その手をとって
パラレル。潔癖症の話。

(汚らわしい)

 水音が響き渡る。とめどなく。洗面台で執拗にこすり合わせている掌は、目立って汚れているわけではない。それでも男は、険しい顔をして綺麗な手に石鹸を広げては洗い流すを繰り返していた。

「やっぱり、ここにいた。デスクにいないから探しちゃったよ」

 かちゃりと扉の開いた音に、慌てて男は頭を上げるが、鏡に映る見慣れた姿に安堵を示し、肩の力を抜く。異様とも取れるこの状況を、侵入してきた彼はさして気にする様子もなく、つかりつかり、革靴を響かせ隣へやってきた。そうして、男――六道骸も漸く水を止める。

「ちょっと遠いけど、社内じゃこのトイレが一番綺麗だもんな」

 "気にする様子"、寧ろ骸の行動に同意を示す彼は沢田綱吉。骸の同期で、そして一番の理解者であった。
 六道骸は重度の潔癖症だ。潔癖症、と一口に言えど、その琴線は様々だが、いずれも一種の強迫観念である。他人が口を付けたものは勿論、出来れば触れたものでも共有したくない、以前に他人に触れることができない。外食も生理的に受け付けない、そうなると自炊に限られるが、素材一つ一つを丹念に洗い、生ものは絶対に口にしない、不潔さを連想させる漢字を書くことにすら嫌悪感を覚えた。平たく言えば、自身が許容できる"汚い"を超えてしまうものに異常なまでの拒絶を抱くのだ。生活に困らないのか、とよく聞かれる。そんなもの当たり前に疲れることばかりだ。けれど慣れてしまった。二時間おきに手を洗うことも、他人を避けて歩くことも、外では手袋をすることも、毎日のことで、それが骸にとっての"普通"だ。しかし、"普通"に生活していても、どうしても回避できない場面はある。そんな折は、不快感をぐっと胃に押し込めやり過ごす。表情に出てしまわないよう、造りものの笑顔を張り付けて。そして、こうずっとずっと手を洗い続けるのだ。

「あー、ほら荒れちゃってる。まったく、お前のおかげでハンドクリーム持ち歩くようになったよ」

 そう言って綱吉は、乳白色のクリームを掌で伸ばすと、その手で骸の荒れた指先を包み込んだ。明記するまでもなく、このような触れ合いは明らかに許容範囲を超えている。他人の使いかけのクリーム、を、洗っていない手で、擦り付けられのだ。骸は眉間に皺を刻み、そして、――頬を紅潮させた。

「綺麗な手なんだから大事にしなきゃ」
「そんなことないです」
「またまたー、俺手ェ小さいから憧れるもん」

 綱吉はぴたりと掌を合わせてきた。確かに一関節分くらいの差はあろうか。ああ、漫画の中で見た光景だ、と思うと同時に、その小さなそれを握り締めたい欲求が湧き上がる。そうすれば、延々と石鹸で洗い続けるよりもずっと、穢れが消えていくような気がした。

 そう、"汚い"ばかりの骸の世界で、綱吉だけは特別だった。

「そういや今度さ、うちの課の少人数で飲み会?ってか軽い食事会するんだけど、六道のこと誘えってうるさくてさ」
「…僕、ですか?」
「うん。あ、女子じゃないよ、男子。ほら、お前プログラミングの結構難しい資格持ってたじゃん。あれを同僚が勉強してるらしくて、ちょっと話聞きたいんだって」
「話を…」
「潔癖症のことは皆そんなに知らないから、あまり人と食事しない奴だって断ったんだけど」
「……」
「あ、や、やっぱ無理だよな!すまん」
「行きます」
「そうだよね、ごめん、忘れてく――へ?…来てくれる、の?」
「はい」

 綱吉は驚いたようにぱちくりとゆっくり瞬きをする。骸自身もまるで同じ気持ちであった。まさか承諾の意を示そうとは。考えるよりも先に、言葉が口をついて出てしまったのだ。断るならばまだ間に合う、やはり、と形作った唇は、嬉しそうな笑顔の前に静かに閉じていった。



 そこはなんの変わり栄えもない、普通の居酒屋だった。無駄に張り上げる店員の挨拶、響き渡る笑い声、店内の騒がしさ、骸にとっては全てが初めて目にするもので、入店してから何度肩を揺らしただろう。蔓延する煙草の煙に息苦しくなった。先導する綱吉が骸を気にかけるように何度も振り返る。

「大丈夫?辛くなったらすぐ言えよ。一緒に抜けるから」

どうしてか申し訳なさそうな彼に、骸は緩く首を振り、暫しの沈黙の後、思い切ったように綱吉の手を掴んだ。

「平気です。ただ、慣れるまで、…こうしていていいですか」

 そうすれば、汚れた空気も匂いも音も、少し浄化される気がした。

「勿論!」

 優しい笑みを見せた綱吉は確かめるように強く握り返してくれる。触れ合った皮膚から熱が伝わり、黒々とした感情すらも溶解していくような気がした。

 おー手を繋いで登場とはお前ら仲がいいなー、赤ら顔の男が陽気に声を上げた。どう対応すべきかわからず固まる骸を綱吉は庇うかの如く、そうそう俺たち仲良しなの、なんて冗談めかして返し、空いていた席へ誘導する。握られていた掌が離れて行ってしまったことを少しだけ寂しく感じた。
 テーブル席に四人、気を使ってか綱吉は奥側へ腰を下ろす。どうやら先に始めていたようで、飲みかけのビール、箸の付けられた皿、そんなものが無造作に卓上へ広がっていた。呼吸が浅くなる。"汚くない"そう思い込んでも生理的な部分を如何に制御すればいいのだろうか。

「六道、何飲む?ビール飲めるの?」

 様子を伺うようにこちらを覗き込んだ綱吉は、互いの顔を覆うようにメニューを広げ、大丈夫か?と囁いた。そこで骸はハッとし、慌ててうなずいて見せる。気分が悪いだけではない、寧ろ吐息を感じる程の距離に感情のメーターが反対側へと振り切ってしまったのだ。鼓動が乱れる。微かに柔らかな匂いが鼻孔を擽った。

「あ、えっと、僕は烏龍茶でいいです」
「ん、了解」

 威勢よくやってきた店員に注文を告げてから、綱吉が簡単に同僚の二人を紹介した。どうやら綱吉と同期らしく、入社から苦楽を共にしてきた彼らの関係は仲睦まじいという言葉が相応だろう。そんな三人へ向けて骸は対外的な笑顔で取り繕っていた。本音を言えば、己への評価などはどうでもいいのだ。この病のことが社内に広まり、腫物扱いを受けようが、孤立しようがさして日常が変わるとは思えない。しかし、ここで場を壊すことによって、綱吉へ火の粉が降りかかることも考えられた。それだけはどうしても避けたかったのである。綺麗な彼が傷つく世界などあってはならないから。

 けれど、それもどうやら限界だ。

 お待たせしましたぁー、だらしなく間延びする声とともに置かれたグラスへ、骸は手を伸ばせなかった。しっかりと洗浄してあるのだろうか、前に使った人物はどんな人だったのか、中身のお茶は、そもそも店員自身が清潔とは限らない。胃の底から押し上げてきた嫌悪感に口許を抑えた。グラスを掲げ、乾杯を待つ男たちに困惑の色が浮かぶ。実際には数秒間の話であろうが、骸にとっては途方もない永久に感じた。

「すいま、せ…っ」

 状況を察した綱吉が声を掛けるよりも早く、骸は席を立ち駆け出していた。


 気持ち悪い。
 酸素を求める肺が、大きく息を吸い込む。抗えなかった。繁華街の空気も綺麗だとは言い難いが、それは生存本能であるし、先刻の篭った空気に比べれば幾分マシと考えよう。頬を掠める冷え切った空気がまるで刃のようだ。鞄もコートも何もかも置いてきてしまっている。流石にこれには途方に暮れた。どんな顔をして戻ればいいのか。いっそのこと全て諦めてしまおうか。財布は痛いけれど、知人の少ない骸は携帯電話も特別必要としていない。ただ、この件で綱吉の連絡先を教えて貰っていたことだけが心残りと言えばそうなる。いや、もう連絡が来ることも、話しかけられることすら、ないかもしれない。それに値する行動をしてしまった自負はあった。お前のせいで、と叱責されてもおかしくない。そうして己を嘲笑った吐息が、白く濁って形作った刹那、

「六道っ…!」

 酷く息の荒い綱吉が、隣にいた。

「はぁー、見つかっ、てよかったー…!そんな格好じゃ風邪引くぞ!馬鹿!」

 ふわりと肩に掛けられた上着は確かに骸のそれである。困惑しつつも目線を落とせば、見慣れた鞄を手にしている。

「ごめんな、やっぱりきつかったよな。皆にはなんとか上手く誤魔化してきたから、帰ろう、な?」

 蔑むどころか怒るどころか、微塵も責める様子のない綱吉に骸は喉のあたりがつん、と痛くなった。

「ごめんなさい、謝るのは僕の方なのに…」
「え?なんで?」
「初めからきっと無理だろうってわかってたんです、誰かと外食するなど」

 わかりきっていたことだった。これまで拒絶してきたものが、今日になっていきなり受け入れられるなんて、そんなご都合主義の魔法はこの世に存在しない。湧き上がる感情が零れ落ちてしまわないよう、骸は目を伏せる。

「だから、断るべきだった。用事があるとでも何とでも理由をつけて。それでも僕は、君と食事をしてみたかったのです。どんなものが好きで、どんな顔をするのか。君と同じ世界で一瞬でも呼吸をしてみたかった…」

 押し込めていた感情が堰を切るかの如く、言葉は溢れる。顔を上げるのが怖かった。こんなどうしようもない吐露を、綱吉はどう受け取るのだろうか。手が震える。寒さからではない筈だ。

「世界は汚いのに、君だけは、君だけはそんな世界の中で綺麗なんです。綺麗な世界の側にいたいと、我儘な感情を勝手に抱きました。ごめんなさい」

 ふと指先にじんわりと温もりが伝わる。それが手を握られたからだと気付いたのは、数拍、間を置いてからであった。

「そうなんだ」

 骸は思わず顔を上げた。綱吉の声色があまりにも優しかったから。


「じゃあ、お前の世界を俺が綺麗にするから。俺も六道と同じ世界で生きていたい」


 なんてまっすぐな言葉だ。頬に熱が集中するのを感じた。両の手を握られていては、隠すこともできない。きっと、彼の言葉の裏にあるのは純粋な感情であろう。骸が必死に隠し続けている恋情とは同等ではない。そうと理解はしても、胸を刺す甘い痛みにもう少し溺れていたかった。骸は遠慮がちに柔らかな手を握り返す。

「君の世界を僕にください」

 振り絞るような声で告げられた覚悟に綱吉は満面の笑みでこう答えるのだ。勿論!、と。

 世界を壊せ。その手をとって。











「六道、明日休みだろ?」
「えぇ」
「なら俺ンちで飲もー!お前はお茶でいいけど、俺が飲み足らん!」
「ふぇっ!?」
「こっから近いから!」
「あ、いや」
「家、上がるのは無理そう?」
「君の家なら大丈夫かと…」
「なら決定ー!」
「や、そうでなくて…!」









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