学校では王子様と名高い彼だけれど、前世はバイキングか野盗の類だと私は確信している。
この男は姿形こそ美しく正論しか口にしないが、やっていることはそれに反して非道以外の何物でもない。


「ほら、休みだからって遅くまで寝ていたら一日のサイクルが崩れて月曜日辛い思いをするのは君だよ」
そう言って嫌がる私をベッドから無理やり引きずり起こし、ダイニングテーブルに座らせる。
目の前にはブルーラインのワンプレートにカンパーニュとソーセージ、スクランブルエッグにそれからサラダと果物が乗っている。
ここは代官山のカフェでしたっけ?と聞きたくなるような見事なブレックファーストだ。
しかしこんなのどこから湧いてでてきたのだろう。私が買った覚えのない物ばかりだ。
「…コレ、どうしたの?」
「君が眠っている間に買ってきたんだよ。ホラ、冷める前に食べよう」
まだ覚醒しきっていない頭をゆらゆら揺らしている私を無視して彼はいただきますと手を合わせた。


そもそも何故こんなに眠いかって、話だ。
昨夜、私はちゃんと午前零時を過ぎる前にベッドに入った。明日は休みだから本当は夜更かししたい気持ちを抑え、目を瞑ったのを覚えている。
しばらくして、うとうととあともう少しで本格的な眠りの世界へ旅立とうとしているとき、玄関の方で突然ガチャガチャと乱暴な音が聞こえた。
その音で一瞬にして私の目は覚め、血の気が引くのがわかった。
一人暮らしのワンルームアパート。逃げ場なんてどこにもない。
扉が開いたのが気配でわかった。足音がまっすぐこちらへ近づいてくるのをベッドの中で震えながら聞く。
これは大学へ進学して甘つ一人暮らしがしたいなんて我儘を言った報いだろうか。あぁ、こんなことなら言う事を聞いて、遠くても実家から通えばよかった。
助けて、お母さん、お父さん。助けて、不二くん−

ごそりと何の躊躇いもなく、私のベッドに侵入してきた人物に悲鳴をあげる前に口元を手で塞がれる。
「来ちゃった」
そう笑ったのは、他でもない先ほどベット中で助けを求めた彼氏、不二周助であった。
もがもがと口元を覆う彼の手を首を振って、剥がす。
「な、なんで…」

「会いたくて。明日まで待てなかったんだ」

頭の中で、白黒のストライプのレフリーシャツを着た人が笛を吹いてイエローカードを掲げた。
何故こんな時間に何の連絡もなしに来るんだとか、何故渡した覚えのない鍵を持っているんだとか、お願い靴くらい脱いで欲しいとか、色々なことが頭に浮かぶけれど、結局どれも声にできなかった。
ぱくぱくと金魚のように口を開閉させ狼狽えている私なんか気にとめる様子もなく、彼はそのまま好き勝手に私の身体を弄り、そして勝手に満足して勝手に眠りについた。
私はというと、そのあと倦怠感やら何やらで、結局窓の外の空が白むのを見届けるまで眠れなかった。


「食べないの?」
昨夜のことをうじうじ思い出しながらスプーンでスクランブルエッグをつついていると、彼が私に微笑みかけてきた。
怒っていることが伝わるようにジロリと睨むが、彼は涼しい顔を崩さない。紅茶飲む?なんて聞いてくる。
根負けして先にため息をついたのは勿論私だ。
いただきますと小さく呟くと、どうぞと返事が返ってきた。

