも。





 ルカは唇を強く噛み締めた。

 いつの間にか、自分の背中には教授の腕があった。

 そのぬくもりを感じながら、ルカは深く息を吐いて呼吸を整えた。

「逃げるな」

 突如耳元で聞こえた低く鋭い声に、ルカは顔を上げた。

「決して目を逸らすな。たとえ忘れることで救われたとしても、それは己の弱さを認めたようなものだ」

 厳しい表情で自分を見下ろす教授を、ルカはただ見つめていた。

 彼の闇色の目が訴えかけるもの。

 彼のその言葉が、その意思が、ゆっくりと彼女の心に染み入る。

 過去の悪夢に未だ苛まれている、臆病な心を浄化するように。

 まるでその闇を押し出すように、込み上げた感情は涙に変化して、ルカの頬を滑り落ちた。

「…泣くな」

 教授は面倒そうに溜息を吐いた。

 それでも頬に触れ、涙を拭う手つきは驚く程優しく、ルカは自分の鼓動が早くなるのを感じた。

 すぐ近くにある教授の顔が、閃光の中に浮かび上がる。

 その漆黒の目に、先程とは違う雰囲気を感じるのは気のせいだろうか?

「…ルカ…」

 囁かれた声と共に教授の顔が更に近付き、今にも触れそうになった、その時。

 耳を劈くような轟音に怯んだルカは、反射的に顔を伏せると、教授に縋り付いたままの腕に力をこめた。

「すみません。もう少しだけ、このまま…」

「全く…迷惑極まりないな」

 そう呟きながらも教授が動く気配はなく、依然として轟く雷鳴を、ルカは彼の腕の中で耐えた。





 徐々に遠くなりつつある雷の音に安堵しながら、ルカは考えていた。

 私の頬に優しく触れた教授の手。

 涙を拭ってくれた後、どうするつもりだったのだろう。

 私の名前を呼んで、触れそうな程に近い顔を更に近付けようとしていた。

 何だか…まるでキスするみたいに。

 …否、そんな訳がある筈ない。

 多分気のせいだ。

 どうかしている。

 けれど、あの時私が下を向かなければどうなっていただろう。

 今、自分の鼓動が早いのは、恐怖の為だけではないことを自覚した。





「…いつまでこうしているつもりだ」

 突然響いた教授の声にルカは慌てふためく。

 それでも、平然とした素振りを見せるよう努めた。

「できることなら翌朝まで」

「ふざけるな」

 雷が遠ざかっても一向に自分から離れようとしないルカを、教授は無理矢理引き剥がした。

 不服そうだったルカは、けれどすぐに笑顔になり教授を見つめた。

「雷は怖かったですけど、ある意味至福のひとときでした」

「全く…時間の無駄だ」

 教授は鋭い視線でルカを睨み付けると、再び廊下を歩き始めた。

 彼女は笑顔でその後を付いて行く。

 いつも通りの教授だ。

 やはり、気のせいに違いない。

 思わず漏れた溜息の理由は、安堵の為か一抹の寂しさの為か、自分でも解らなかった。

 それでも、悪夢に呑み込まれそうな自分を庇い励まし、力になってくれたのは確かなのだ。

 雨も小降りになったようで、廊下は本来の静寂さを取り戻していた。

「私、逃げません」

 怪訝な表情で振り返る教授に、ルカは微笑んだ。

「教授の言葉、本当に嬉しかったです。今はまだ向き合うことは難しいし、先程のような有様ですけど。それでも努力しますので…見ていてくれませんか?」

「…不本意だがな」

 本当に不本意そうな表情の後に、彼は微かな笑みを浮かべた。

 ルカの頭をくしゃりと撫でる。

 朗らかに笑うルカを見て、彼女ならきっと大丈夫だろうと確信した。





「ここで結構です。色々とありがとうございました。おやすみなさい」

 笑顔のまま小さく礼をしたルカは、やがて廊下の向こうに消えた。





 あの時。

 彼女の涙を拭いながら、私はどうするつもりだったのだろう。

 自分にしがみつき、恐怖に耐えるその姿があまりにも健気で。

 彼女の泣く姿があまりにも心苦しくて。

 自分の腕の中で震える彼女が…愛しくて。

 愚かなことに、憐憫と愛しさと欲望の入り混ざった目で彼女を見ていたのは事実だ。

 …こんなことでどうする。

 気の進まない例の特訓で、克己心を持てと怒鳴った自分が聞いて呆れる。

 ルカに対する想い。

 もう少しで溢れそうになったその想いを、心の奥深くに沈めようとした決意は、ローブに残る彼女の甘い香りに邪魔された。

 やりきれない溜息を吐いて、自嘲気味に笑う。

 ふと、彼女が入学して間もない頃を思い出した。

 雷が怖いと泣き出して、自分の部屋から立ち去ろうとしなかったある夜の出来事を。

 結局自分に凭れて眠ってしまった、あどけない彼女の寝顔を。

“教授って、お父さんみたいですね”

 彼女のそんな言葉に、少なからずショックを受けた当時の自分まで思い出し、彼は一人苦笑した。



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