岬とラプソディア
(郵便屋さん)

 そこは忘れ去られた場所。あるのは青い海と岬に建つ白い家、そして橙色の髪の青年だけだった。彼は軒先のロッキングチェアで本を片手に潮風に橙を揺らしている。波の音と孤独が寄せては返した。忘れられてしまうのも仕方ない、その岬まで到達するには、きつい坂を登り暗澹とした迷い森を通って古びた橋を渡らなければなかなかった。そうして果てに存在するのが小さな一軒家では誰も努めて記憶していようなどと思わないだろう。ただひとりだけの来訪者を除いては。


「こんにちは」

 ページに差し込んだ影に気付いたのか綱吉は顔を上げた。大きな鞄を下げた男が柔らかい笑みと共に佇んでいる。彼の深い蒼色の毛先を風が浚った。

「こんにちは、郵便屋さん」
「お手紙です」
「ありがとう、郵便屋さんが来てくれるのが一日の唯一の楽しみなんだ」

 ぱたり、本を閉じて、綱吉の細い指が差し出された手紙を受け取る。宛先の確認すらせずに封を切る手つきは慣れたものだ。大きな瞳を左右に這わせるとまたそっと便箋を封筒に戻し、そうして至極大事そうに、本の間へと挟む。

「差し出がましいようですが、」
「なぁに?」
「毎日手紙が届きますけれど、返事は書かれないのですか?」

 その問いかけに綱吉は酷く困った様子で笑い、手元の本の表紙を優しく一撫でした。それはまるで、恋人にとてもじゃないが無理なお願いをされた時に男がよくする笑いである。

「いいんだよ、返事は。それより、骸、この本面白いね。犯人は使用人だと思うんだけどどう?」
「…さあ?明かしてしまっては楽しみも半減でしょう」
「ちぇ、気になる。きっと明日には読み終わるから、また本貸して欲しいな」
「ええ、勿論。明日お持ちしますね」
「ありがとう、じゃあまた明日」
「はい、良い一日を」

 軽く頭を下げた骸は、薄暗く口を開ける森の中へと踵を返した。仕事道具の自転車は、森の入り口へ置いて来なければならない。そこまでは必然として徒歩であるが、彼にとってはちょうどいい散歩だった。町の者は皆この森は正しく歩けないと言う。確かに延々と同じ風景が続くばかりで、惑わされるのも頷けるが、骸は一切の迷いも見せず足を進めていた。間もなくして川のせせらぎが聞こえてくる。朽ちかけた橋を渡り、また暫く木々を縫えばやっと、主の帰りを静かに待つ自転車と落ち合えた。そうたったひとり、綱吉の自宅へ迷わず辿り着ける人間が、郵便配達員のこの男だ。どうしてこの道を知り得たのかは実のところわからない。町の郵便局ではこれまで、岬の一軒屋へ郵便配達を任されるのが新人配達員のひとつの通過儀礼となっていて、何人もの成り立て職員が任務を遂げれず肩を落とし帰ってきた。森で道を失い辿り着けないからだ。例に漏れず、骸が新人としてやってきた折も局長は冗談半分でこの命を下したところ、戻ってきた彼の鞄には岬の住人宛の手紙は入っていなかった。それから、骸は毎日あの岬へ通っている。けれど、郵便屋が知っているのは綱吉の家へ辿り着く道のり、ただそれだけ。僻地で生きる理由も、彼の一日も、毎日届く手紙の差出人も、骸は知らない。
 自転車へ跨がれば、タイヤの下敷きになった小枝がぱきりと音を立てた。










「なんでこんな辺鄙なところで生活してるのかって?」

 夏の予感を纏った太陽が水面を眩しく照らす頃、骸と綱吉は海に面したテラスで並んでベンチに腰掛けていた。手には綱吉の淹れたアイスティー。グラスに浮かんだ水滴が重力に従い、指先を伝う。

「んー、そうだなぁ。なんでにしよう」

 二人は時としてこういった具合に午後のお茶を共にした。大概は綱吉の気まぐれで誘ったり誘わなかったり、骸にはその基準を測りかねるが、声が掛かればいつだって二言返事で席に着く。少し甘めに作る青年のアイスティーが好きだった。

「僕は真剣に聞いているんです、茶化さないでください」

 波打際は覗けないけれど、真っ青な水平線を望むには特等席だ。スカイブルーとコバルトブルーの境界を入道雲がなぞっている。乾いた笑いが、波間を縫って聞こえてきた。

「待ってるんだ、ここで」

 なにをですか、そう口を開きかけたが、伏せた青年の瞼に言葉は音にならず吸い込んだ酸素を伴って肺へと送り込まれてしまった。









 その日は、平生と何一つ変わりのない日だった。今日も一通の手紙を携え岬へ行き、軒先で椅子を揺らす綱吉に微笑みかける。そうして、暑いですね、面白い本を見つけました、そんな言葉でも交わし、帰路につく筈であった。郵便屋の愛しい日常を壊したのは、紙の擦れる音。

 綱吉の掌から便箋が落ちた。

「どうしたんですか?」

 青年は応える代わりに封筒で目元を覆い、空を仰ぐ。晒されている口許が形作るは緩やかな微笑みであるが、真実笑っているのか、泣いているのか怒っているのか、判断のしようがなかった。いち、に、さん、ゆっくりと椅子を揺らした綱吉が熱のこもった吐息を漏らす。

「結婚、するんだって」

 ざわりと背中の木々が鳴く。綱吉の落とした便箋は、海風に攫われ空へと消えていってしまった。



「骸、お前に会うのは今日が最後かな」
「……なぜですか?」
「明日から手紙は来なくなる」
「そう綴られているのでしょうか?」
「ううん、」


 でもわかるんだ、俺には、そう続けた彼の言葉の通り、次の日から手紙は届かなくなった。仕事が減って良かったじゃないか、同僚は笑って肩を叩く。それでも骸は、また坂を登り、確かな足取りで森を抜け、橋を渡り、あの場所へやって来た。手には、白い封筒。

 綱吉は昨日までと変わらず、軒先にいた。何かを待ち焦がれるように。


「……なんで」
「手紙が来なくなったので、」

 いつもの笑みで、手慣れた動作で、骸は差し出す。







「僕が手紙を書いてきました」






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