杖に灯した小さな光だけを頼りに、暗く長い廊下をひたすら走り続ける。

まるで迷宮のようなホグワーツ城は、未だ足を踏み入れたことのない場所の方が遥かに多い。
日頃、至るところに飾られている肖像画は一枚も見当らず、延々と続く特徴のない通路は深い闇に覆われている。

今自分が疾走している場所は、一体どこなのだろう。
そもそも何故、このような事態に。

ゆっくりと考えを巡らせる余裕も、背後を振り返る勇気もない。
両足を必死に動かしている筈なのに、ほとんど進んでいる気がしなかった。

何度呼吸を繰り返しても息が苦しい。
鉛のように足が重い。

焦燥に駆られる中で、疲労感ばかりが募ってゆく。
何よりも、それらを凌駕するような恐怖心に押し潰されてしまいそうだった。

決して足を止めては駄目だ。
もし、追いつかれてしまったら。

やがて足音もなく、ひたひたと背後に迫り来る何かを感じたルカは、反射的に悲鳴を上げた。





「ルカ。大丈夫か?」

不意に目前に飛び込んで来た人物、自分に呼びかけるダニエルの顔をしばらく凝視した後で、ルカは深く息を吐いた。

眩しさに瞼を瞬かせながら周囲を見回すと、必要の部屋の見知った天窓、熾火が残るペチカ、ダンスの稽古で使っているピアノが視界に映る。
傍らに投げ出された魔法薬学の教科書と羊皮紙を見て、ダニエルと宿題に取り組んでいたことを思い出した。

いつの間にかソファで寝入ってしまったようだ。
自分のものではないローブは、恐らくダニエルが掛けてくれたのだろう。

やけにリアルな悪夢だった。
眠っていた筈なのに鼓動が慌ただしく、ひどく疲れている。

すぐに起き上がる気力が湧かず、ソファの前に跪いてこちらの様子を伺っているダニエルを見つめる。

寝起きの顔を見られているとか、互いの距離があまりにも近いのではと意識する程、ルカの頭はまだ回っていない。
気心の知れた友人がそばにいてくれる安堵感の方が勝っていた。

「…おはようダニエル」
「おはようルカ。…夜だけどな」

彼女の挨拶に付き合いながらも、抜け目なく現状を指摘するダニエルの声は心なしか優しい。

「随分うなされていたけど、もう大丈夫みたいだな」

そう言って立ち上がろうとしたダニエルの袖を、ルカは思わず掴んだ。
僅かに目を見開いた彼は、どうした?と気遣わし気に問いかけてくれる。

「とても怖い夢を見て…」

もう少しだけ…そばにいて欲しい。

起き抜けで力のない、けれど切実な願いが込められたルカの小さな声は、どうやら届いたようだ。
幼い子供みたいだと笑い飛ばされるかと思いきや、ダニエルは黙ったままその場に座りなおした。

自分の袖から離れたルカの手を取り、やっぱり冷たいなと呟く。
彼女の手が微かに震えていることには言及せず、その震えごと包み込むようにしっかりと握りしめた。

ともすれば、ダンスの時よりも近い距離で顔を突き合わせたまま、互いに小さな笑みを交わし合う。



「怖い夢はよく見るのか?」
「そんなに気にしてなかったんだけど、そう言われると、ここ最近増えてきたような気がする…」

暗闇の中で、得体の知れない何かに追いかけられる夢。

…別に深刻な悩みは抱えていない、と思う。
ホグワーツでのハイレベルな授業と、山のような課題に奮闘する日々を、ルカは振り返る。

勉強に追われるだけではなく、決闘クラブにも参戦したいし舞踏会でダンスも踊りたい。
ダニエルの魔法薬の調合を手伝って、アイビーたちとハニーデュークスに出かけてお菓子も食べたい。

