息をするように

「先生ぇ、たんじょーびっおめでとー」

 並々と注がれたワイングラスを不安定に揺らしながら、呂律の回らない舌でにへらと彼は笑う。誰に注がれたかわからないグラスを苛立たしげに奪い取れば、そのまま全て胃に流し込んでしまった。果実の芳香さが鼻を抜ける。物惜しそうな声が聞こえてくるも、さして反応は返さなかった。

「飲み過ぎだ、バカツナ」
「いーじゃーん、リボーンのたんじょーびだしぃ、それにあと少しでおれもたんじょーびだしぃ」

 そう、今日はドン・ボンゴレ専属家庭教師の誕生日であった。神聖とも言えよう彼の役職は、いくら断ろうと毎年盛大なパーティが催される。ボスの命により欠席は許されなかった。それこそ翌日には我らがボスの生誕祭が控えているわけで、せめて合同にしてくれと何度も具申したが、結果は言うまでもない。あと針が一周もすれば、ソファで寝息を立て始めた酔っ払いの誕生日となる。まだ広間では宴会が続いているであろうが、あまりの泥酔っぷりを見かねた教師は、彼を強制的に居室へと引き上げてきたのだ。平生であれば我を失うなと、口煩く言いつけるところだが、今日くらいは目を瞑ろう。そうして明日からは、彼へ小言を投げつけることもなくなるのだから。規則正しく呼吸を繰り返す柔らかな褐色を一撫でするリボーンは、何とも筆舌に尽くし難い表情をしていた。笑っているのか、傷ついているのか、切なさを抱えているのかはたまた喜んでいるのか、とても難しい顔である。綱吉が目を覚ましたら、寝ぼけ眼でもきっと笑う筈だ。笑ってくれたらいい。そして自分も共に笑えればいい。ただそれだけでどんなに幸せだろうか。唇から漏れた吐息は、切望の冷たさを帯びていた。眠りながら笑う彼に、自身のジャケットを掛けてやる。ぎゅっと握っる華奢な指先が堪らなく愛しかった。玄関に置かれた先代寵愛の古時計が時を知らせる。刻んだ音は十二回。


「誕生日おめでとう、ツナ」

 そして、彼は出て行った。

 屋敷から。



 半楕円の月が宵闇へ浮かぶ。森林に囲まれた屋敷を照らす外灯は数少なく、月が異様に明るく見えた。厳かに構える正門までの距離はゆっくり歩を進めると数分を要する。広大な敷地はそれだけの権力を示していた。自分が手塩を掛けた生徒はこれを背負って立っているのだと、何とも不思議な気分だった。優越でもなく、達成感でもなく、そこに在るのは名の付けられない感情だ。勿論、誇らしく感じてはいる。だけれど、平々凡々平和に生きていた彼のその手を取って、こんな世界に引き摺り込んでしまったことに、総じて満足だなんて口が裂けても言いたくなかった。そう考えて首を振る。自分はプロで、結果と引き換えに報酬を貰ったまでのこと。始まりも帰結も記号でしかない筈だ。あくまでも、仕事。そしてその仕事も、現時刻をもって終りを迎えた。リボーンはボンゴレに属していない。十五回目の綱吉の誕生日まで、初めからそういう契約である。契りの内容は、先代とその側近のごくごく一部のみが把握していた。綱吉本人には知らされていない。そんな契約があったことも、今年が十五回目となることも。

「…寒いな。あいつにジャケット掛けてくんじゃなかった」

 イタリアの気候は日本のそれと大差ない。十月も半ばを過ぎよう頃にYシャツ一枚では心許なかった。けれど、勿論そんな悪態は口上だけで、例え今が真冬の厳寒の中であっても彼は生徒の為に躊躇わず上着を脱いだだろう。かつり、かつり、石畳が静かに鳴く。先刻までの喧騒が嘘のようだ。門まではあと半分といったところか。鋭さを帯びる風の一撫でが、やけに感覚を研ぎ澄ましていく。自分がいなくなったと知らされる朝、彼がどんな顔をするのか、それを目の当たりにできないことは少しだけ面白くなかった。怒るか、泣くか、笑うか、喜ぶか、ある程度の確信はあるけれど、正解を知れないのは酷くもどかしい。天を仰ぎ見た。夜の帳が下りていても、そこにあるのは紛れもなく大空で、ああ、自分は彼と永遠の決別なんぞ出来ないのだと思い知る。自嘲気味に口許を歪ませた刹那、――背に突きつけられた何かに咄嗟に足を止めた。


「バーン」

 ゆっくりと、たいそう勿体ぶって振り向けば、ピストル――の形を模した指先に、わざとらしく息を吹きかける綱吉と、目が、合う。

「はい、リボーン死んだー。俺が敵なら無様に死んだー」

 教え子は楽しそうな微笑を携え、肩には見覚えのあるスーツの上着を纏っていた。なぜ、自分はここまで気がつかなかった?疑問焦り苛立ち、色んなものがごちゃりごちゃりとリボーンの頭を掻き乱す。最強と謳われる師の呆ける様子に教え子はからからと笑うだけだ。

「……なんで、わかった」
「おいおい、誰の生徒だと思ってんの?」

 確かに綱吉の言う通り、仮定の話彼が殺意を持っていたなら、今頃呆気なく心臓を撃ち抜かれていたことだろう。世界を震わすヒットマンが、背後を取られる、今の状況を表すとするならばどんな言葉が適切なのか。

「全く、勝手にいなくなろうだなんて、そんな卑怯を俺は許しません」
「…卑怯じゃねぇ、契約だ」
「契約書なら燃やした、残念」

 どうやら、とんでもない生徒を抱えていたようだと気付いたのはまさにこの時であった。

「お前を終身栄誉家庭教師に任ずる!」
「――栄誉家庭教師ってなんだよ」
「俺の先生様だろ!栄誉じゃん」
「そうか」
「いやー、ちょっと飲みすぎて起きれないかと思った。危ない危ない」
「あんだけ酒には気をつけろって言ってたのにまだわかんねぇのか」
「うん、わかんないよ。だから、俺にはお前が必要」
「納得」
「さ、先生、帰ろう」

 教え子に手を引かれ、石畳は愉快げに二人分の足音を響かせる。相変わらず夜風は鋭利だけれど、どうしてか暖かかった。その理由を知っている、だが今はまだ、反芻はしないでおこう。ただただ確かめるように、取られた手を握り返し、小さな背中に向かって口を開いた。


「誕生日おめでとう、ツナ」










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141010
師弟の生誕に捧ぐ!




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