人影がまばらとなった城内の大広間は、宴の終わりの様相を呈していた。

卓上に並んでいた料理や酒は、ほとんどが綺麗に平らげられている。
周囲には空の器に混ざるように卓上に伏せて寝入る者や、床に転がっていびきをかく者の姿が見受けられた。

「淡藍も眠ってしまったようですねェ…」
「ハ。後は殿に一任したいと思います」

自分の副官に謀られた感が否めず、王騎は軽く騰を睨み付けた。
当人は意に介した様子もなく、目を大きく見開いたまま彼の視線をしっかりと受け止めている。
王騎の視界の端には、騰にもたれて寝息を立てている淡藍の姿があった。

「騰…、何もそのように焚き付けなくてもいいのですよ」
「殿の気が進まないのであれば、私が引き受けますが」
「ココココ…あなたは本当に潔いですねェ」
「ハ。人の肩を枕に酔余の惰眠を貪ってはいても、一応は大切な部下です」

酔い潰した当人が平然と言ってのける様に王騎は苦笑を滲ませる。
淡藍は始終楽しそうであったから、特にたしなめはしなかった。

「後半の台詞は本人に聞かせてあげたいところですが、あなたは言わないのでしょうね」
「ハ。ご明察です」

王騎は一向に目覚める気配のない淡藍を抱え上げた。
今日の演習で負傷したばかりなので、今夜は発熱するかもしれない。
熱さましと痛み止めの湯薬の手配を副官に頼んだ彼は、そのまま自室へと足を向けた。



寝台に淡藍を横たえると、衿からのぞく包帯が赤く滲んでいるのが目に付いた。

「それにしても、明らかに飲みすぎでしたねェ…」

寝入る直前まで、大いに飲み食いしていた彼女の姿を思い出した彼は含み笑う。
食欲も失せたまま寝付いてしまうよりは余程ましだが、果たして淡藍には深手を負っている自覚があるのだろうか。

回復に努めるべく、意識的に滋養を取ろうとしたのかもしれない。
それでも深酒は避けて然るべきだ。
…酒の方は騰のせいでもあるが。

ためらうことなく彼女の襦裙の帯を解き、上衣をくつろげる。
背中を支えて横臥させた状態で包帯を外し、手早く新しいものに取り替えた。

演習直後の手当の際はなるべく直視しないように努めていたが、彼女の白い肌には多くの傷跡が刻まれていた。
摎と共に幾多もの戦場を駆け巡った証ともいえる。
だからこそ、淡藍なら恥じらうことなく勲章だと誇るだろう。

鍛錬中の彼女の動きは俊敏で、表面上は文句の付けようがない。
但し、僅かに潜む心身の歪みのような何かを彼は感じ取っていた。

勇猛果敢とは異なる、死を意識することなくひたすら突き進む危うさ。
死への恐怖心を持つことが一概に臆病であると、数多の戦歴を重ねてきた彼は解釈しない。
窮地から脱却するための活路を開き、戦場から生還するためには必要な情動だ。

淡藍は死を畏怖するどころか、焦がれているのではないかとさえ思う。
摎の後を追うことがないようにと当時は懸念していた。
そして歳月の経過と共に解消できるだろうとも思っていた。

結局のところ、淡藍は未だに摎の死から決別できていない。
…その点においては他人事ではないのだが。

しばらく実戦から離れることで、頭を冷やす機会になればと考えた上での今回の提案だった。
しかし先程の騰との会話から鑑みれば、恐らく淡藍は彼の申し出を断る筈だ。

寵姫の地位を勧めたことに疚しい理由はなかった。
その名が示唆する本来の立場通りに、自分の閨の相手を強いるつもりは毛頭なく、むしろ周囲への牽制の意味合いを含んでいる。

背後に王騎の影が色濃く存在していると知れば、悪巧みを目論む輩の芽を事前に摘むことができるだろう。
摎も将軍に立身するまでは、少なからず不愉快な目に遭っていた。
当時は彼が直接制裁を加えたこともあったが、事後ではなく未然に防ぐことが当人にとっても望ましい筈だ。

同様の状況の回避、そしてどこか心許ない淡藍の心身を養生させるための策を講じたつもりだが、無駄に終わりそうではある。
どちらにしても本人の意思を尊重することになるだろう。



扉の向こう側で控えめな声が彼を呼んだ。
医師が自ら持参した湯薬を用法の助言と共に受け取り、彼は再び寝台に腰を下ろした。

淡藍の額に触れるとやはり不自然に熱を持っているようだった。
但し頬が赤いのは大方酒のせいだろう。

「淡藍、起きなさい」

声をかけながら負傷していない側の肩を揺すってみるが、目覚める気配はない。
これだけ熟睡できるなら心配無用だとも思うが、薬を服用した方が楽にはなる。

枕を重ねたその上に淡藍の背中をもたれさせた。
頭部の位置が若干高くなったので、薬が喉を通る筈だ。

湯薬の杯を彼女の唇にあてがい、ゆっくりと傾ける。
飲み込む様子が見られない。
淡藍の口の端を伝い落ちる湯薬を指で拭い、小さく溜息を吐く。

「…世話が焼けますねェ」

意を決して杯を仰ぎ、湯薬を自らの口に含んだ彼は、淡藍の頭を支えながら唇を合わせた。
零さないように少しずつ口腔へ流し込み、彼女の細い喉が嚥下のために動くのを見守る。

