愛をこめて朝食を


午前5時30分。1日が始まる。
私は目覚ましを止めて起き上がり、隣に並ぶすでに温もりを失った布団と同じように自分の布団を整えた。顔を洗い、お気に入りのウサギ柄のエプロンを付けると、台所に立って使い慣れた包丁を握る。

ご飯になめこのお味噌汁。鰆の味噌焼き。大根と鶏肉の煮物と菜の花のおひたし。
時折時間を確認しながら、彼の好みに合わせた和食で朝の食卓を整えていく。

午前6時15分。そろそろ帰ってくる頃だろうか。
そう思って時計を見ればやはり、いつも通りの時間に玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯できてるよ」

早朝の稽古を終えたばかりの弦一郎と共に席に付く。丁寧に手を合わせて箸をとる。彼と暮らし始めてから、朝食をゆっくりと食べるようになった。いつもトーストとコーヒーで済ませていたのに、今ではこれが自然になった。

「ほう、鰆か」
「うん、西京焼きにしてみた」
「美味いな」

普段の仏頂面が少し緩んだのが分かる。ありがとう、と私も微笑む。言葉数は決して多くないけれど、些細な表情の変化から言わんとしていることが読み取れるようになった。

「また料理の腕を上げたな」

彼は嘘をつかない。
彼が美味いと言うときは確かに上手く出来たときだし、塩の量を変えたか、だとか煮込み方が足りないのではないか、などと言うときは大体その通りなのだ。けれどどれだけ失敗しても、彼は絶対に不味いとは言わないし、絶対に残すことなく食べてくれる。

「毎日作っていますから」

そんな彼に褒められたのが嬉しくて少しくすぐったくて、照れ隠しのように私は答えた。慣れないうちは辛かった早起きも、朝食や出勤の支度にたっぷりと時間が使える便利さを知ってしまえば、いつしか苦にはならなくなった。

午前7時30分。出勤時間が近づいている。
支度をし、今日のスケジュールを確認してから家を出る。どちらが早く出勤するかはまちまちだけれど、最近は言ってきますを言う方が多いだろうか。必ず聞こえる気をつけて、の言葉が嬉しい。

午後0時10分。昼食の時間だ。
私は朝弦一郎の分と一緒に用意してきたお弁当を広げる。食費も浮くようになったし、外に行かない分ゆっくりと味わう余裕が出来る。食べ終えた後の眠気さえなければ、私はこの早起きの生活が気に入っていた。

午後5時40分。残業確定。
仕事の合間に弦一郎にメールを送る。チャットアプリの方が便利だと思うけれど、随分前にスマホに変えた彼は未だに悪戦苦闘しているらしい。

『ごめんね、仕事で遅くなる。何時になるかわからないから、夕食は適当に済ませておいて』
『分かった。頑張れ。』

短い返信にもいちいち句読点をつける律儀さ。無機質なメールの文面からでも、彼の表情が伝わってくる気がした。

午後11時18分。ギリギリで終電を掴まえた。
電車に乗って一息つく。帰る頃には日付が変わっている時間だ。遅くなる日は先に寝ていてといつも言っているけれど、弦一郎は今日も待っていてくれるのだろう。読みたい本があったのだ、とかなんとか言って。頑固で不器用な優しさを私はよく知っている。

午前0時12分。灯りがついたままのドアを開ける。

「ただいま、弦一郎」
「お帰り。疲れただろう、早く風呂に入って休むといい」
「そうする、ありがとう。弦一郎は先に寝てていいよ」

私は眠い目を擦りながら脱衣所に向かう。
明日の朝食は何にしようか。たまにはトーストで手抜きしたいけれど、たるんどるって言われるだろうか。コーンフレークを出したところでそんなことを言う人じゃないのは知ってるし、毎朝和食作りを頑張るのは私の勝手なんだけど。

午前1時。目覚ましをセットして床につく。
流石に残業の翌日の早起きは気合を入れないと厳しいものがある。いつもより大きめのボリュームにすると、私は布団に潜り込んだ。
隣で寝息をたてている弦一郎の寝顔を見るのはもう慣れたけれど、意外と寝顔は年相応で何度見ても何だか可笑しくて笑ってしまう。

「おやすみなさい」

聞こえてはいないだろうけど、そう呟いて布団を直せば、その寝顔が少し微笑んだ気がした。

午前6時10分。

「───え?!」

時計を見て私は愕然とした。6時を過ぎている。
そんな馬鹿な。昨日確かにセットした目覚ましは鳴った記憶が一切ない。今までどんなに疲れていても、目を覚まさないことはなかったのに。弦一郎の布団はもう冷たいから、いつも通り起きて稽古に行ったのだろう。そろそろ帰ってくる時間だ。

どうしよう。どうしよう。どうしよう。

寝起きの頭は軽くパニックを起こしたまま、習慣的に半ば無意識に向かった台所で───私はもう一度驚いた。

「……え?」

そこで目にしたのは

ウサギ柄のエプロンをした

真田弦一郎

その人だった

「───えええええええ?!!?!」

「起きたのか。お早う」

弦一郎は平然と振り向き、手際良く手を動かしている。
え、料理できたのか。それ私のエプロン。ウサギと弦一郎。シュールすぎる。っていうか稽古はどうしたの。
回らない頭でぐるぐると考える私に弦一郎は言う。

「もうすぐ朝食ができるぞ。顔を洗ってこい」

あ、バターのいい匂い。言われるままに私は洗面所に向かう。卵を割る音に続いて、ジュワッとフライパンに広がる音が背中から聞こえた。

午前6時15分。
いつも通りの時間に2人でいただきますと手を合わせる。
並べられたのはチーズトーストにミネストローネ、スクランブルエッグとはちみつヨーグルト。

「あの、弦一郎……」
「む、何だ。口に合わなかったか?」
「いや、美味しいけど……じゃなくて」

私が起きる気配がなかったから朝食を作ってくれたのか。
和食メインに変えたから食パンはストックしてなかったはずだ。わざわざ買いに行ったのか。聞きたいことがたくさんあってうまく言葉が出てこない。

「昨日は遅くまで仕事だっただろう。作ってもらうばかりでは悪いと思ってな」

そんな私の気持ちを汲んだように弦一郎は続ける。

「それに、お前は洋食を好んでいただろう」

確かにこのトーストは私が好んで買っていたものだ。サクッとした食感がいいと話したような記憶もある。そういえばミネストローネもスクランブルエッグも私が好む味付けだし、ヨーグルトにははちみつを入れるのが大好きだと言ったのも私だ。

「もしかして……弦一郎が私の目覚まし止めたの?」

稽古のために私より早く起きる弦一郎が、目覚ましを止めて寝かせておいてくれたのだとしたら。
今日は日課の稽古を切り上げて、わざわざ私好みの朝食を用意してくれたのだとしたら。

「な、何の話だ」

答えは聞かなくても分かった。横を向く弦一郎の表情が何より雄弁に語っている。全然隠しきれてないけれど、気づかないふりで私は笑った。

「明日の朝食、楽しみにしててね」
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