ぐつぐつと煮える音、甘ったるい匂い。鍋の中では砂糖をまぶされた苺がどろりと蕩けている。真赤な鍋の中身は血と同じ色。アクを取り除き、苺の跡形が無くなったところで、少量のレモン汁を垂らして更に煮詰める。
ごぽり、と音がした。その音を引き金に鍋の中ではひとつ、ふたつと気泡がぼこぼこ弾ける。蕩けた苺は規則正しいリズムで動く。まるで心臓のようだ。鍋の底が焦げ付かないように木ベラでゆっくり掻き混ぜていく。

「比呂くん、何してるの」

鈴を転がすような愛らしい声に振り返ると、パジャマ姿のなまえがリビングの扉から顔を出した。おはようございます、と朝の挨拶をして微笑んでみせると、寝ぼけ目を擦りながらなまえもおはよう、と返事をする。時計を見れば8時を少し過ぎたところ。朝に弱い彼女にしては早起きだ。

「苺ジャムを作っていました」
「苺ジャム?」
「ええ。手作りジャムで食べるトーストは美味しいですからね」

私の隣までやって来たなまえは鍋を覗きこんで「美味しそう」と口元を緩めた。先程まで眠たそうにしていた瞳は大きく開いてきらきらと輝いている。くるんと跳ねた頭のてっぺんの寝癖を優しく撫でて、直してあげると、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。

「ほら、なまえ。着替えておいで。今日は食パンも美味しい物を頂きましたから、きっとほっぺたが落ちてしまいますよ」
「ほんと!すっごく楽しみ」

昨日、なまえを迎えに行く前に実家に寄り、母親からふかふかの厚切り食パンを分けてもらったのだ。折角だから、とバターも高価なもの選び、ジャムの苺も大粒のものを買った。冷凍庫の中にあるバニラアイスを添えれば喫茶店のトーストさながらのものが出来上がるはずだ。
スリッパの音をぱたぱた鳴らしながらなまえは寝室に戻る。その間にコンロの火を止めて、トースターに食パンを2枚入れて4分にセットした。出来たてのジャムをスプーンで掬って味見する。舌の上で蕩ける甘味と仄かな酸味、苺のつぶつぶした食感。我ながら上出来だ。戸棚からこの日の為に買って保管していた小瓶を取り出して少量のジャムを詰め、残りは市販のジャムの空き瓶に詰めた。小瓶を冷蔵庫の奥に仕舞い、代わりにバターを取り出したところで、なまえが私の腰にぎゅう、としがみついた。柔らかい感触にどきりとする。その感触は心地良いものだが、唐突に与えられるのは非常に心臓に悪い。

「比呂くん、見て見て。今日は緑のスカートなの」

どうやら冷蔵庫の中は見られていないようで安堵する。彼女は昔からスキンシップが激しいのだ。それは嬉しくもあるが、疚しいことをしているときには恐ろしくもある。
なまえは私から離れてスカートの裾持ち上げた。白シャツと合わせたモスグリーンのロングスカートは品があり、おとぎ話に出てくる女の子のようだ。
先週買ったばかりの下ろしたてらしく、「比呂くんの好きな色だから」買ったそうだ。なんてことだろう。思わず目頭が熱くなり、眼鏡を中指で押し上げて堪えていると、なまえが「大袈裟だよ」と眉を曲げ、困った顔で笑う。ああ、愛おしい。食べてしまいたいくらい、愛おしい。
私は空腹であることを思い出した。朝食の準備の最中だったのだ。慌ててトースターを覗くと、食パンがこんがりと綺麗な焼き色をつけていた。もう少しで折角の食パンが黒焦げになってしまうところだった。ほっとため息を吐き、トースターを止める。

「朝食にしましょうか」

なまえが戸棚から取り出した皿を受け取り、彼女をソファに座っているよう促した。出来たてのトーストを乗せ、仕上げに取り掛かる。コーヒーショップで購入した輸入品の高級バターは、予め使う分だけをバターナイフで切って用意していた。厚切りのトーストの中まで染みこませるため、たっぷりとバターを塗る。次第にバターの芳醇な香りが漂い鼻腔を蕩かした。これだけでも十分贅沢なトーストだ。しかし今日はこれだけではない。その上にバニラアイスを乗せて、仕上げに苺ジャムをかけるのだ。甘いもの好きのなまえにはたまらない組み合わせだろう。幸せそうに食べるなまえを想像して自然と口元が弧を描いた。