まず、どろりととろけている卵をスプーンに一掬い。
「…美味しい…」
「そう、口に合って良かった」
それは本当に美味しかった。少々大げさな気もするが、こんな美味しいスクランブルエッグは初めて食べたと思った。
私が地味に感動している中、彼は今しがた湧いたケトルからガラスのポットにお湯を注ぎ入れている。
ポットの中で茶葉がジャンピングして円を描きながら舞っている。
彼がくるっと小さな砂時計を回し、テーブルに置いた。
「今日はどこへ行こうか?」
「へ?」
「君とボクの記念すべき初デートだよ。ボクもいっぱいプランを考えたんだけど、君と行きたいところがありすぎて絞り込めなかったんだ。だからここは君の意見を聞こうと思って」
「あ、うん。そう、ありがとう」
そういえば、今日の名目はデートだったなと思い出す。
私たちは付き合うプロセスがひっちゃかめっちゃかだったため忘れそうになるが、まだ付き合い始めて一週間ほどしか経っていない。
というかそもそも付き合っていると私が認識したのは三日前だった。


◇◆◇


「今週末“デート”しようよ」
「え?」
三日前、大学のカフェテリアでコーヒーを飲んでいるといきなり向かいの席に彼が現れた。
一緒にいた友達はぎょっと驚いて、課題が〜とかなんとか言って早々に逃げ出した。
「…なんで、私とデートなんか…不二くんは他にもいるでしょ、そういう子」
「え?なまえは可笑しなことを言うなあ。ボクは君と付き合ってるつもりだったんだけど…」
違うの?と小首を傾げる姿があざとい。
「君は好きな子以外とあんなことするのかい?」
批難するような眼差しに一瞬狼狽えたが、考え直す。勝手にシたのはそっちだろうと心の中だけで叫んだ。

先週の金曜日、久しぶりに同じゼミ生同士で飲み会があった。
課題明けだっため二徹にもかかわらず、初っ端からハイになり飲みすぎて案の定帰る頃には完全にグロッキー状態。トイレの住人になっていた。

「大丈夫?もうみんな次のお店に行くみたいだよ」
個室の外からノック音とともに不二くんの声が聞こえた。
みんなのアイドル不二くんが、こんな勝手に酔っているあまり仲良くもないただの同級生に優しくしてくれるなんて思わなかった。
だから単純に嬉しかった。
「もうだいぶ平気になったけど、私次のお店は無理だから、もう不二くんも先に行って大丈夫だよ」
「心配だから顔見せてくれないかな」
心底心配そうな声に胸がきゅうんとなる。
だからありがとうと言うためにほんの少しだけ扉を開ける。吐き気で涙目の顔をあまり見られないようにほんの少しだけだ。
開いた隙間から彼を見上げれば、突然足を扉の隙間にねじ込まれ、次の瞬間には再び彼の手によって内側から鍵がかけられていた。
彼は唖然とする私の顎を掴み、噛みつくようにキスをする。その拍子に私は壁に後頭部を強打した。
驚いて彼から逃れようとするが、彼は全くビクともせず、それどころか彼の生暖かい舌が私の口内をどんどん荒らしていく。
あまりの急展開に頭がついていかない。実はこの人も酔っているのだろうか。だってこんなの正気の沙汰じゃない。
ここお店のトイレだし、私たちはただの知り合い程度の付き合いしかないし、しかも私はさっき吐いたばかりだ。こんな女、私なら絶対ごめんだ。
「君は不用心だね」
「な、何?」
「『オオカミと七匹の子ヤギ』って話知ってる?」
「は?」
「扉を開ければ、子ヤギはオオカミに食べられちゃうんだよ」
彼の瞳はキラキラ星が輝いていて確かに王子様みたいだけど、その奥には宇宙のような深い果てない闇が隠れていた。
そして彼は私をそのまま内側から喰い破る。その様はまさにオオカミと呼ぶに相応しい獰猛さだった。
そういえば、このときも頭の中ではレフリーが笛を吹いていた。


