教室に入るといつも通り私の席には忍足君が座っていた。忍足君の目当ては私では無く、私の隣の席の跡部。やっぱり部活動の仲間は気兼ねなくて良いんだろうか。クラスが違うのにいつもこうやって集まり、楽しそうに談笑している。私は関係ない。そうは分かっていても忍足君が好きな私は、彼が私の席に座っているという事がただ嬉しくていそいそと鞄を置きに近寄る。私の存在に気付くと、彼はふっと優しく笑いかけてくれた。

「みょうじさん、おはようさん。座る?」
「忍足君、跡部もおはよう。大丈夫!いいよ、座ってて」
「おおきに」

 教えて無いのに苗字を覚えてくれていて、最初に呼ばれた日はかなり吃驚したっけ。今でも忍足君が私を呼んでくれると嬉しくてドキドキする。冷静に、自然に。と心で呟きながら鞄を掛けて、机の上に筆箱を置いて友達の席に移動しよう足を動かす。

「俺と同じクラスの、せや。その子と付き合う事になってん」

 自慢げに嬉しそうに跡部と会話する彼の声色が耳に張り付いて離れない。聞き間違いと思いたかったけど、違った。恋愛沙汰という皆が飛びつくホットな話題は、瞬く間に学校中の噂になる。忍足君も例に漏れず、二時間目が始まる前にはもうその話があちらこちらで飛び交って、私は再度その事実を耳にする事になってしまった。私の淡い小さな恋は、ぼろぼろと砕け散ってしまったのだ。それから何の授業を受けたかも、いつ家に帰ったのかもはっきり思い出せない。気付いたら家で、思わず驚く程不味いご飯を食べていた。お風呂に入って、シャワーが顔に当たるとまるで待ってましたと言わんばかりに涙が出てきて、髪も乾かさずに自分の部屋のベッドで声を殺して子供みたいに泣きじゃくった。

 カーテン越しに入ってくる光が、ぼんやりとした月明かりから、燦々とした太陽の光に変わっていた。全然寝た気がしない。まだはっきりと覚醒しない眼で天井を見つめていると昨日の出来事が蘇ってくる。嗚呼、思い出すだけでまた涙が出てしまいそう。喉の奥と眼頭がじわっと熱くなって布団に潜ろうすると、それを阻止するかのように廊下からお母さんの声が響く。

 「なまえー!いい加減起きなさい。お母さん先に行くから、戸締りお願いね。今日も昨日ぐらいになっちゃうから夜は一人で食べてて」

 パタパタとスリッパを鳴らして私の部屋の前から遠ざかり玄関へ急ぐお母さんの足音を聞きながら、私は漸く起きあがった。頭が重くて身体がだるいままテーブルに置いている鏡を覗きこめば、瞼をぼってりと腫らせて目の下を赤らめた不細工な自分が居た。こんな顔、家族に見せられる訳が無かった。重い足取りで誰も居ないリビングへと移動する。誰も居ないリビングは静かで、時計の針の音が永遠と鳴っている。テーブルの上にラップを掛けて置かれた朝食にちらりと視線を移す。トーストを一齧りするけど、食欲が湧かないせいか美味しくなかった。昨日の夜ご飯も、そのせいで全然食べれなかった。お母さんには悪いと思ったけど後は手を付けないで家を出る。寝起きより大分ましになったけど、まだ目は腫れぼったい。バスの窓硝子に映るその顔を見て、思わずため息を漏らした。
 学校に着いたのは始業時間ぎりぎりで教室に忍足君の姿は無かった。それにほっと胸を撫でおろし、友達との挨拶もそこそこに席に着いた。机に突っ伏していると、ドンッと椅子の下を蹴られる。こんな事をするのは跡部しかいない。ちらっと横目で見ると跡部は机に片肘を付いてふんぞり返りながらこっちを見ていた。

「痛いんですけど」
「しけた面すんな。不愉快だ」
「しけてないもん」
「たかが失恋くらいでいつまで引きずってるつもりだ。俺様ならまだしも忍足相手に」
「うーるーさーいー」

 そう、跡部は私の忍足君への想いを知っている唯一の人物だった。人気者な彼への想いが身の程知らずなのは自覚していたし、誰にも言わず胸に秘めていた。だけど何故か跡部は見抜いていた。人の気も知らないでずかずかと傷を抉る跡部に向かってべっと舌を出すと、先生が教室に入ってきた。先生の話をぼーっと聞きながら時間割に目を通せば、調理実習があった事を思い出す。ただでさえ食欲が無いっていうのに料理を作らなきゃいけない。けどただ授業を聞いて忍足君の事を思い出すより何かしてた方が気が紛れる様な気がした。あ、最悪。エプロン持ってくるの忘れた。調理実習室に置いてある白いふりふりのエプロンを思い出してまた気が滅入った。

「今日は、親子丼とすまし汁を作ります」

 一口二口しか食べていないとはいっても昨日の夜ごはんと一緒なんて何処までいってもついてないな。なんて、例のふりふりエプロンの裾をいじりながら考えていた。先生のテーブルの上に用意されたたくさんの材料を眺めて暫くすると、班の皆が立ちあがったので私も慌てて後に続いた。班の人の視線が一人に注がれる。跡部だ。生徒会長にテニス部部長というだけあってか、こんな所でも遺憾無くリーダーシップを発揮して、てきぱきと皆に行き渡る様仕事を割り振ってくれる。前に授業で作った紫のエプロンを身に付けた跡部が次々に班の子に声を掛け、私にも当然仕事は回ってきた。

