傷から滲んだ赤い血が皮膚から伝い落ち、透明な水流と混じり合いながら排水溝へと吸い込まれてゆく。 錆のような匂いと鋭利な痛みに顔をしかめつつ、その様子をしばらく眺めていた。 もしもこれが誰かの、鬼ではなく人のものであった時。 不運にもその場に居合わせてしまった自分を想像してしまい、背筋が凍るような恐怖心に囚われる。 多少の傷ならどうにか回避できた経験はあるものの、今後もそうできるかは自信がない。 肌身離さず持ち歩いている鎮静剤は、心許ないお守りのようだ。 誰かを殺してしまう前に自らの命を絶つ目的で、拳銃を不法所持する鬼もいると聞く。 幾多もの他人の死を見ておきながら、私は未だに自らの死と対峙する勇気を持ち合わせていない。 悪夢のような架空の出来事を、脆弱な感情諸共押し流せることを祈るように、シャワーの勢いを強くして目を閉じる。 一見同じ人間だというのに、何故私はこんなにも人とは違うのだろう。 夥しい咬傷を負った上での失血死。 犯行現場の血痕は、獣に襲われたかのような遺体の惨さに比べるとあまりにも少ない。 会議室で写真抜きの報告書に目を通しながら、これで3人目かと忌々しい気分に陥る。 好き放題喰い散らかしやがってと犯人に毒づく一方で、とても他人事ではないと怯える自分が潜んでいることにも気付き、やりきれなくなった。 今回の事件の特殊性を鑑みて召集されたメンバーは、少人数にもかかわらず見知らぬ者が殆どだった。 元々課内が閉鎖的だからだろう。 被害者及び加害者のどちらかが鬼である場合、その類の案件に暗躍できる鬼の捜査員の存在は、けれど諸刃の剣でもある。 逃亡する犯人を強靭な力で容易く捻じ伏せることは可能でも、一度人の血に酔ってしまえばたちまち自我を失い制御不能となる。 圧倒的な力の前では鎮静剤を使用することすら難しく、逮捕する側であったとしても最悪命ごと奪われる羽目になる。 世間に知らされていない鬼絡みの事件は幾つも存在していて、いずれも被害は甚大なものだった。 警察組織としては“暴走しかねない凶器”を自分側に都合よく利用してはいても、その存在が公になるのは厄介なのだろう。 臨時的ではあるものの共に捜査することになった彼には、自分が鬼であることを最初から伝えておくことにした。 ここに呼ばれたからには鬼に対する多少の知識があるのだろうし、後々判明した方が何かと面倒だからだ。 それで距離を置かれようが陰口を叩かれようが、仕事さえしてくれれば構わなかった。 後は自分の前で流血さえしなければ。 「第2係W班の石丸です」 私の自己紹介を聞いた後で、彼は顔色一つ変えることなく自分の肩書きを名乗り、ごく普通の挨拶をかわした。 堅苦しいのは面倒なのでタメ口で結構ですと付け加えた彼自身はけれど、依然として敬語のままだ。 眠たげな目元に張り付いた黒い隈が、青白い肌のせいで際立っている。 それは吸血衝動を抑制できている鬼の特徴の一つでもある。 普段はメイクで上手く隠してはいるものの、私の隈も彼のそれに負けず劣らず相当酷い。 「…違ってたら申し訳ないけど、石丸さんは鬼じゃないんだよね?」 「違いますけど、よく聞かれるので気にしないで下さい」 マンガや小説を徹夜で読んだりするので、残念ながら不健康の結果ですと彼は無表情に告げた。 何が残念なのかを考える前に、色々な意味で耳障りな声が聞こえてきた。 「女でしかも鬼なんて使えねえの極みじゃねえか」 いくら組織が隠蔽したがっても、不穏な噂程広まるのが早いものらしい。 もしくは今しがたの私の話を耳聡く聞いていたかだ。 それにしても、鬼に喧嘩を売るなんて命知らずもいいところだし、女を見下す輩にも賛同できない。 それらを考えなしに吹聴してしまう浅慮さにも。 遊んでいる暇はないというのに何でこんなのが来てしまったのか。 思うところは色々ありつつも、面倒なので無視することに決めた矢先、隣にいた筈の彼が私に背を向けて立っていた。 「仕事する気がないなら帰ってもらえます?」 「何だと?」 「偏見で歪んだ個人的な意見など誰も求めていません。采配に文句があるなら自分が指揮を取れる役職に就けばいい」 緊迫感を漂わせた二人は僅かな間睨み合っていたようだったが、私に毒づいた男は自分の立場が悪いと判断する頭はあったのだろう。 舌打ちして肩を怒らせながら廊下へ出て行く様を無感情に眺めた後で、彼は何事もなかったかのような態でこちらを振り返った。 このような扱いには慣れていない。 