…久し振りに床で寝た。
身体の節々に痛みを覚えつつ、横になったまま軽く伸びをする。
床は冷えている筈なのに寒くはなく、むしろあたたかい。
彼の胸部の上には毛布が掛けられていて、そこにあるのが眠りに落ちる直前まで読んでいた筈の漫画ではないことを、ぼんやりと疑問に思う。
携帯のアラームは鳴っていない。
そもそも鳴らす必要のない休日であることを思い出しながら、彼は時間を確認するためにその居所を探した。
程なくして見つかった携帯に手を伸ばすと同時に、自分のすぐそばに何かがあることに気が付く。
毛布に散らばる長い髪。
自分のものではない。
目線を移動させる。
開いたままの文庫本の上に投げ出された白い手。
ようやくそれが誰のものであるかを察した彼は、珍しくも慌てて飛び起きた。
その動作に気付いた様子もなく、当人であるミユは気持ちよさそうに眠り続けている。
ここが固くて冷たい床ではなく、まるで柔らかなベッドの上のように。
朝目覚めると見知らぬ異性が自分の隣で寝ていた。
厳密に言えばミユは“見知らぬ”異性には該当しないが、漫画や映画やドラマでは飽きる程見てきたシチュエーションだった。
だというのに実際に遭遇してみると、やはり咄嗟に頭は働かないものだなと彼は客観的に思う。
酔っていた訳ではないし、昨夜の記憶はきちんとある。
大方二人とも本に没頭しているうちに睡魔に負けて寝落ちというやつだ。
いい大人が二人して子供のようだ。
色気も素っ気もない。
だから全くもってのシロで、後ろ暗いことなど一切ない…筈だ。
…取りあえずシャワーを浴びよう。
付近に転がっていたクッションをそっとミユの頭の下に挟み込み、彼女に毛布を被せた彼は静かに立ち上がった。
多忙で不規則な仕事に追われながらも、彼は本や映画に親しんだ。
リビングにある大きな本棚は漫画やDVDや文庫本等で既に満杯だ。
常に寝不足気味な彼の目元にはいつも隈が張り付いている。
そのせいで時々鬼と勘違いされることもあるが、今のところ仕事に支障は来たしていない。
ミユは趣味の合う友人だった。
近所の本屋やレンタルショップや図書館で何度か出くわす機会が続いた後、マンション内でもばったり出会った時には正直驚いた。
挨拶がてらに少しずつ話すようになった結果、同じ所に住んでいることが判明し、そのうち漫画等の貸し借りをするようにもなり今に至る。
異性にしては気を使わなくても良い相手で、最近では彼の部屋で夜通し映画を見たりすることもあったが、今後は考えなければいけないかもしれない。
…あまり意識したことがなかったが、この場合、男性側の自分さえ気を付けていれば大丈夫なのだろうか。
互いに特定の相手がいないことは知っている。
ミユが初めて自分の部屋に来ることになった際に、どちらからともなく話したからだ。
職業柄、相手の言動からその人間性を見抜くことに彼は多少の自負がある。
普段のミユとの会話は殆どが趣味話で占められているが、お付き合いしている相手がいるのなら行けませんと固辞した彼女は至って良識的な女性に思える。
と言っても、自分の言葉を疑うことなく素直に信じたその後は、警戒もせずに彼氏でもない男の部屋でのんびり過ごしているのだから、少し疎いところがあるのかもしれない。
短い期間だけ共に働いた、部下思いで鈍感な人物が脳裏を掠める。
その彼はさておき、ミユは女性側なので軽率な行動を忠告することも一瞬考えたが、当事者が言うのも妙な気がする。
…考えるのが面倒になってきた。
朝は基本的に億劫だ。
そもそもこの類の疑問に関して正しい答えは得られない。
彼の知る多くの物語は長年彼を魅了し続けているが、所詮はフィクションに過ぎなかった。
美味しそうな匂いがする。
何かを焼いている音が聞こえる。
…背中が痛い。
なかなか開かない両目をしばたたかせながら周辺の様子を見渡し、ミユはゆっくりと身体を起こした。
手元にはページの折れた文庫本がある。
どこまで読んだんだっけとぼんやり考えながら、折れたページを伸ばしつつ本を閉じた。
「おはようございます。朝食、食べます?」
座り込んだままのろのろと毛布をたたんでいると、キッチンでフライパンを片手にした石丸さんが振り返ってこちらを見ていた。
本当は飛び上がる程に驚いたが、寝起きのため身体が全くついていかない。
「…石丸さん、おはようございます。食べます」
一見落ち着き払った自分の声は、やはり寝起きのためひどく掠れていた。