それに、最近知り合ったコイオスとの約束もある。
神話上で「知恵の神」の名前を持つ彼は、その名に違わず、ホグワーツ関連の疑問を次々に投げかけてくる面白い人だ。

褐色の肌に鮮やかな緑色の目、品の良いトラッドスタイルに身を包み、回廊の曲がり角に一人で佇む彼の姿が思い浮かぶ。

その彼と時々会っては、資料に基づいた回答や、正解の出ない自論を延々と話し合う時間が楽しかった。
色恋沙汰を邪推する輩もいるが、問題提起に対するディベートのような、ある意味授業以上に真面目な語らいだ。

…確かに多忙な毎日なので、少し疲れているのかもしれない。

「あまり無理はするなよ」

ルカの手の甲を軽く叩きながら、ダニエルはぶっきらぼうに気遣ってくれた。

連日の徹夜も顧みず、大鍋と睨み合っている当人の発言に説得力は全くなく、苦笑を覚える。
それでもその優しさが嬉しかったので、ルカは素直に頷いた。

「ダニエルも色々と忙しいのにごめんね」
「…今更だろ。別に謝らなくていい」

時には罰則も辞さない覚悟で、いつもルカの望みを叶えてくれる頼もしい友人は、何でもないことのように答えた。

「それにしても安心感がすごい。さすがダニエル」
「それは何より。さすが俺」

ダニエルが誇張気味に胸を反らすので、思わず二人で吹き出した。

我ながら恥ずかしいことを言っているのではないかと思ったが、軽く受け流してくれて良かった。
今頃になって、ずっと手を繋いでもらっている状態に気恥ずかしさを覚えたルカは、もう大丈夫だよと伝えてソファから起き上がった。

自分に掛けられていたダニエルのローブを、本人に返すべく丁寧に広げていると、そのまま使ってていいと言われる。
その言葉に甘えて、ひざ掛けのように下半身を覆った。



「そうだ。お前ずっと眠ってたし、喉は乾いてないか?」

ルカの返事を聞くまでもなく、ダニエルは杖を振ってテーブルの上のティーセットを呼び寄せた。

淹れ立ての紅茶をカップに注ぐと、自分のポケットを探って小瓶を取り出す。
透明の液体をカップへ数滴だけ垂らして、ルカに渡した。

「安らぎの水薬だ。微量だから効果も少々。不安を晴らして僅かに落ち着く程度だな。…眠くなるかもしれないけど」
「ありがたく」

恭しくカップを押し頂くルカの茶番に、ダニエルは表情を和らげる。

また始まったとでも思っているのかもしれない。
我が子の拙い演劇を微笑ましく見守る親のような目で見つめないでほしい。

冷ましながら少しずつ口に含む。
芳醇な紅茶の香りと本来の味そのものだった。
あまりにも酷い風味で、飲むのに相当の勇気と根気を必要とする魔法薬も少なくはないのだ。

紅茶で身体が温まったからだろうか、次第に瞼が重くなる。
先程まで寝ていた筈なのに…とても眠い。
ダニエルの言った通り、薬の効果もあるのかもしれない。

「…もう少し休んでから寮に戻るよ。ダニエルは気にせず先に帰って」
「今度は悪い夢なんか見ずに眠れる」

自分への返答ではないと思しきダニエルの言葉が、明瞭に聞き取れない。
倒れ込むようにソファに横になったルカは、目を閉じて、抗えない睡魔に身を委ねた。

薄れゆく意識の中で、立ち上がったダニエルがローブを掛けなおしてくれる気配を感じる。
お礼を言いたいのに、口すら動かせない。

優しく頭を撫でられているような気がして、不意に両親のことを思い出した。
頬に触れる柔らかな感触。
慈愛に満ちた、眠る前のキス。

「…おやすみ、ルカ」

でも、ここは、ホグワーツなのに。




寝不足で始まる週末の朝は、ダニエルにとって、もはや日常茶飯事だった。

起きていた時間が長い分、普通に眠って目覚めた時以上に空腹を覚えている。
回廊に差し込む朝日の眩しさに目を眇めては、何度もあくびを漏らしつつ、気怠い身体を引きずるようにして大広間へと向かう。

