吐き出した紫煙が今更ながら目に沁みるのは、恐らく長時間に渡り目を酷使した所為だとミユは思う。 薄暗い部屋の中、狭い範囲を灯しているスタンドライトの明かりだけが、パソコン以外では唯一の光源だった。 固まった身体を伸ばしながら窓に視線を移すと、すっかり陽の落ちた濃紺の空の下、一見きらびやかな夜景が目に映る。 先程までは明るかった筈なのに、自分の集中力に我ながら驚く。 その時に封を切った筈の煙草の箱は既に空になっていて、今火を付けたばかりの最後の一本だけは、せめてじっくりと味わうことにする。 今何時だっけと携帯電話を手に取ったところで、今から行ってもいいですかという簡潔極まりないメールが来たので、いいよと簡潔に返した。 ちょうど脱稿し終えたばかりだったので、狙い撃ちしたかのような彼のタイミングに笑いがこぼれる。 今回の件は偶然だろうが、そう言えば彼の仕事振りも隙がなかったことを思い出す。 ついでに画面をタップして、ミユは今思いついた用事を手早く済ませる。 職業を尋ねられたら公務員ですと無難に返す彼は、警察の中でも不透明な組織に属している。 実在する某団体をモデルに本を書いていた頃、フィクションにもかかわらず、ミユはその関係者から狙われる羽目になり、編集者から紹介されたのが彼だった。 ダークスーツに身を包んだ感情の読めない死神のような男。 彼は、その手の仕事に従事する人物に相応しく思えた。 多少は危険な目にも遭いかけたが、そんなことでもない限り、彼とは一生出会うこともなく終わっただろうから、物珍しさも手伝って色々な質問をぶつけた。 一種の職業病のようなものだ。 迷惑がられても当然なところを、回答可能な範囲においては淡々と答えてくれたことを思い出す。 その件が終息に向かっても、何故か二人の関係は別の形で続いていた。 忘れそうになった頃に一方的にやって来ては、身体を重ねるだけの関係など褒められたものではないが、少なくともミユはこの現状に不満を抱いてはいない。 もう誰とも、深く係わりたくなかった。 「煙草、そろそろ止めたらどうです?」 久し振りに会えた感慨もなく、部屋に入ってくるなりあからさまに顔をしかめた彼は、置物の役目しか果たしていなかった空気清浄機のボタンを押した。 換気のために窓を開き(寒いというミユの苦情は一瞥されただけで相手にされなかった)、電気を点けて、机に散らばった不要な紙原稿を手早くまとめる。 ようやくまともな明かりが灯った部屋の眩しさに目を細めながら、ミユはソファの上で膝を抱えて彼の働き振りを見守った。 まるで一人暮らしの息子の部屋を訪れた母親が、甲斐甲斐しく世話を焼いているみたいだなと他人事のように思う。 …無表情で無愛想だけど。 「取り敢えず何か飲む?」 不都合な提案は無視するに限る。 ミユの意図を察したであろう彼は、彼女を睨みながら大袈裟な溜息を吐いた。 「それよりシャワー浴びてもいいですか?」 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める彼を眺めながら、仕事帰りかなとミユはぼんやり考える。 集中力を欠いた今は、少しだけ眠い。 「私も一緒に入ろうかな。寒いし確かに煙草臭いし」 自分の髪を一束摘んで鼻に近付ける。 吸っている時には気付かなかったが嫌な匂いがした。 「…別にいいですけど」 少し意外そうな表情を見せた後で、ミユさんに沁み付いた煙草の匂い、しっかり落としてあげますと彼は無愛想に告げた。 解釈のしようによっては恥ずかしさを覚えて顔を赤くするべきなのだろうが、何故かその方面には傾かなかった。 まるで頑固な汚れを取り除くと宣言したかのような、面倒見の良い母親のような彼の言葉に、ただ笑いが込み上げた。 熱いお湯を張った広い浴槽に身を沈めて彼と向かい合う。 友人から貰った乳白色の入浴剤が優しい香りを漂わせている。 新鮮な眺めだなあとミユは嬉しくなり、髪を結んだ彼は怪訝な表情で満面の笑みを浮かべる彼女を見ていた。 「ちょっと待った。何それ、その傷」 部屋が暗かったことや、彼自身の髪で隠れていたこともあり、今頃になって彼の首筋の異変に気付いたミユは思わず身を乗り出した。 湯船が大きく波打ち、必然的に裸で彼に馬乗りする羽目になってしまったが、それを気にしている余裕はなかった。 「いつになく積極的ですね」 「話を逸らさないで」 ミユの身体を支えながら、揶揄めいた台詞を飛ばす彼を遠慮なく一蹴する。 近くで見ると既に傷は癒えているようだが、変色した皮膚に残る二つの痕は未だに生々しい。 「…まあ、色々とありまして」 ミユの視線だけの追求に、やはり彼は明言を避けて返事を濁したが、どう見ても鬼に噛まれた傷だった。 位置が僅かにずれていれば頚動脈を破り、致命傷の可能性もあった筈だ。 確かに彼は強いけれど、鬼はもっと強い。 