隋分前に廃墟と化した筈の工場は、けれど絶えず煙霧に包まれているように見えた。

 晴れた日でも青い空を見ることができるのは稀で、灰色がかった靄が本来の空の色を覆い隠している。

 陽の光はその靄に遮られている所為か、薄曇りの時のようにどこか心許ない輝きで廃墟群を照らしていた。

 雨の日ともなれば、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われた空は日中でもどんよりと暗く、子供の頃は、家の窓を叩き続けるこの雨はもう二度と降り止まないのではないかという恐怖にさえ囚われた。

 その近くを流れる澱んだ川の畔には、レンガ造りの古びた家が建ち並んでいる。

 住人以外の者が立ち寄ることは滅多にない、袋小路の陰鬱とした地域。

 ここが、私の生まれた場所だ。





 両親はいつも留守がちで、物心ついた時から私は一人で過ごすことを余儀なくされた。

 家族が揃って食卓に着くこともほとんどなく、揃ったとしても、たいして広くもない家の中の空気はいつも重く張り詰めていて、二人の関係が上手くいっていないことは幼い私にも理解できた。

 両親が互いを罵倒し合う攻撃的な言葉を、耳に突き刺さるようなその声音を聞くのがとても辛かった。

 日中であれば家から出て行くこともできたし、私に対しては厄介事を持ち込まない限り二人共無関心のようで、特に煩く言われることもなかったが、夜ともなればそういう訳にもいかない。