◇◆◇


「ちょっと遠出してお台場のプラネタリウムもいいし、六本木で美術館もいいよね。今、森ビルも国立も結構面白そうな展示してるんだ」
うん、とかへー、とか適当に相槌を打ちながらパンをかじる。
いつも食べている一斤七十一円の食パンにはない、歯ごたえと小麦の香りが私の鈍った五感を少しずつ起こしていく。
「聞いてる?」
彼が手を伸ばして私の顎を掴む。結構痛い。
「聞いてるよ。聞いてるから放して」
「君はいつもなんだかぼーっとしてるから、一人にしておくと不安だなあ」
優しく微笑み、顎から手が外された。
私はアンタといた方が不安だ。自分の常識が次々と崩れ去ってしまって、最後には彼なしでは生きられない廃人になってしまいそうで怖い。
今だって、昨夜だって、あの日だって、結局私は彼の非常識を受け入れてしまっている。彼の突飛な行動は間違いなく恐ろしいが、何より恐ろしいのはそれを許してしまっている自分だ。
好きなだけ蹴散らされて、暴れられて、振り回されて、彼の気が済めばハイ、サヨナラっと爽やかに去っていく姿が今から目に浮かんで暗い気持ちになる。

テーブルに置いた砂時計の砂が全て落ちきり、彼がポットからティーカップに紅茶を注いだ。
「本当はアッサムが良かったんだけど、いい茶葉がなくて今日はセイロンなんだ」
彼は私に何も聞くことなく、砂糖をスプーン二杯入れてそれを私に手渡した。
柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
しかし猫舌の私には煎れたてのお茶は熱すぎる。香りをしばし楽しんで、一旦それはテーブルに置いた。
それから彼の後ろの台所の戸棚を盗み見る。アッサムの茶葉ならその戸棚の奥に入っているはずだ。
コーヒー派の私が何故その茶葉を買ったのか思い出してため息をつきたい気分になる。
なんのことない、まだ私と彼がただの知り合いだった頃、私が大学で彼と彼の友人たちの会話を盗み聞きしたからだ。
その会話で、彼がコーヒーより紅茶派で、アッサムをミルクティーにするのが一番好きだということを知った。
それを飲めばただただ遠い異国の王子様に近づけるような気がして、その日の帰り道に夕食の材料と共にレジカゴにアッサムとラベルが貼られた缶を入れたのだ。
しかし、それは結局封を切ることなく、今や戸棚の奥の奥へ押しやられ、やっときたせっかくの出番も今失ってしまった。

そんなことを考えながら、バターとジャムの隣にあるドレッシングを手に取る。
サラダにそれを一回しかけ、軽くフォークで混ぜてから口に入れる。
次の瞬間、鼻を抜けるものすごい清涼感に涙がでた。声にならない悲鳴をあげる。
「どうし…あ、言うの忘れてた。そのドレッシングわさび風味なんだ」
風味レベルではないそれに、私は悶絶する。慌てて先ほどの紅茶を飲むが、今度はその熱で舌を火傷した。
大丈夫かい?と優しい声色で尋ねる彼を涙目で仰げば、光悦とした表情で私を見ていた。
頭の中で、再びレフリーが笛を吹いた。
「あぁ、やっぱりボク、君の泣き顔が一番好きだな」
レフリーは高らかに腕を上げ、イエローカードを出している。


そういえば仲のよい友人に彼のことを相談したら、何故それでイエローカードなのだと訝しがられた。私ならレッドカードだよと。
私だって彼じゃなかったら即レッドカードだ。
彼の行いが正しくないのは何となくわかる。
わかるけれど、ではその“正しい”というのは、人を好きになるのに一体どれだけの意味を持つのだろうかと最近考えてしまう。
私にとってアッサムでもセイロンでも紅茶なんてどっちでもいいように、その正しさも彼の前では二の次なんじゃないか。
目の前には彼がいる。王子様だろうが、強姦魔だろうが、鍵泥棒だろうが、彼は彼だ。
彼がすることなら正しかろうとなかろうと私にはどっちだって良くなってしまった。

要するに私は彼のことがたまらなく好きで、本当は三日前から今日のデートをずっとずっと楽しみにしていたということだ。


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