「顔を洗うなりシャワーを浴びるなり適当に使って下さい。タオルは脱衣所の棚にあります」
廊下の向こう側にあると思われる場所を指差した彼に、掠れた声でお礼を言いながら立ち上がる。
軽い眩暈を覚えつつ壁に手を伸ばし、そろそろと足を進めた。
さすがにシャワーは遠慮して顔だけを洗わせてもらうことにする。
冷たい水に触れているとようやく目が覚めてきた。
同時にミユは昨晩の自分の行動を反省していた。
知り合う前には色々な場所でよく鉢合わせる人だと思っていたが、いざ友人として付き合うようになると、彼はなかなか掴まらなかった。
時々メールのやりとりをしていても大抵は仕事中のことが多く、多忙な彼の都合が付いたのは久し振りのことだった。
久し振りだというのにたいした話もせずに、互いに新刊に没頭してしまったのはいつものことだが、彼はやはり疲れていたのだろう。
石丸さんが眠っているのを確認した時点で、彼に毛布をかけた時点で帰るべきだったのだ。
その後、続きが気になると再び本を開いたのが間違いだった。
それにしても。
普段と何ら変わることのない冷静な彼の言動にミユは安堵していた。
…でも、落ち着き過ぎのような気もする。
元々感情の起伏があまり表情には出ない人だが、これも仕事柄なのだろうか。
慌てふためく彼の姿は想像もつかないけれど。
多分怒ってはいなかったと思うが、迷惑をかけてしまったことは確かだった。
取りあえず後で謝ろう。
起き抜けの際の彼とのやりとりを、彼女はぼんやりと思い返す。
確か朝食が何とか…。
そして自分は食べるとか何とか、平然と返事をしたのではなかったか。
彼に合わせる顔もないというのに、すぐには帰れなくなった失態に気付いたミユは頭を抱えた。
勇気を振り絞って部屋に戻ると、テーブルの上には朝食の準備が整いつつあった。
白い皿の上に厚いベーコンと目玉焼き。
何だかジブリ飯みたいだと少し嬉しくなった。
石丸さんはファストフードばかり食べていると聞いたことがあったので、彼の作ったごはんを食べられるのは貴重かもしれない。
洗面所とタオルを借りたお礼を言って手伝いを申し出ると、じゃあこれ運んで下さいとコーヒーの入ったマグカップを二つ渡された。
「あの、色々とすみませんでした」
トーストを齧った彼は口を動かしながら不可解そうな表情でミユを見ている。
緩く結ばれた生乾きの髪に気付き、風邪を引かないだろうかと余計な心配をしてみる。
目の下の隈は相変わらずだ。
「まず勝手に朝まで滞在してしまったこと。それから毛布を持ってくるために無断で寝室に入ってしまったこと。最後に本のページを折ってしまったこと」
本の続きが気になったのだとか石丸さんが寒そうだったとか、全ては睡魔に負けてしまった結果だとかを、言い訳がましく小声で付け加えた。
「謝る必要はなくないですか?」
続きが気になる心理はよく理解できるし、毛布に関してはこちらがお礼を言うべきだし、本のページなんて折れてなんぼです。
ミユさんは律儀ですね。
彼は相変わらず淡々としていたが、すなわち気にする必要は全くないのだと言ってくれていることに安堵した。
「それよりもミユさんまで床で寝てしまって、身体は大丈夫ですか?」
…まあ、気持ちよさそうに眠ってましたけど。
そう言いながら、フォークでベーコンを刺した彼の口元には微かな笑みが浮かんでいる。
無防備な寝顔を見られたことを今頃自覚したミユは、顔に血が昇るのを感じた。
そして同時に気が付く。
自分もまた、意外にあどけない彼の寝顔を見てしまったのだと。
急に気恥ずかしくなったミユは彼を直視することができなくなり、無闇に視線を泳がせた。
「身体は丈夫だし、どこでもすぐに眠れるんです」
開き直ってそう返すと、そうですかと一見気のない返事をされたが、彼は何かを考えている様子にも見えた。
頬の熱を意識しないように、寝過ごす羽目になった本の内容について話をしてみるも、全部で3巻です勿論貸しますよと短く返ってきて、すぐに会話が終わってしまう。
その後も話を逸らせるべく他の話題をふってみるものの、なかなか会話が続かない。
一体自分は何に焦っているのか。
いつも通り落ち着こう。
ミユは仕方なく食べることに集中したが、気付けば彼の視線は自分に向けられていた。
ぎこちなく目線を逸らしつつ、マグカップを両手で持ち上げる。
「互いの寝顔を見た関係ってどうなんでしょうね」
危うくコーヒーを吹き出しそうになったが、何とかむせるだけにとどめる。
大丈夫ですかと気のない彼の声が聞こえる。
「どう、とは?」
「いや、第三者からはどう見えるのかと思って」
色恋沙汰に邪推する人が殆どだと思われるが、その情報だけなら色々な状況が考えられます。
冷静にそう返した自分を褒め称えたいとミユは思う。
「たとえば友達数人で家飲みした時とか、運転を交代しながらの長距離ドライブとか、授業中でもあり得るし、感心はできませんがきっと職場でもありますよ!」
何故か力説してしまったミユに対し、成程そうですねと無表情で頷く彼の意図が全く読めない。
「一枚の毛布で共に朝を迎えた関係…」
一瞬気を抜いていたミユは再度むせる羽目に陥った。
彼の目的は一体何なんだろうと思いながら、涙目で色恋沙汰以外のあり得る状況について懸命に考えを巡らせる。
「せ、戦場での補給の乏しいキャンプとか吹雪く中の小屋で暖をとるためとか…」
もう既に苦しい。何も出てこない。アイデアの枯渇した作家のようだ。
自然と下がってしまった顔を懸命に持ち上げると、再び彼の視線とかち合った。
気のせいだろうか。
彼はいつになく楽しそうに見える。
「…石丸さん、もしかして私の反応で遊んでます?」
「そう見えますか?」
「ものすごくそう見えます」
「…ばれましたか」
頬を赤く染めたまま、なんとも言えない表情を見せるミユに、今度は彼が吹き出しそうになるのを堪える番だった。
「互いの寝顔も見たし一枚の毛布で共に朝を迎えた仲なのに、そんな相手の心を弄ぶなんてひどいです理不尽です人でなしです」
あらぬ誤解を招くような抗議の言葉と共に、彼女が繰り出してきたダメージ皆無の攻撃を両手で受け止めている彼の口元は緩んだままだ。
どこでもすぐに眠れると言ったミユに、やはり忠告するべきだろうかと考えていた。
その後彼女があまりにも不自然に話題を逸らそうとするので、わざと戻してみたところ、意外な反応があった。
意識したことがないと思っていたが、果たしてそうだったのだろうか。
自分も彼女も、敢えて触れないようにしていたのではないのか。
そう気付いた時には既にミユの手を掴んでいた。
息を呑んだ彼女は、ただ驚いたように目をまたたかせている。
自分に対し、一切の警戒心を抱くこともなく。
…ああ、少々疎いどころではない。
彼女はとても無防備だ。
甘ったるいその隙に、強引に付け入りたくなる程に。
不意にF班での日々を思い出す。
当初は警戒と緊張と猜疑でもって迎えられた彼はやがて、そこが家族や大切な人と過ごしているかのような優しさに満ちていることに気付いてしまった。
柔らかな毛布にくるまり、自分の隣で眠るミユの体温を感じながら目覚めた今朝の出来事を何故か思い返し、すぐに腑に落ち苦笑する。
やはり自分は甘党なのだろう。
けれど。
居心地が良いだけの関係は充分に貴重だが、どこか物足りないとも思う。
そして互いを想い合うがゆえに、酷く困難な茨の道を歩み続けるあの二人。
彼らとは比ぶべくもないが、あの色恋沙汰に少しでも感化されたのだとしたら案外自分も単純だ。
「…って、あなたの手何でこんなに冷たいんですか!鬼並みじゃないですか。寒いならそう言ってください」
冷え切ったミユの手を掴んだままエアコンのリモコンを探していると逆に握り返された。
思わず彼女に向き直るとそのまま両手を取られてしまう。
振り払うのは簡単な筈なのに、何故かそうできずに彼はミユを見ていた。
「鬼じゃないですけどいつもこんなものですよ。寒くないので大丈夫です」
彼に対して礼を言ったミユは、石丸さんの手はあたたかいですねと彼の両手に触れたまま、今しがたまで抗議していたことも忘れたかのように朗らかに笑っている。
目を逸らすこともできずに彼女を見ていると、不意にミユはその笑みを消し去り、切実な表情で彼を見上げた。
掴まれていた両手に力が込められたのがわかる。
「石丸さんは、鬼ではないんですよね?」
「…残念ながら、違います」
彼の言葉を一文字ずつ辿るように、残念ながらと彼女は呟き、残念ながらと彼は繰り返した。
彼を見つめたまましばらくの沈黙を守った後で、ミユは再び笑顔を見せる。
自分が鬼ではないことに、彼女はただ安堵しただけなのだろうか、それとも。
本の誘惑に負けてしまった時、実は少し寒かったんです。
でも石丸さんに寄り添っていたら、とてもあたたかくて気持ちが良くて、つい眠ってしまいました。
…人の心を弄んでいるのはどっちだ。
色々思うところはあれど、取りあえず今はミユに両手を取られたまま、彼は盛大な溜息を吐くことしかできなかった。
20170318