劣情めいた感覚を抱くよりも先に、雛に餌を与える親鳥の図が思い浮かんだ。
自嘲を滲ませながら、杯が空になるまで繰り返す。

「それにしても酷い味です。あなたもそう思いませんか?」

舌の上に残る独特の苦みに顔をしかめていると、不意に淡藍が咳き込む。
しばらく様子を窺うが、湯薬を喉に詰まらせた訳ではないようだ。

「…騰様、もう…飲めません」

それにしても不味い酒だとか一体何の嫌がらせだとか、途切れがちに文句のような寝言が聞こえる。

「ンフフフフ…。やはり美味しくはなかったようですねェ」

間接的な返事を聞くことはできたが、それでも目覚めない彼女の能天気振りに笑いがこみあげた。

「淡藍。今、あなたのそばにいるのは王騎ですよ」

枕に両手を付いて淡藍の耳元に口を寄せ、直接声を吹き込むように囁く。
戯れにも似た彼の行為に返されたのは、静かな寝息だけだった。



「寒い…」

机に広げた木簡から顔を上げた彼は、微かな声を発した寝台の淡藍へと目を向ける。
薬を飲ませた後は厚めの上掛けを被せていたが、彼女は悪寒を覚えたように身体を震わせている。

熱が更に高くなるかもしれない。
薬がしっかり効くといいのだが。

机上の書物を手早く片付けた彼は、唯一の手燭を寝台の側に移動させた。
淡藍の隣に横たわり、彼女の身体を抱き寄せる。
その震えを抑えるように、自分の体温を分け与えるように、小柄な体躯を自らの懐に包み込んだ。

「あたたかいです…王騎様…」

先程の彼の声が夢うつつにでも届いたのかもしれない。
寝息混じりの淡藍の小さな声を聞き、目を伏せた彼は口元だけで静かに笑う。

「…眠りなさい。良い夢が見られるといいですね」



どこかで規則的な音が聞こえる。
そうだ、これは胸の奥で響く鼓動だ。
身体の隅々まで血が巡り、尊い命が力強く躍動する音。

…ああ、良かった。
ちゃんと生きている。

不意に血が通わない死者の冷たさを思い出し、身震いを覚えた。
何も映さない空虚な目。
気付けば自分の足元を埋め尽くすように、幾多もの亡骸が倒れ伏している。
今しがたまで皆は確かに生きていて、各々の心音を奏でていた筈なのに。

ぼんやりとした意識が少しずつ浮上し、淡藍は自分がうつ伏せで眠っていたことに気付いた。

やけに褥が硬い。
そして温かい。

瞼が重く、目を閉じたまま掌で確かめるように撫でていると、不意に聞き覚えのある笑い声が響いた。

驚きの中で淡藍はようやく目を見開いた。
周囲が眩しくてまたたきを繰り返す。

飾り窓の向こう側で鳥のさえずりが聞こえる。
夜が明けていることはかろうじて理解できた。

彼女の目前には逞しい筋肉で覆われた半身があった。
右肩から上腕部にかけて刻まれた紋身には見覚えがあり、間違えようがない。

「王騎様…」
「ンフフフ…ようやくお目覚めのようですねェ」

自分が彼を下敷きにしている現状に気付き、淡藍は愕然とする。
この体勢でずっと眠っていたのだろうか。

しかも互いに半裸だ。
そして寝起きしなに撫で回してしまった。
更には何故こうなったのか、怖いくらいに何も覚えていなかった。

起き抜けに驚愕する出来事が次々に押し寄せてきて対処しきれない。
とにかく行動だと思い、慌てて起き上がろうとするが、身体が動かなかった。
彼の両腕が淡藍の背中に回されたままだった。

「勢い余って起きた拍子に転げ落ちては目も当てられません。いいですか淡藍、ゆっくりですよ」

忠告の後にようやく解放された淡藍は、恐る恐る身体を起こした。
途端に肌寒さを覚えて、褥の上に丸まっていた自分の上衣を胸元に引き寄せる。
そうしながら今度は痛みに呻く羽目になった。