「お待たせしました。さあ、食べましょう」
「わ、すごい!美味しそう!」

テーブルに置かれたトーストは苺ジャムが宝石のように輝いて見栄えも完璧だ。案の定、なまえも嬉しそうにしている。
向かい合わせに座り、いただきます、と声を揃えて挨拶をする。さくり、とナイフでトーストを切ると溶けかけたバニラアイスがジャムと一緒にどろりと皿に流れた。一口サイズに切ったトーストをフォークで刺し、皿に垂れたアイスとジャムのソースを絡めて口に運ぶ。厚みのあるトーストは表面のサクサクとした食感に対し中はふんわりとしていて、噛んだ瞬間バターがじゅわりと溢れてくる。アイスの冷たさとジャムの甘酸っぱさとも抜群に相性がいい。

「あー、美味しい、すごくしあわせ」
「それは良かった。今日の出来は私も自画自賛していいレベルだと思っています」
「比呂くんの料理はいつも美味しいよ?わたし、毎週この時間が楽しみだもん」
「有り難うございます。私も毎週、なまえの幸せそうな顔を見るのが楽しみなんです」

左手を頬に添えて幸せそうに笑うなまえにつられて私も頬が緩む。大学に進学すると同時に一人暮らしを始めた私の元へ、週末になるとなまえが泊まりに来るのだ。金曜の夜に彼女の家へ迎えに行き、我が家で一泊し、次の日の夕方に帰らせる。当たり前になりつつある週末のスケジュールだ。彼女に美味しい手料理を食べさせるため、週末はつい、手の込んだものを作ることが多くなってしまった。おかげさまで私の料理のレパートリーはここ数ヶ月でかなりの数に増えている。 彼女が美味しそうに手料理を食べてくれるのがとても幸せだ。
そして、私が彼女に手料理を振る舞うのは彼女のためだけではなく、自分のためでもある。私は空腹なのだ。何年も前からずっと胃袋は満たされていない。

「こんなに美味しいものばっかり食べてたら太っちゃうかなあ」

そう言いながら美味しそうにトーストを頬張るなまえを眺め、来週は何を食べさせようかと考える。ぶくぶくに肥えるのは美しくないが、その細い脚にもう少しだけ肉がつくのが好ましい。その方が美味しいに違いないからだ。


なまえを食べたい。
幼馴染の彼女に対してそんな欲求が生まれてから、何を食べても満たされない空腹が私を悩ませていた。
私はなまえが好きだ。濁りなき愛で私を満たしてくれる彼女を私も同じように愛し、大切にしたいと思っている。しかし、彼女の愛は私の胃袋までは満たしてくれないのだ。
頭の中ではもう何十回となまえを料理して食べた。ある時はとろとろに煮込んだミネストローネ、ある時はごろりとした林檎と一緒に包まれたアップルパイ。しかし、想像だけでは私の欲求は満たされることはなかった。私はそろそろ辛抱たまらない。
人は食べることで満たされる。愛されることで満たされる。食べることは愛なのだ。私はなまえを愛していて、愛しているからこそ、なまえを食べたい。

「…ああ、なまえを早く食べたい」
「わたし?」
「ええ。あなたを食べてしまいたいくらい愛しているのです」

わたしなんて食べても美味しくないよ、と困った顔をするなまえに「そうですね、食べてしまいたいは大袈裟かもしれません」と嘘を吐いて微笑む。私の優しい声に安心した彼女はしばらく考えた後、「ところで」と口を開いた。

「比呂くん、戸棚の中にある白い箱ってなあに?」

皿を取り出す時に見つけてしまったのだろう。戸棚の奥に大切に仕舞われた白い箱には私が悩みに悩んで購入したあるものが入っている。あまりにもなまえが可愛らしくて私はくすりと笑う。彼女は箱の中も、私の心の中も何も知らないのだ。

「あれはとっておきなんです」
「とっておき?」
「はい。使うときが来るまで大切に保管しているのです。ですから、まだ箱を開けては駄目ですよ」

なまえは理解していないようで、不思議そうな顔をしながら頷いた。素直で従順な彼女に愛しさが込み上げてくる。
白い箱の中には新品のバターナイフが入っている。持ち手に鈴蘭のアートが施された、銀製の高価なバターナイフだ。それを使い、彼女のつま先からバターを塗り、ジャムをかけて齧りつくのだ。バターもジャムも冷蔵庫の中に保管してある。高級バターに手作りジャム。彼女を食べるのに申し分ない調味料である。後はなまえが食べ頃になるだけだ。
私の空腹が満たされる時は近い。堪らず口元を歪めると、何も知らない愛しいなまえは嬉しそうに笑った。


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -