「なまえちゃん。来ちゃった」 呼び鈴に応じて扉を開けると、そこには仁王くんが立っていた。休日の昼時のことだ。午前中に掃除や洗濯など家事を一通り済ませ、そろそろ昼食の準備をしようと思っていたところだった。 私は無言で扉を閉める。が、仁王くんはドアの隙間に足を割りこませていた。 「ひどいのう、開けてくれんのか」 「急に来られたって困るよ」 「なら次からはメールする。な、なまえちゃんは料理上手らしいのう。腹減って死にそうじゃ、すまんがご馳走してくれ」 「食後のデザートは用意したぜよ」とドアの隙間から見せてきたのは白い紙箱で、有名ケーキ店の名前が金の箔で押してある。私は少し迷ったあと、扉を開けた。仁王くんはニヤリと笑う。 仁王くんが私の家に来るのは二度目だ。 以前、同じゼミ仲間と飲み会があり、その飲み直しで、たまたま居酒屋の近くで一人暮らしをしている私の家が候補にあがった。私はお酒があまり得意ではないので飲み直しに参加する気はなかったが、結局断れず、友人たちを家に上げた。その中に、仁王くんもいたのだ。 家を覚えられてしまった。どうしよう。仁王くんはすっかり私の部屋でくつろいでいる。 「なまえちゃんの部屋は落ち着く」 「はあ」 「ん? あれ、高等部のときのクラス写真じゃろ。懐かしいの」 仁王くんが壁にかけてあるコルクボードを指差した。高校三年生に進級したとき、新しいクラスで初めて撮った集合写真だ。制服姿の仁王くんも写っている。 「ふうん。二年前の写真を飾るなんて、大方好きな男でも写っとるんじゃろ」 「!!」 「さては図星じゃな?」 「えーと、そう、ごはん! 作る!」 コルクボードをひっくりかえし、台所に逃げる。 なんだかんだ言っていても、要するに私は、仁王くんが好きなのだ。だから、同じゼミの仁王くんが来ることを期待して飲み会に参加したし、挙句飲み直しにも付き合った。仁王くんだから、玄関の鍵を開けた。クラス写真だって、初めて同じクラスになれたときの喜びを考えたらとても捨てられない。 夢みたいだ。私の家に仁王くんが遊びに来ている。都合良くごはんをたかられているだけだとしても、惚れた弱みか、心のどこかで喜んでしまう。 冷蔵庫の冷気で落ち着きを取り戻し、よし、と気持ちを切り替えた。食材は、昨日買っておいた鶏肉がある。近所のおばさんから貰ったセロリや、キャベツ、卵など一通りが少しずつ残っている。 台所に常備している小さなメモ帳に、メニューを箇条書きした。これは手際よく料理をするためにと、母から教わった。 鶏の唐揚げとキャベツの炒めもの、白米、味噌汁、色味のために卵焼きと、昨日作ったにんじんのきんぴらも一緒に出そう。漬物や酢の物のサラダもある。 母の教えその二、メニューが決まったら、使う皿をあらかじめ用意すること。 お客さんが来た時のために、小鉢から平皿まで、新しいものを一式そろえてあった。普段は使われないそれらは、食器棚の奥でひっそり出番を待っている。とはいえ、人にご馳走する機会はなかなかない。引っ越しのときに用意したこの平皿を使うのは、今回、仁王くんが初めてだ。ふつふつと料理への気合いが入る。 「見ててもええか」 「うん。なんだか少し緊張するなあ」 小ぶりの鍋に水を張り、常備している昆布を入れて弱火にかける。白米は一食ずつ冷凍しておいたものを解凍する。それから、使う食材を次々に切っていく。お豆腐、キャベツ、セロリ、ネギ、鶏肉。鶏肉には醤油と塩こしょうをもみ込み、小麦粉をまぶす。空いているコンロでフライパンに少量の油を熱し、鶏肉を並べた。醤油のいい香り。 「唐揚げか? 油、ずいぶん少ないのう」 「ひっくり返しながら炒めれば大丈夫」 ふうん、と仁王くんが手元をのぞきこんでくる。