 両親の諍いから逃れるべく自分の部屋のベッドに潜り込んではみるものの、薄い壁は何の隔たりにもならずにいる。

 目を強く閉じて両手で耳を塞ぎ、心を抉り続ける残酷な時間が少しでも早く過ぎ去るようにとひたすら祈り続けた。





 近所に同じ年頃の子供を見かけることはほとんどなく、私は一人遊びに慣れるしかなかった。

 別の地域に住む子供を見かけても何故か相手にされなかったり、その親から心無いことを言われたりと嫌な思いをすることも多かった。

 ここに住む人々が周囲から差別めいた目で見られていたことを、幼い私は気付くべくもなかったのだ。

 家を一つ挟んだ隣には十歳くらいの男の子が住んでいた。

 五、六歳程度年上ではあっても子供は子供だ。

 けれど彼はいつも子供らしくない気難しそうな表情をしていて、私は彼に話しかけることさえできずにいた。





 昨夜も両親の言い争いは夜通し続き、私は眠気の為に目をこすりながら川沿いの道を歩いていた。

 今は家に誰もいないので外に出る理由はなかったのだが、空っぽの薄暗い部屋に一人きりでいるのはやはり寂しかった。

 二人が言い争う姿を見るのはとても辛い。

 幼い自分の子供にそのような思いを抱かせていることにも気付かず、そしてその様を平然と見せつける、決して褒められたような父と母ではなかった。

 それでも私にとっては唯一の肉親なのだ。

 難しいことはまだまだ判別のつかない年だったが、それなりに色々と考え込んでしまったのだろう。

 舗装されていない道に足を取られた私の小さな体は、いとも簡単に地面に倒れた。

 腕や膝を強打した痛みに顔をしかめる。

 草と土の匂いがする。

 常に澱んでいる川の水をたっぷりと吸い込んでいるかのように、決して心地の良い匂いではなかった。

 不運な出来事が立て続けに起こり、私にできるのは唇を噛み締め涙を滲ませることくらいだ。

 誰も抱き起こしてはくれない。

 人通りは少なく、たとえ誰かが通りがかったとしてもそうしてくれるとは限らなかった。

 自分で立ち上がるしかないのだ。

 一人きりでいることに慣れるしかなかった私にとって、それは決して難しいことではなかった。

 けれど。

 改めて自覚した孤独と寂しさが私の心を容赦なく侵してゆく。

 果たして本当に痛むのは、体に負ったばかりの傷だけなのか。

 今迄我慢していたものがついに溢れ出したかのように、行き場のない感情を曝け出すかのように、私は声を上げて泣いた。





「転んだのか」

 突然聞こえた声に私は驚き、しゃくりあげながら声の主を見上げる。

 誰かが声をかけてくれるなど、思いもよらなかった。

 長めの黒髪に黒い目、不機嫌そうな表情、痩せぎすの男の子が私を見下ろしている。

 一つ挟んだ隣の家に住む彼だった。

 時々姿を見かけることはあるものの、こうして彼の声を耳にするのは初めてだった。

 地面から体を起こすと、乾いた土埃にまみれた洋服や膝の生々しい傷が目に飛び込み、再び涙がこみ上げる。

 瞬時だけ忘れ去っていた痛みが一気に押し寄せた。

「立てるか」

 咄嗟には返事ができなかった。

 動くこともできず地面に座り込んだままの私は、目に涙を溜めながら彼を見ていた。

 彼はやはり不機嫌そうに私を見下ろしていたが、すぐ傍まで来ると背中を見せてその場に膝を折った。

 背負ってやるという意味だとしばらくしてから気付いた私は、ためらいながら彼に手を伸ばす。

 彼は細身の小柄な少年ではあったが、その頃の私には彼の背中が充分に広く逞しいものに感じられた。





 彼は迷うことなく私の家まで送ってくれた。

 私がこの家に住む子供だということを彼も把握していたようだ。

 膝の傷口を洗われた時は転んだばかりの時よりも痛みが酷く、私は再び声を上げて泣いた。

「我慢しろ。すぐに終わる」

 泣きじゃくる私を宥めながら、彼は私を椅子に座らせてその前に跪いた。

 器用な手付きで消毒を済ませ、包帯を巻いてくれるその間もなかなか涙は止まらなかった。

 けれどそれは全て痛みの所為であり、私はその時すっかり忘れ去っていたのだ。

 地面に倒れ伏せた時に自分の心を支配していたどうしようもない孤独や哀しみを。

「終わったぞ」

 手当てが済んでも惰性のように泣き続ける私を見つめた彼は眉をひそめ、やがて溜息を吐いて立ち上がった。

 こちらに向けて伸ばされた手に思わず目を瞑る。

「大丈夫だ。もう泣くな」

 そろりと、まるで繊細な物に触れるように頭を撫でられた。

 両親にさえも滅多にされたことがない彼の仕草に私は驚いていた。

 彼もまた自分の取った行動にどこか自信が持てないようで、ぎこちなく撫でた後はこれでおしまいだと言わんばかりに私の髪をくしゃくしゃにした。

 優しく、あたたかい手だった。

 自然に頬が緩む私の様子に彼は安堵しているように見えた。

 いつの間にか涙は止まっていた。





 それからは彼の姿を見かける度にその後をついて回った。

 彼はやはり子供らしからぬ無愛想振りで、私に笑いかけてくれることなど一度としてなかったが、それでも面倒がらずに付き合ってくれた。

 本を読む楽しさを教えてくれたのも彼だった。

 私の家にはなかった絵本を貸してくれ、知らない言葉については私がきちんと理解できるまで、何度でも話を聞かせてくれた。





 ささやかな幸せを享受できた日々は瞬く間に過ぎ去り、ある時から彼は姿を見せなくなった。

 彼の両親は変わらずここに住んでいるようだし、引っ越してしまった訳ではないようだ。

 父や母に聞いてみても邪険にされるだけでまともな答は貰えず、もう彼に会えないのだと思うと酷く寂しくなったのをよく覚えている。

 彼を知らなかった頃に、何かもかもが元通りに戻っただけだと自分に無理矢理言い聞かせて、彼のいない空虚な日々を過ごした。

 けれど彼は決して怖くない人だと、実はとても優しい人だということも私は知ってしまった。

 絶えず自分にまとわりついて離れずにいる、今迄とは比べ物にならない寂寥感はどうしても拭いきれなかった。





 一際寂しさが募る秋が過ぎ、心までをも凍えさせるような冬が過ぎ、様々な生命が慈しみ育まれる慰めの春が駆け抜けてゆく。

 そして夏の暑さを感じ始めた頃、彼は戻って来た。

 寮がある学校に入学したのだと、彼は何でもないことのように話した。

「りょうってなあに?」

「寝泊りできる部屋が学校にあるんだ。だから休暇以外は帰ってくる必要がない」

 無感情にそう告げた彼の言葉は、暗に家に戻ることに対して抵抗があるのだと伝えていた。

 大人にならずとも、ここから抜け出す方法があることを私は初めて知ったのだ。

「私も同じ学校に行く」

「入学できるのは十一歳になってからだ」

 自分の指を使って計算しようとすると、五年も先の話だと彼は言った。

「…それに、難しいかもしれない」

「どうして?」

 彼は私を見たまま言葉を濁し、その様子はまるで何かを迷っているようにも見えた。

「たくさんのお金が必要なんだ」

 自分の家が裕福ではないことは幼いながらも理解していたので、私は早くも言葉に詰まってしまった。

 彼のいなかった日々の寂しさを思い起こすと胸が締め付けられる。

 少しでも、彼と一緒に過ごしたかった。

「…じゃあその近くの学校に行く」

 けれど、彼は淡々とした態度でそれも難しいと答えた。

「どうして?」

「すごく遠いんだ」

「遠くても行く!」

 延々と駄々を捏ね続け、とうとう泣き出してしまった私を、彼は珍しくも慌てながら懸命に宥めてくれた。

 同じ学校に通うことは難しいけれど、夏休みには毎年家に戻り、必ず一緒に遊んでくれることを約束して。

 彼の動揺振りが私は嬉しかったのだと思う。

 普段は冷静で無表情な態度に隠されている彼の本心を、僅かなりとも垣間見ることができたような気がしたからだ。





 毎年夏が待ち遠しかった。

 一年振りに見かける彼は去年よりも明らかに背が伸びていて、成長の早さをうかがわせた。

 彼とどのように過ごしたのかはあまり覚えていないし、交わした会話も少なかったように思う。

 ただ傍にいてくれるだけで嬉しかったのは確かだ。

 長い休みではあるものの毎日会える訳でもなく、彼と過ごした僅かな時間は瞬く間に過ぎ去った。

 やがて夏休みの終わりを告げる秋が訪れると、肌に感じる風の冷たさ以上に心が寂しくて震えた。

 彼の言った通り、私は十一歳になっても彼と同じ学校に入学することはできなかった。

 そして毎年律儀に会ってくれる彼に、少しずつ翳りのようなものを感じるようになったのはいつ頃からだったか。

 やがて卒業を迎えた彼は家に戻ることもなく、私の前から姿を消した。





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20110502



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