身を挺して庇ってくれたとも取れるし、彼が言った通り、仕事に支障を来たす要因を早々に排除したかっただけかもしれない。 背後から冷やかすような口笛が聞こえる。 先程とは違い、気心の知れた同僚の仕業なので、軽く睨みを効かせただけで放っておくことにする。 まばたきを繰り返しながら彼を見ていると、じわじわと込み上げてくるものがあったが何とか我慢した。 これ以上周囲から注目を浴び続けるのは不本意とばかりに、彼は私の腕を掴むと会議室から連れ出し、解放されたと同時に私は吹き出した。 「…どう考えても笑う場面じゃないと思うんですが」 「ごめんごめん。ありがとう」 眉をひそめて何か言いたげだった彼は、結局溜息を吐くだけにとどめたようだ。 「ああいう手合いには慣れてる。弱い犬程よく吠えるんだよ」 「…そうですか。余計なことをしましたね」 「そんなことはないよ。追い払ってくれてスッキリした」 上辺だけの同情や励ましなど何の意味も持たず、当事者にならなければ理解できないことがある。 鬼ゆえの苦悩は人にはわからないし、人が持つ恐怖心は鬼のそれとは別物だ。 たとえ外見が同じでも、両者は決して相容れない。 少なくもと私はそう思っていた。 迂闊に二の句を告げられない様子で黙って立ち尽くす彼に笑顔を向ける。 不健康でヒョロくて無愛想だけど、察しが良くて意外にいいヤツだ。 「その場でやり返すと問題になるから、後で闇に紛れてぶん殴ろうと思ってたけど、君のおかげでその気も失せた」 「…後でぶん殴っても問題になるんじゃないですか。鷹月さんの立場だと特に」 「誰にも見られなければ大丈夫だよ。通り魔的な感じで」 「それもう傷害事件じゃないですか」 あからさまに顔をしかめる彼の様子が可笑しくて、また笑ってしまった。 「だから未然に防げて良かったよ。石丸さんのお手柄だね」 「…あなたねぇ」 「ああいう考えなしに失言する輩は日頃から大勢の恨みを買ってそうだから、どうせ犯人は絞れない。今回は命拾いしたね。…まあ全部冗談だけど」 猜疑心に満ちた視線で私を睨み付けたまま、彼は呆れたように何度目かの溜息を吐いた。 犯行時刻の類似とその現場が狭い地域であったこと、捜査範囲を絞ったことが功を奏し、早々に犯人を確保できた。 相手が鬼ともなるとさすがに無傷では済まなかったが、自分も含めて鬼が負傷する分には構わなかった。 被疑者を車に押し込んで、意気揚々と引き上げた同僚たちの後を追えばいい筈だった。 二人残された時になって彼の傷が目に入らなければ。 あの時の悪夢が現実になってしまったと、舌打ちする程度の理性は残っていた筈だった。 血の色を誤魔化すための愛用のサングラスは今や無残に砕かれ、道端に転がっている。 たとえ掛け直せたとしても今更抗うことはできないだろう。 この甘く匂い立つ彼の血の前では。 気付けば彼を地面に押し倒していた。 彼の手首を押さえ付けている私の爪は鋭く伸びている。 酷い気分だ。 変異した醜い姿を彼にだけは見られたくなかったのに。 …彼にだけは?誰にもではなく? 「鷹月さん、落ち着いて下さい」 動揺の気配を微塵も見せることなく、彼が静かに語りかける。 それが理解できているのだから、私はまだ自我を失ってはいない筈だと必死で自分に言い聞かせる。 その一方で、彼の両手首を更に締め付けながら、私は自分の長い爪を彼の肌に食い込ませている。 新たに立ち込める鮮血の香りに眩暈を覚える。 「あなたは大丈夫です。私の声は聞こえているでしょう?」 こんなに近くにいるのに、彼の声はとても遠くから響いているような気がする。 地獄からの帰路は長く険しいと歌ったのは誰だったか。 やっとのことで頷いて見せると、彼は表情を和らげた。 拘束されて傷付いた両腕の先、指だけを辛うじて折り曲げて、そっと私の手に触れる。 今にも自分の喉笛に噛み付こうとしている鬼に対し、決して向けられることのない筈の優しい笑みだった。 このような状況で、何故彼はそんなふうに笑うことができるのだろう。 その笑顔はやがて視界ごと霞んで、透明な雫が彼の頬に零れ落ちる。 私は…泣いているのか。 「鎮静剤を打つので、片手だけでも放してもらえませんか?」 抵抗の素振りは一切なく、彼は穏やかに話し続ける。 言葉を紡ぐ彼の薄い唇の端が、赤い血に濡れている。 彼から立ち昇る匂いはどうしようもなく魅惑的で、取り返しのつかない絶望的な快楽へと私を誘い続ける。 彼を失うくらいなら自分が死んだ方が余程ましだと腹を括ったが、拳銃は道端のどこかに転がったままだ。 視覚と嗅覚を遮断するべく、息を止めて強く目を閉じた。 