炒め終わったら今度はたまねぎを、そこまで考えてはっとした。 「あっ たまねぎ切り忘れた!」 「ん、箸、貸しんしゃい」 仁王くんは菜箸を受け取ると、私の代わりにお肉を炒めはじめた。私はたまねぎを取り出し、急いでくし形に切っていく。ちらっと仁王くんを盗み見た。すごい。今、仁王くんと一緒に料理してる。 鍋の水に小さな泡が浮かんできた。沸騰する前に昆布を取り、そこにお豆腐を入れ、煮立たせる。 「仁王くん、お肉、一旦取り出してもらっていい?」 「おう」 油を少し残し、今度はたまねぎを炒める。透き通ってきたらキャベツとセロリを加え、強めの火でじうじうとやる。仁王くんがそうしている間に、レモン汁や塩こしょうでドレッシングをつくった。 鍋が煮立ったので、火を止めて、味噌を溶き入れる。 「これはもうよそってええ?」 「ありがとう。そしたらさっきの唐揚げと一緒にしてドレッシングかけたら完成」 「うまそうな匂いじゃ」 まず一品目。 鍋に再び火を入れ、沸騰直前でネギを加えてすぐに火を止める。お味噌汁完成。これで二品目。さあ冷めないうちに次の料理。卵を溶き、お砂糖を加え、強火で一気に焼く。こうすることで、弱火でじっくり焼くよりもジューシーに仕上がるのだ。お砂糖が焦げやすいので手早く巻く。卵焼きは色味が足せるしすぐに作れるのでとても助かる料理だ。 「この昆布、どうする」 「あ、そうだった。せっかくだし、にんじんのきんぴらに入れちゃおう」 だしがらの昆布を千切りにし、フライパンに少量のごま油をひいて、出来合いのきんぴらと一緒に炒める。すでに火が通っているし味もついているので、これでいいだろう。 「あっという間じゃ。さすがなまえちゃん」 仁王くんはさりげなく使い終わったフライパンを洗っていてくれた。 「凝った料理じゃないけど…」 「あのな、男は案外、あるものでパッと作ってくれる女子のほうが好印象ぜよ」 私の分と、仁王くんの分。それぞれお皿に装ってテーブルに並べた。箸を二膳用意したところで、今更ながらとてもおかしな状況にあると気づく。料理中は考える暇もなくうやむやになっていたが、やっぱりおかしい。仁王くんと一緒にごはんを作って、一緒に食べるなんて。休日、私の家、ふたりきりで。 「いただきます」 仁王くんは唐揚げを一切れつまんで食べた。うんうんとうなずきながら箸を動かす。 「うまい」 「よかった」 その言葉を聞き、安心して、私も湯気立つごはんを口に運ぶ。緊張から空腹感を忘れていたが、ひとくち食べたら止まらなくなった。二人して無言で食べ続ける。 顔を上げたら、仁王くんが箸を止めてこちらをじっと見ていた。 「…なまえちゃんは不用心ぜよ」 「え?」 「相手が誰かろくに確認せんで扉開けるし、チェーンもかけてない。おまけに大して仲良くない男をこうして簡単に上がらせる」 心臓の音が急に早くなる。 「そんな」 「心配じゃ。でも俺はそういうところを利用しとる」 「…私は、仁王くんだから、開けたの」 自分で自分の気持ちを噛みしめるように、ゆっくりと告げた。言ってしまった。いくらなんでも、さすがに、意味は分かるだろう。仁王くんの顔が見られない。箸を持つ手がかすかに震えた。 私は期待していた。仁王くんはなぜ私の家を訪れるのだろう。今日だって、お土産のケーキを買うくらいならランチ一食できたはずだ。わざわざ、なぜ。 「期待してええよ。俺も、期待する」 うなずく。すると仁王くんは微笑んで、再び食事に戻った。私は、緊張やら恥ずかしさやらで、もう何も喉を通らない気分だった。 でも次は、もう少しだけ素直に仁王くんを迎えることができるのだ。棚の奥で眠る食器を使うのが、とても待ち遠しく思えた。 |