「頭が、割れるように痛いです。…傷も痛い…」
「二日酔いは自業自得です。傷の方は、とにかく治癒に努めなさい」

彼もまた半身を起こすと、大きくはだけていた寝間着の衿を合わせた。

痛みをこらえながらも淡藍は安堵の息を吐く。
あられもない彼の姿に目のやり場がなかったのだ。

「昨夜はぐっすり眠っていましたが、痛み止めの効力が切れたのかもしれませんねェ」

不意に彼の手が淡藍の額へ伸ばされた。
熱は下がったようですねと頷きながら、ついでのように彼女の髪を梳く。

されるがままで、淡藍はようやく動き始めた自らの思考を巡らせていた。
…痛み止めの薬を飲んだ記憶がない。
酒は浴びるように飲んだ、というか騰に飲まされた。

そこまでは覚えている。
それ以降はさっぱりだった。

「申し訳ありません。その…何か粗相があったのではないでしょうか」
「もしかして、覚えていないんですかァ?」

淡藍の髪を自らの指先に絡めて弄んでいる彼の、睨め付けるような視線に目が泳いだ。

胸中が読めない表面だけを彩った彼の笑み。
目が笑っていない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように身体が竦む。
睨まれるどころか、既にとぐろを巻かれてぎゅうぎゅうと締め付けられているような気さえする。

「…そうですねェ。一晩中、離してもらえませんでした」

いたたまれなさで彼の顔がまともに見られない。
今の自分が赤面しているのか、それとも血の気が引いているのかすらわからなかった。
依然として痛みに疼く頭を次第に落とした淡藍は、平身低頭で額を褥に押し付けた。

「重ね重ね申し訳ありません…」
「ココココ…少しからかっただけです。安心なさい。あなたと私はいたって健全な関係ですよォ」

まだあなたからは色よい返事が貰えていないのに、先走ったりはしません。
夜通し酔っぱらった誰かさんの介抱役に徹しました。
褒めてください。

つまり彼は手を出すこともなく、酔って眠ってしまった淡藍の面倒を見てくれたということになる。

そう言えば不思議な夢を見た。
騰に不味い酒を無理矢理飲まされて、気分は最悪で、寒くて震えていたら、不意に温かい何かに包まれた。
心地よいぬくもりは絶えず淡藍の心身を包み込み、その後はゆっくりと眠ることができたような気がする。

その正体に彼女はもう気付いていた。
そして目覚める前に聞いた力強い鼓動も、彼のものだったのだろう。

あなたは本当にからかい甲斐がありますねェと、彼は軽やかな笑い声を立てている。

…自分はこんなにも大切にされているのだ。
彼の元で戦いたい。これからも。
そして、もっと強くなりたい。

淡藍は褥の上で改めて居住まいを正した。

「王騎様、今回いただいたお話は、とてもありがたいことだと思います。ですが、やはりお受けすることはできません」
「つれないですねェ…。そんなに私に抱かれたくないですかァ?」

流し目を使うように見つめられて、今度は明らかに顔に血が集まるのがわかった。

「め、滅相もないです!あの、その、そういうことではなく…」

頬の熱さを感じながら、しどろもどろで否定する。
相変わらず頭が痛いし傷も痛い。

「ンフフフ…冗談ですよ。あなたの考えは理解しています」

胸を撫で下ろしたしたのも束の間、彼の真摯な眼差しが淡藍をひたと見据えた。

「であれば、淡藍。今後、考えなしに命を投げ出すような愚行は許しません。肝に銘じておきなさい」

そして、いつしか摎に誇れるような存在になりなさい。

大切だった人の名を紡いだ彼の、あまりにも優しい笑みに泣き出しそうになる。
唇をかみしめた淡藍は、懸命に涙をこらえた。

「…精一杯、務めさせていただきます」





「殿を抱き枕にするとは大したものだ」

傷も回復しつつある頃のこと。
城内の廊下にて、淡藍の背後に忍び寄る影は紛れもなく騰だった。

だから何故彼は暗殺する標的を狙うかのように、毎回気配を完璧に消して近付いてくるのか。
そして彼の情報網は、一体どこまで張り巡らされているのだろう。

「騰様…もうお許しください。酔っていたので不可抗力です」

そもそも飲ませたのは誰だと詰め寄りたかったが、軽くかわされるのが見て取れた。
それに自分で飲んだのだから、結局のところは自業自得だ。

でも、実はよく眠れました。
王騎様はとても温かかったです。

さすがに口には出さない。
…思い返すだけでも羞恥に駆られてのたうち回りたくなる。
疚しい出来事は何もなかった筈なのに。

「私も温かいぞ」

両腕を開いて真顔で目前に立ちはだかる偉丈夫を、淡藍は困惑と共に見上げる。
失礼のない範囲で彼の冗談に付き合う匙加減がとても難しいのだが、どうしてくれよう。
ふと思い立った淡藍は、彼の元に自ら踏み込むと胸の辺りに掌で触れた。

「騰様のお心が温かいことはよく存じております」

隙のない笑顔を彼に向けながら、それでは失礼いたしますと恭しく拱手をし、速やかにその場を立ち去る。

今回は難なく卒なく対処することができた。
してやったりの気分で歩く彼女の足取りは軽い。



「…見事にかわされたな」

どこか物足りなさを感じながら、淡藍の背を見送る騰の姿があった。



20201207