「みょうじ、お前は玉ねぎを切れ」
「はいはい」

 班の皆が、働いている。私ももたもたしていられないと慌てて玉ねぎを取りに行った。
 玉ねぎの皮を剥いて、水で洗ってまな板に乗せる。ザクッと半分に切ってくし形にまた包丁を動かす。半分、もう半分、もう一個と数をこなす事に次第にじわじわと目が刺激され、ぽろっと一つ涙が零れた。それでもつーんとした刺激は止まらなくて、玉ねぎを触った手で目の周りを擦って更に悪化してしまった。どうも出来なくて思わず目を瞑り玉ねぎが切れずにいる私を見兼ねた班の子が声を掛けてくれた。

「みょうじさん大丈夫?変わろうか?」
「大丈夫っ。へへっ、あー、痛いー・・・・」

 痛い。目より、胸がとっても痛い。
 やばい___。そう思った時にはもう遅くて、次から次に涙が流れてきた。胸がざわついた。さっきまで玉ねぎのせいで泣いてたのに、もう頭の中は忍足君でいっぱいだった。慌てて腕で目元を隠すけど、隠しきれなくてとうとう呼吸まで嗚咽混じりになってしまった。騒がしかった実習室が一瞬静まって、またすぐに騒がしくなった。ひそひそ話す声が私の事なんだろうと思うと居た堪れなくて、逃げ出したかった。すると手に持っていた包丁が誰かに取られ、すぐに腕を引っ張られた。

「先生、みょうじさんが具合悪そうなので保健室に連れていきます」

 跡部の声だ。私はそれでとてもほっとした。引っ張られるままちょっと駆け足で付いていくと、がやがやした声が次第に遠ざかった。どれくらい歩いたんだろう。腕の隙間からちらっと見るとあまり見慣れない廊下を歩いていた。その途中のドアの前で跡部は立ち止まって、私の手を放すとスラックスのポケットから何かを取りだした。それは鍵だった。なんで跡部がどこかの教室の鍵を持ってるんだろうなんて考えながら、歪んだ視界で室名札を捉える。此処は生徒会室だ。ドアが勢いよく開いて、跡部はまた私の腕を引っ張ってズカズカと中に入った。跡部は無造作に私の手を離すと、くるっと踵を返して元来た道を戻る。私が立ちすくんでいると、ドアの手前で止まりちらっとこちらを見た。

「どうせ授業だってままならないんだろ。今日は此処に居ろ」
「い、いの?」
「んな面、学校中に晒し回るんじゃねえよ」 
「・・・ありがとう」

 ぶっきら棒な言い方だけど、跡部なりに気遣ってくれてるんだと分かった。小さくお礼を言うと跡部は出て行った。三角巾を外して椅子に座った。長テーブルに身体を預けると、ぼさぼさになった髪を戻そうなんて気にもならないくらい無気力になった。ただただ忍足君の顔が浮かんできて、胸が苦しくて切なかった。


「・・・い、おい。起きろ」

 遠のいていた意識が戻ってきた。どうやら寝てしまったらしい。ぱちっと目を開けると、テーブルの木目が見えて近くに人のいる気配を感じた。

「ほら、食え」

 テーブルが少し揺れて、良い匂いが鼻を刺激する。顔を上げるとテーブルを挟んで向かいに跡部が居て、私の隣には親子丼とすまし汁が乗ったトレーが置いてあった。

「え、何この量」

 どう見ても一人分を遥かに超えている。だってどんぶりがいつも使ってるやつと柄が違って大きいし、そこから溢れんばかりにつややかな卵と鶏肉が乗っている。きっとご飯も相当な量が入っているはず。

「全部食べろ」
「無理無理無理。太ります」
「あーん?どうせ昨日の夜も今日の朝もろくに食べてねえんだろ。食え。そして強くなれ」
「何で知ってるっ・・・・て、え?」

 強くなれ。確かに跡部はそう言った。跡部は私相撲取りにでもしたいんだろうか。”吐くまで食え。吐いても食え。”みたいな。どうやら私は露骨に不快な顔をしてしまったらしい。跡部が私に舌打ちしたのが分かった。

「みょうじ、お前は簡単にクヨクヨするな。もっと大らかに構えろ。・・・・早く食え。」
「・・・うんっ」

 跡部が、こんなに私を心配してくれていたんだ。
 そう気付いたら、萎んでいた心がぽんっと大きくなった気がした。自分を心配してくれる人が居る。それが、こんなにも嬉しくて底知れぬ大きな安心感を与えてくれるんだと知った。それなのに私ときたらずっと自分の事しか考えていなかった。他の人を考える余裕なんてこれっぽっちもなかった。そんな嬉しさと恥ずかしさが混ざって変に心がふわふわした。跡部の視線をひしひし感じながらスプーンを手に取って、柔らかい卵を口に運ぶ。とろとろの卵の味と上品な甘さが口いっぱいに広がった。

「美味しい・・・」
「俺様が作ったんだ、当然だろ」
「へへっ」

 同じはずなのに、昨日の夜ごはんとは違う料理みたいだった。甘さがゆったりと私を包み込んで殺伐とした気持ちを解してくれた。私のお腹と心はまるで陽だまりのような、穏やかな優しい幸せでいっぱいになった。


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