両腕の力を抜いて崩れ落ちるように身柄を彼に委ねると、頭部と背中に彼の腕が回されたような気がした。 抱きしめられていると自覚する余裕はなかった。 その一方で聴覚はとても鋭敏になっていて、彼の胸を打つ規則正しい鼓動が、シャツ越しにはっきりと聞こえた。 血液が身体中を巡る音に肌が粟立つ。 彼の薄い皮膚を力任せに切り裂いて、そこから溢れ出る血を一滴残らず飲み干してしまいたい。 反吐が出そうな渇欲と、死に物狂いで抗う。 「鷹月さん」 自分の名を呼ぶ声がする。 ゆっくりと息を吐き、強く唇を噛み締める。 舌先に流れ込んだ自分の血は何の気休めにもならない。 左腕に小さな痛みが走る。 やがて身体中が弛緩し、重く感じ始める。 いつの間にか立場は反転し、背中に固く冷たい地面の感触がした。 やっとのことで瞼を持ち上げると、気遣わしげに自分を見つめる彼の顔があった。 痺れ始めた手で彼のネクタイを引っ張り、最後まで私を信じ、冷静に対処してくれた彼に口づける。 柔らかな唇に滲む彼の血は、微量ながらも陶酔を覚える程の甘さだった。 鎮静剤が本格的に効き始めるのを感じながら、舌を滑り込ませて粘膜の傷を辿る。 …冷たい唇だ。 でも、確かに生きている。 彼を殺さずに済んだ安堵感に包まれながら、子供のように泣き出した私は、そのまま眠るように意識を失った。 「鷹月さん、逃げないで下さい」 「逃げるよ!」 「逃がしません!」 事件から数週間後、夜更けの職場で長い廊下を疾走する男女二人の姿があった。 私が彼をあからさまに避け続けた結果だ。 …何で鬼の方が追いかけられているんだろう。 普通は逆じゃないのか。 彼は瞬く間に追いついてきた。 不健康でヒョロくて無愛想だけど、彼が相当強いことも俊足なことも知っている。 同時に私は驚いてもいた。 これがあの常に冷静沈着な石丸さん?と問いかけたくなるような強引振りではないか。 とうとう息が続かなくなり、観念して立ち止まる。 じりじりと近付いてくる彼を見つめ、弾む息を整えながら後退りしているうちに、呆気なく壁際に追い詰められてしまった。 「あなたが私から逃げ回っている理由は概ね理解しているつもりです。ですが私も大人しく引き下がるつもりはありません」 生半可な嘘では、彼は決して納得しないだろう。 思い切って本音を打ち明けることにした。 「石丸さんが無事で本当に良かった。…あの時のことを思い返すと、今でもすごく怖い」 彼は黙って耳を傾けている。 「大切な人を殺したくない。絶対に。だから、君に二度と近付かないことが最良の方法だと…」 「一人で勝手に決めないで下さい。鷹月さんは本当に諦められるんですか?それに相手の気持ちはどうなるんですか」 私は目を瞠り、改めて彼を見上げた。 相変わらずの黒い隈。 重たげな瞼の下の双眸は、強い光を宿して私を見ている。 苦しさのあまり自分のことしか考えられなかったけれど、それはつまり。 彼の顔が更に近付き、思わず息を呑む。 「あんなキスをしておいて、一方的に振らないでもらえます?」 不自然なまばたきを繰り返しながら、私は視線を泳がせた。 一度は落ち着いた筈の鼓動が再び速くなる。 すぐ目の前にある彼の顔がまともに見られない。 すかさず彼の手が私の頬に伸び、正面を向かされる。 彼の薄い唇に、あの時の傷はもうない。 「私鬼には結構詳しいんです。なので、あなた一人くらい何とでもできますよ」 実際この間は無事に済んだし、いざとなれば殺してあげます。 あなたが誰かを殺す前に。 「甘ったるい言葉なんか誰でも囁ける。でも鷹月さん、あなたが望んでいるのはこういうことでしょう?」 文字通りの殺し文句を吐きながら、彼は私の唇を塞いだ。 血は一滴も流れていないにもかかわらず、理性が揺らぎそうになる。 …もう二度と触れることはないと思っていたのに。 「…だから、安心して私のそばにいて下さい」 彼の両腕が私の背中に回される。 力強い鼓動が聞こえる。 あの時のように血の誘惑を感じないことを不思議に思う。 散々言いたい放題な彼の不遜な態度に、そう簡単に殺されてたまるかと私は怒ってもいい筈だ。けれど。 すごくちぐはぐで可笑しかった。 本当は、とても嬉しかった。 彼の物騒な発言は、私の不安を取り除き、恐怖心を打ち砕くためだとわかっていたから。 彼の腕の中で、涙を拭いながら私は吹き出した。 耳元で呆れたような彼の声が聞こえる。 「…どう考えても笑う場面じゃないと思うんですが」 「ごめんごめん。ありがとう」 20170524 |