あなたとの記憶はとても曖昧で、それでいて、今でも鮮明に私の心に刻まれています。

一生消えない程深く負った古い傷跡のように、際限なく広がる闇を照らす微かな光のように。

まるで子供の頃に見た夢のようでもあり、けれど決して忘れることのできない過日の出来事。

こんなにも危うく不均衡に揺らぐのは、事実にしろ虚構にしろ、私があまりにも多くの物語に触れてきたからかもしれません。





あなたと初めて出会った時の印象は、正直なところよく覚えていません。

それくらい、私もあなたも幼かった。

覚えていることと言えば、当時から愛想の欠片もない私の懐に、あなたが躊躇なく飛び込んできたことくらいでしょうか。

言葉にもできなかったし態度にも表せませんでしたが、私はとても嬉しかったんです。

いつの間にか、一緒に過ごすことが当然のようになりましたね。

あなたの家の庭は、今にして思えばまるで廃園のようでした。

手入れのされていない広大な敷地には様々な草花が伸び放題で、けれど子供の私たちにとっては格好の遊び場になりました。

あなたはとても俊足で、鬼ごっこでもかくれんぼでも、思い返せば、いつも私はあなたを懸命に追いかけていたような気がします。

それでもどうにか捕まえるなり見つけ出すなりした後は、約束事のようにあなたと手を繋ぎました。

あなたの小さな冷たい手を温めることが、私に与えられた使命のように感じていたのかもしれません。

星も一緒に見たことがありましたね。

北斗七星からカーブを描いた先に輝くアークトゥルスとスピカ。

今でもすぐに思い出せるのは、この二つの星の名前だけです。





あなたの家の庭で毎日のように遊んでいたにも関わらず、あなたの両親を見かけることは滅多にありませんでした。

身体が弱くて家の中で療養しているというあなたの言葉を、当時の私は素直に信じていました。

今にして思えば、理由はそれだけではなかったのでしょうが、少なくともあなたは嘘を吐いてはいなかった。





いつしか私が怪我をしたことがありました。

子供が転ぶのは良くあることですが、その時は何かで切ってしまったらしく、私の膝には赤い血が滲んでいました。

何かに惹きつけられるかのように、あなたは私のそばに跪くと、そのまま傷に口を付けた。

痛みよりも何よりも、私はただ恥ずかしくて動くことが出来ずにいました。

動物は傷を舐めて治します。

当時そんな本を読んだことがあったので、とても驚きはしたものの、あなたが私にしてくれたことは治療のようなものだと、子供心に解釈していました。

怪我をしたのは私の方なのに、顔を上げた時、泣いていたのはあなたの方でした。

顔を隠すようにしながら涙を拭い、弱々しい声で私に謝ったあなたは、そのまま私を置き去りにして行ってしまった。

あんなに仲が良かったのに、あなたとはそれが最後でしたね。

それ以降は、何度尋ねて行っても二度と会ってはもらえませんでした。

当時はあなたの言動の意味が理解できず、私は途方に暮れるしかなかった。

あの時、涙で潤んだあなたの目がやけに赤かったのも、単に充血のせいだと思っていました。

膝に負った傷はすぐに癒えましたが、心の中にできてしまった寂寥感は埋め難く、締め付けるような痛みを伴いながら、いつまでも私を苛みました。

それを解消する機会は結局訪れず、いつの間にかあなたは家族ごといなくなり、やがてあなたの住んでいた家も廃屋のようになってしまった。





それからしばらくの後、私はある結論に辿り着きました。

貴重な資料や論文に目を通しているうちに、鬼の存在とその習性に詳しくなった私は、やがてあなたもそうだったのだろうと思い至りました。

近所付き合いの少ない家庭、学校に通わないあなた、運動神経の良さ、真っ白な肌に冷たい手、私の傷口にあなたが唇で触れた最後の日。

あの日、まるで取り返しのつかないことをしてしまったかのように、あなたは泣いていた。

だからそう考えることで、あなたを取り巻く不可解な出来事全てに納得がいきました。

あなたと腹を割って話ができなかったことがとても悔やまれますが、話せる訳ないですよね。

鬼の存在は希少であるにも関わらず、今は仕事絡みで彼らと接触する機会がとても多くなりました。

…私が望んだことではあるのですが。

その立場は様々で、同僚であったり、事件の加害者であったり被害者であったりもする。





鬼だとかヒトだとか。

あなたと私は同じ人間で何の違いもない筈です。

いいえ、私がそう思いたいだけで、実際のところ差異はあります。

鬼がヒトの命を脅かす存在であり、それが大々的に報じられてしまえば尚のこと。

残酷な行為を平気で行えるのはヒトでも同様なのに、偏見も甚だしいと思いませんか。

今では毎日のようにどこかで諍いが勃発している。

だというのに組織絡みの面倒な事情で、仕事であるにも関わらず、迂闊に深く踏み込むことができないのが現状です。

それでも私は、誰かが画策したであろうこの状況に至らしめた理由を、彼らの目的やその思惑を知りたい。





少し前に、短い期間でしたが上司と部下と言う立場で、若い鬼と出会う機会があったんです。

鬼特有の優れた能力を、彼は自らの臆病さゆえに決して行使しようとしなかった。

その力の持ち腐れ的な彼の言動を、腹立たしく思ったこともありました。

私は彼ではないので、彼の気持ちを推し量ることはできても、心から理解することは難しい。

けれどそれは、鬼だとかヒトだとかは全く関係がなく、他人であれば当然のことです。

彼には互いに想いを寄せ合う相手がいて、その女性はヒトでした。

鬼とヒトとの恋愛、困難であることは言わずもがなです。

それでも二人を見ていると、応援したくなりました。

笑い出したくなる程不器用で、それでも相手を想い合う気持ちは確かに本物で、何と言うか、とても健気なんです。

私は羨ましかったのかもしれません。

あなたと私が選べなかった茨のような道を、けれど二人一緒であればどんなに険しくてもきっと幸福であろう道を、手を取り合って共に歩もうとしている彼らが。





鬼はその秀でた能力の代償のように、病弱な者が多く、寿命も短いと言われています。

某官僚のような例外もあるようですが、なにぶんデータが少なく、研究論文の統計によると短命説が有力のようです。

出生率、鬼の性質ゆえの近親交配、直接死に繋がるような事件との遭遇率、そして自殺率。

早世の要因は様々ではあるものの、鬼であるあなたたちが、ヒトよりも遥かに死に近い場所に佇んでいるのは確かです。





実は、長期間に渡るであろう厄介な仕事が始まる前に、あなたがかつて住んでいた家に行ってみたんです。

あなたの家があった場所は、ただの平地に変わっていました。

あなたと長い間一緒に過ごした、広大なあの庭の痕跡すら見つからなかった。

…本当に、もうどこにもないんですね。

けれど私の中の記憶は、今でもあなたを覚えている。

あなたにとっては思い出したくもない出来事かもしれませんが、私はあなたのことを忘れたくない。





本腰で取り組めば、今からでもあなたを探し出すことは容易いのかもしれません。

けれど私は、仕事に追われる多忙な日々を大義名分に掲げて、どうしてもそれができずにいる。

無事に大人になったあなたがこの世界のどこかで、幸せに生きていてくれればそれでいい。

けれど、もしもあなたが、もういないのだとしたら。

私は…それを知ることが怖い。

こんな私に彼を臆病だと非難する資格はないですね。

愚かだと笑ってもらって構いません。

けれど今はまだ、あなたと私はあの頃のように同じ星空を見ているのだと、そう思わせて下さい。





20180421



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