身体は温まっている筈なのに、急に背筋が寒くなる。 ミユはそのまま彼を抱きしめた。 彼女の背中に彼の手が触れる。 「もう煙草の匂いはしませんね」 「そんなことどうでもいい」 再度に渡り、無関係な言葉を重ねる彼の意図を辿ってみる。 たいしたことではないから気にするなということか、それとも、これ以上言及されたくないということか。 詳細を問い質すつもりはないし、そもそも口外できないであろうことも理解している。 けれど。 ミユは両腕に力を込める。 「君がどこで何をしていても構わないけど、二階級特進するのだけは見たくないよ」 「…そうですね。微力を尽くします」 ミユさん肩が冷たいです、ちゃんと浸かって下さいと、またもや母親のような言葉をかけてきた彼に、今度ばかりは素直に従う。 いつもの軽口を叩く余裕がなく、ミユはしばらくの間黙って彼を見ていた。 やがて、自分が負傷した最中に同僚が失踪して、現在も行方不明であることを彼は打ち明けた。 始終感情を抑えた、まるで上司に報告するような理路整然とした話し方ではあったものの、ミユには彼の気持ちが理解できた。 「君も彼の特進を見たくないんだね」 何かを伝えようとして口を開きかけた彼は、結局唇を固く引き結ぶと黙って頷いた。 職業柄、公にできないことが多々あるのは承知していたが、今はそれがもどかしい。 けれど、ここまで話してくれたことだけでもミユは意外に感じていた。 と言っても抜かりない彼のことなので、情報開示の線引きはしっかりできているのだろうとも思う。 詳細は不明だが、彼が同僚のために今できることは既に全部試した筈だ。 そう聞いてみると果たして彼は肯定した。 こちらからは動けないのだとしたら、後は連絡を待つしかない。 今思い悩んでいても結果は変わらないのだから、しっかりと体制を整えて同僚の帰りを待とう。 君が健在であることもそれには含まれる。 彼自身も既にわかり切っているであろうことを伝えると、それでも彼は再び頷いて見せた。 今度はミユが引き寄せられ、抱きしめられる。 耳元で小さく感謝の言葉が聞こえた。 …私は何もしていない。 素人の意見など、聞くまでもないことだ。 なのに何故。 もしかして、彼はこの件を話すために来たのだろうか。 きっと誰でもいいから話したかっただけだ。 部外者の方が話し易いこともある。 それで、たまたま私の存在に気付いただけで。 ミユは自分の気持ちがわからなくなる。 けれどこれ以上、深く踏み込むのは怖い。 彼にも、自分にも。 彼の腕をほどいた彼女は、再び浴槽の端にもたれて湯船の下で膝を抱えた。 鋭い彼に胸中を悟られないよう、普段通りに笑って見せる。 こめかみから汗が伝い落ちるのがわかる。 そろそろのぼせてきたかもしれない。 「じゃあ今後も君が元気で過ごすために、取り敢えずピザでも取る?アイスも付けて」 「…好きな食べ物を与えれば機嫌が直る子供みたいな扱いは止めて下さい」 不満気な表情を見せる彼に、そんなつもりはないよとミユは明るく笑い飛ばした。 「でもねー、そろそろ着くと思うんだよね」 「既に注文してるってことですか?」 「君からメール貰った時にね。あ!何かピンポーンって聞こえた気がする。ちょっと見てきて」 「嘘でしょ…」 「財布が机の上にあるから」 「それくらい私が出しますよ!」 素直に浴室から出て行った彼を、ミユは笑顔で手を振りながら見送った。 シャツに手を通しながら何故かすぐに戻って来た彼は、浴槽の縁に手をかけミユに素早く顔を寄せてきた。 リップ音を響かせた不意打ちの可愛らしいキスに、彼女は固まったように身動きが取れない。 …今、何が起こったんだ? 「ピザとアイスの次はあなたですからね」 さらりと無表情で言ってのけた彼は、私に元気でいて欲しいんですよねと言い残しながら浴室のドアを閉めて、今度こそ玄関へ向かったようだった。 「…まあ、そうなんだけど。それにしても…うわー、似合わない」 彼がいなくなったことで急に広く感じていた浴槽へ、ミユは頭ごと全身を沈める。 自分は何もしていないにもかかわらず、恥ずかしさにのたうち回りたい気分だった。 5月初旬に、連絡ありました!という簡潔極まりないメールが来たので、良かったね!と簡潔に返した。 短い言葉ながらも感嘆符が彼の喜びと安堵を物語っているようで微笑ましかった。 色々な事情を抱えてはいるのだろうが、ともかく無事なら何よりだとミユは心から思う。 続けて今から行ってもいいですかとメールが届き、少しだけためらった後にいいよとだけ返した。 すでに暖かくなってきたので、彼に小言を言われる前に窓を開けておくことにする。 外へ向かって紫煙を吐き出すと少しだけ目に沁みた。 煙草はまだ止められそうにもない。 彼の来訪を心待ちにしている自分に気付き、苦笑する。 深入りする勇気もない癖に、私は彼と離れたくないのだろうか。 Next 20170618 |