焼き立てのパンに果実のジャム、ブロッコリーとチーズのスープ、焦げ目のついたベークドビーンズにガーリックソーセージ。
食欲をそそる雑多な匂いに満たされた大広間は、早朝のため閑散としていた。
クィディッチの朝練を控えた、練習着姿の生徒が目に入る程度だ。

朝食に間に合う時間ギリギリまで寝ている生徒が多いのだろう。
いつもの週末の風景だ。

目立たない隅の長椅子に座り、塩気の効いたベーコンエッグを胃袋に詰め込んでいると、馴染みのある声が聞こえた。
よりにもよって一番会いたくなかった相手との遭遇に、ダニエルは内心で舌打ちする。

「おはようダニエル」
「おはようアイビー。…お前が早起きなんて珍しいな」

だから早朝の時間帯を狙ったというのに、最悪のタイミングだ。
聡い友人に悟られないように、彼は溜息を吐く。

「お腹が空き過ぎて早く目が覚めちゃった」

ダニエルの向かい側に座ったアイビーは、早速オレンジマーマレードをたっぷり乗せたトーストにかじり付いている。

「ところでルカを見なかった?昨夜から寮に戻ってないみたいなんだ」

そら来た。
カサンドラやフレイ兄弟に容赦なくブラッジャーを叩き付けるような直球だ。

「昨日の放課後、一緒に宿題はしたけど…その後は知らないな」

ミートパイを咀嚼しながら、皿から零れ落ちたパイの欠片を指で払う。
奪われた口内の水分を補うようにスープを流し込むと、思ったよりも熱々で、危うく火傷しそうになった。

「珍しく舞踏会にも来なかったから心配なんだよね。ダニエルも顔を出さなかったし、もしかしたら一緒だったのかなと思って」

コイオスにも聞かれたんだ。
ルカと会う約束をしてたのに来なかったって言ってた。

彼女は何の理由もなく約束を破るような子じゃない。
ねえダニエル。本当に何も知らない?



「知らないって言ってるだろ」
…まあ、週明けには戻ってくるんじゃないか?じゃあな。

呪詛を吐くような低い声で返事をしたダニエルは、アイビーの真っ直ぐな視線に挑むように、彼女をひと睨みして席を立つ。

食欲はとっくに失せている。
足早に大広間の外へ向かうが、後を追ってくる様子はない。

普段は頼もしいアイビーの鋭さに、今は苛立ちを覚えていた。
その感情が自分本位なことは重々承知している。

後ろ暗いことなど何もない。
馬鹿正直に話す必要がどこにある?

『火を吹く鶏が先か、卵が先かどっちだろう?だって。紅茶論争みたいだよね』

コイオスとのやりとりを楽しそうに話すルカを思い出して、ダニエルは心の中で悪態を吐く。
人の気も知らず能天気なルカに、高尚ぶったコイオスに、そして狭量な自分に。

悪夢にうなされるくらいにお前は疲れていた。
あいつと無駄な時間を過ごすくらいなら、寝ていた方が余程マシだろう?

今日か明日中には目が覚める。
存分に眠って充電完了。
月曜日には元気いっぱい元通りという訳だ。

自分の行く手を阻むものは、全てエクスパルソで吹き飛ばしてやる。
それくらいの勢いで、剣呑な雰囲気を撒き散らしながら歩き続ける。

徐々に歩調が遅くなり、とうとうダニエルは立ち止まった。
俯きがちだった顔を上げて、回廊から見える中庭――鮮やかな緑の芝生と、滅多に見られない快晴の澄み渡った青空を憎々し気に睨み付ける。

