きりりと引き締まった練習の声が響く道場で、俺は古武術の型をとっていた。テニスに応用するんだ、基礎ができていないとな。それに、俺はやっと目指しているものに近付けたんだ。
緩む口元を抑えようと精神を研ぎ澄ませていれば、ぱたぱたと歩いてくる音がした。

…みょうじだ。去年から入った門下生で、父さんの知り合いの娘らしい。

「日吉さん日吉さん!晩ご飯まだですよね!?」
「…ああ」
「今夜はお鍋にしましょう!」

………は?
その声が響いた瞬間、道場のあちこちからすぐに笑い声が聞こえてきた。またなまえがおかしいこと言ってるぞ、と。
それもそうだろうと、俺はため息をついてからみょうじの目を見て小さい奴に話しかけるように単語で切って、ゆっくり話しかけた。

「今 夏 暑い お前 アホか?」
「そんなちっちゃい子に言い含めるみたいに言わないでいいですよ!お鍋ったらお鍋なんです!」

早く来てくださいね!準備できてるので!といやに燃えた目でまた走っていったみょうじに頭を痛くする。…なんでこんな暑い日に…。

はあ、とため息をまたついたが、足はゆっくりと家に向かっていた。なんやかんや、俺はあいつに甘い。

「ああ若、お帰り。なまえちゃんがお前の部屋で待っているから早く行きな」
「兄さん達は鍋食わないんですか」
「勘弁してくれ、こんな暑い日に」
「…ですよね」
「まあお前はちゃんと食えよ。せっかくなまえちゃんが作ってくれるんだから。女の子の手料理なんて滅多にいただけないぞ?」

からから笑った兄さんは、その後急ににやっとした顔になって「なまえちゃんと二人きりとか嬉しい展開じゃないか」と小声で囁いてきたので、無論背中を叩いた。全力で余計なお世話だ。

チッ、と舌打ちを打ってから部屋に向かうと、かちゃかちゃと慌ただしい音がしている。勝手に人の部屋入るなよ、片付いてなかったらアレだろう。

ドアを開けると、みょうじがカセットコンロまで持ち込んで鍋をつくり、アク取りをしていた。準備万端か。

「あっ日吉さんお帰りなさい」
「…本気で鍋かよ。何考えてんだみょうじ」
「待ってくださいね、あとちょっとで煮えるので!」
「話を聞け」

部屋はクーラーの強い冷風と鍋の湯気が混ざりあって、絶妙な蒸し暑さになっている。二人用を考慮してか小さめの鍋の蓋を開けてみると、切り目を入れた椎茸や丸っこいつみれ、つやつやした豆腐やくったりした白菜がくつくつと煮えていて。

…暑い。

「うーん、そろそろいいですかね、食べましょ!」
「…冷たいもので良かったんだが」
「な、鍋なんです!」

どうしてそこまで鍋にこだわるのか分からない。なんだこいつは。俺の体から水分を全て搾り取りたいのか。悪魔か。
俺の部屋の小さなテーブルで向かい合う。火は消されたが蓋を完全に開けたときの湯気がとてつもなかったんでクーラーの温度を更に下げた。
…匂いもいいし、出来は悪くない。

「日吉さん、ということで!」
「どういうことでだ」
「全国出場と正レギュラー、おめでとうございます!!」
「…なんで知ってんだよ」
「へへ、お兄さんから聞いて。お祝いに頑張ってお鍋作ったんですよ!日吉さんお鍋大好きなんでしょう!?」
「そこまでじゃないが」
「えへへ、隠さなくてい」
「いや、本当にだ」

さっきまで手を叩いてへらへら笑っていたのが、瞬間間抜けな顔になった。…どこから誤解が生まれたんだよ。
正レギュラーになれたことを知っていてくれたのは嬉しいが、なんで鍋になったんだよ。
鍋は嫌いじゃないが大好きって程でもないぞ、と伝えると、今度は顔が真っ青に変わった。表情豊かってレベルじゃないな。

なんでそんな誤解になったんだ、と聞くと、

「え…だって、去年の冬に日吉さんのご家族と初めて食べたご飯がお鍋で、その時確か日吉さんが少し笑ってた気がしたんです。それ以外の記憶に日吉さんが笑ってご飯食べてるとこ見たことなかったので、そんなに好きなのかなって、わ、恥ずかしい、埋まりたい、ごめんなさい!!」

とかなんとか叫んで、膝を抱えて丸まってしまった。…なんでそんな前のこと覚えてるんだよ、と聞きそうになるが、それとなく気恥ずかしいのでやめることにする。

「…散々なんで鍋か聞いただろ、あと季節を考えろ」
「お兄さんが照れ隠しだから大丈夫って…」

もはや泣き出しそうなみょうじから見えないよう、まず兄さんを後で投げると決める。
そして思い出すのは去年の冬。こいつが言う、初めて飯を食いにきたとき。

あれは確か、みょうじが来て少し経ったころで、なんとなく話すきっかけが欲しかったときだったか。道場には女子が少なくて自然に目が行っていたからだ。失敗ばかりだったが、少しうまくなる度にするへらりとした笑いが俺は

…そこまで考えが至った瞬間恥ずかしくなって、同時にやけになった。どかりと座り込んで、鍋を盛る。

「日吉さん無理しないでください…」
「いい。みょうじも食え」
「でも…あああ申し訳ない、折角のお祝いなのに…!」
「だからいいって言ってるだろ」
「大体日吉さんも日吉さんでなんでお鍋のとき笑ってたんですかー!」

みょうじは半泣きで、八つ当たりのように鍋を食べている俺を叩いてくる。そんな顔までが可愛らしく感じて、ああクソ、俺のキャラじゃねえだろ!
びしりと箸を鼻先に突きつけてやるとびくりと驚いたみょうじに、今度こそ本気で俺はやけになった。

「っ、いいか!俺がその時笑ってたのは多分な、お前が初めて家に来たからだ!お前と話せたことが嬉しかったから笑ってたんだ!!」
「え」
「分かったら食え黙って食え何も言うな!!」
「は、はい!!」

言葉で威圧して無理矢理座らせる。みょうじは顔を真っ赤にしながらちまちまと盛っていた。
クーラーはガンガン効いているし、鍋もクーラーで冷め始めているのに、何故か全く暑いままだ。味さえ分かりゃしない。

リモコンを取って気温を下げようとしたが、クーラーの温度はこれ以上下がらないらしい。

「…日吉さん」
「なんだ」
「なんか私の方がお鍋好きになりそうです」
「そうかよ」
「でもお鍋より日吉さんの方が大好きです」
「…………」

無言でみょうじの頭を叩いた。
俺からは全国のあとに言ってやるから、その時は冷たいもの作れよと言うと、またあの顔でへらりとみょうじは笑って。

…まあ、夏に食べる鍋も悪くないか。
そう思ってしまうくらいには、俺の頭は暑さにやられているようだった。


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