…こんなにも胸が苦しいのは、急いで空腹を、渇望を満たしたせいだ。





「おはようダニエル」
「おはようルカ。…昼だけどな」

「ダニエルのおかげで夢も見ないでぐっすり眠れたよ。ありがとう」
「え?…いや、いいんだ」

「疲れは取れたけど、すごくお腹が空いたな…」
「まだ大広間で昼食は取れる筈だ。間に合わなかったら厨房へ直行コースだな」

「ダニエルはお昼食べた?」
「…ああ」

「そうかぁ。じゃあ先にシャワーを浴びてから寄ってみるね。ローブも借りっぱなしでごめん。スコージファイはしたけど洗濯して返すよ」
「いや、そのままでいい。…ルカ」
「なあに?」

「怒ってないのか?俺に」
「…何で?」

「コイオスとの予定を反故にさせた」
「それはダニエルのせいじゃないよ。寝過ごしたのは私だから、今度会った時に謝る」

「…約束していることを知っていて、俺はお前に薬を飲ませたんだ」
「私の不安と疲れを取り払うためにね。…眠くなるかもって、ダニエルはちゃんと教えてくれたよ。それを承知の上で飲んだのは私だから、君は何も悪くない」

ダニエルはいつも優しいねと朗らかに笑うルカに、彼はどこか覚束ない足取りで歩み寄った。
どうしたの?と言わんばかりに彼女は目を瞬かせている。

たとえ殴られても甘受するつもりでいたのに、お礼まで言われてしまう始末だ。
あまりにもお人好しなルカの今後が心配になる。

いったん深呼吸した後で、ダニエルはルカの背中にそっと両腕を回した。
衝動的に、力任せで抱きしめてしまわないように。

思わず溜息が漏れる。
呆気なく許された安堵感と、それから。

…得難い友人だとあらためて思う。
思い込む。

ルカからハグされることは時々あるので、彼女もそう解釈したのだろう。
ダニエルは普段彼がそうするように背中を軽く叩かれながら、馴染みのある香りに眩暈を覚えていた。

「あのねダニエル、このまま聞いて欲しいんだけど…」
「どうした?」

耳元でひそひそと囁くルカの声に動揺しつつも、平然とした態度を装う。

「昨日、私が眠る前に、おやすみのキス…いや何でもない」
「…取り消すのが遅過ぎるだろ。お前が何を気にしているのかは理解した」

顔が合わせられないというルカの気持ちもわかるが、いつまでもこうしている訳にもいかない。
朝食時のアイビーからの質問攻めの時よりも、ダニエルは遥かに余裕のない状態だった。

「ママとパパを思い出して、少しホームシックな気分になった」
「…そうか」

「毎晩そうやって寝かしつけて欲しくなるから、もうしないで」
「…ん?…ああ、悪かった」
「頼んだよ、ダニエル君」

無茶な仕事を部下に押し付けた上司を演じているらしきルカに、両肩をばしばしと叩かれた。
照れ隠しの茶番であることがわかり、その微笑ましさに再び抱きしめたくなるが、今度は我慢した。

ダニエルとまともに目を合わせないまま、ルカは教科書などの自分の持ち物を手早くまとめている。
寮に戻る支度が終わり、扉の前でようやくこちらを振り返った彼女は、既に普段通りの笑顔だった。

心なしか頬の血色がいい。
それは自分も同様かもしれない。

じゃあまたねと手を振って部屋を後にするルカを、かろうじて手を振り返しながらダニエルは見送った。



その場に立ち尽くしたまま、二人のやりとりを反芻する。
先程から自分の鼓動がうるさくてかなわない。

不意に部屋中を右往左往したり、脱力したようにソファに寝転がっては、ルカがずっとここで寝ていたことに遅まきながら気付いて、跳ね飛ぶように起き上がる。

そうやってダニエルはしばらくの間、彼らしくもなく、落ち着きのない無意味な行動を繰り返した。





20230923



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