ただそれだけ

 翌朝、目を覚ますといつの間にか抱え込んでいたようで、腕の中にいる綱吉と目が合った。子供はよく寝るものという認識もあったのだが、雲雀よりも少し早く起床して、その寝顔を見つめていたらしい。他人に寝顔を見られることなぞ幼少期以来であるも、なぜかそのつぶらな瞳には悪い気はしなかったことを雲雀はそっと胸にしまった。控えめなおはようございます、との声に頷き返し、起き上がれば同時に欠伸が口をつく。目覚めた時刻は日頃と然程変わりはしないのに、どうしてかいつもより眠りの質が良かったように思う。雲雀の欠伸につられたのか、傍らの綱吉も大きく口も開けていた。案外、柄にもなく雲雀の頭を掠めたのは、どうにかこの子の朝食を調達してやらねばなるまい、ということだった。いくら食生活が不規則な雲雀であっても、朝昼晩の三度の食事が必要なことくらいはかろうじて意識として残っている。実を言えば雲雀は人並み程度に料理はできた。特別、両親に習ったというわけでもないが、何となしに作ってみせれる程度には歳を重ねている。だが、朝から腕を奮う気にはなれず、結果近所のパン屋に連れて行くことにした。これなら、綱吉が食べたいものを選べばいいし、雲雀も性でもない悩みを抱えずに済む。時計の短針は数字の8を指したところであった。そういえばいつぞや、早朝から開店している美味しいパン屋の話を聞いことがある。朝の散歩も悪くないだろう。

「パン屋さん、行くよ」
「!顔、あらってきますっ」

 洗面所へ小走りに向かう背中を見届けて、雲雀も着替える為に自室へと向かった。



 扉を開けた直後、鼻腔を擽る香ばしいにおいと同時に隣から感嘆の声が聞こえてきた。確かに、様々な種類のパンに埋め尽くされている光景は食欲をそそるが、そこまでの感動を表す綱吉対して小さく笑みが漏れたことに、雲雀自身が気付く様子はない。

「好きなの取って」

 トレーとトングを渡してやったものの、綱吉の身長ではパンを掴むどころか、卓上を確かめるのがやっとの様で、結局雲雀がトレーを担い、必要とあれば抱き抱えもした。ついにメロンパンとあんぱんが盆に並べられる。たかだかある日の朝食という些事であるのに、彼は人生の一大決心とでも言わんばかりに、悩みに悩み抜いた上、両者が選出されたのだ。何だか一生懸命悩む少年の姿には、おいそれと軽い言葉を掛けることができなかった。達成感に溢れる綱吉に、雲雀はレジに向かい歩き出すも、服のすそを引っ張る手。

「ヒバリさん、は?」
「僕はいい」

 持ちたいと言うので、袋を手渡せば、綱吉は嬉しそうに受け取った。何度も思う、そんな希少価値のあるものではないのに。軽く体を動かしたお陰か、思考は曇りなく、これであれば昨夜止めてしまった筆の分も問題がなさそうだ。頭の中で浮かんでは消える言葉たちを手放さないように、口の中で反芻する。柔らかく吹く風が、言葉を運んできてくれているようだった。ああ、このフレーズいい、そう空を仰ぎ見た時、背後から鈍い音とビニール袋の掠れる音が聞こえてきた。ゆっくりと振り返れば、驚いた顔で地面と仲良しこよし、倒れこんでいる綱吉と目が合う。頼むから、泣いてくれるな。ふと気付くが、彼の転倒地点と、雲雀との間はやや離れていた。そうか、身長が違えば当然歩幅も変わる。マイペースに歩みを進める雲雀に遅れを取るまいと、発育途中の足を精一杯に広げていたのだろう。そうして足を縺れさせたと合点した。雲雀の胸がざわざわと音を立てる。
 果たして悲願が届いたのか、綱吉は泣かなかった。大きな瞳に涙を浮かべても、懸命に堪えていた。慌てたのは寧ろ雲雀の方で、大股でその距離を詰め、固まっている体を抱き起こしてやる。助けを求めるような眼差しが注がれた。綱吉が履いているのが七分丈であったのが功を奏したのであろう、見たところ怪我はなく、衣服が汚れた程度である。膝の辺りをはたき、痛いかと問えば、首は横に振られた。

「いい子だね」

 その言葉に綱吉の表情が僅か緩んだ。雲雀は胸を撫で下ろし、立ち上がる動作の中で、綱吉の手を取る。こちらを見上げる視線に気付いていたが、何も言わず歩き出せば、小さな手のひらが控えめに握り返してきたのがわかった。



「僕は部屋にいるから。何かあったら呼ぶんだよ」

 先刻浮かんできた言葉達を忘れてしまわぬよう、帰宅早々机へ向かう。特別拘っているわけではないが、昔ながらの原稿用紙にペンを走らせるのが好きだった。刻むものは何だっていい。鉛筆でも、ボールペンでも、万年筆でも、そこらへんに転がっているものを滑らせる。紙面から伝わる微かな振動は皮膚通って血管を揺らす、心地よいとすら感じていた。同居人が増えようと、雲雀の生活は変わらない。朝の光で目を覚まし、机に向かい、空腹を感じれば食事を取って、眠くなったら眠る。この毎日を変える気もなかった。けれど、ふと気付く。平生より時間を意識し、扉の向こうの物音へ注意を向けている自分に。思わず頭を抱えた。他人を思う生活など、有り得えなかった。誰かの為の行動など、嫌で堪らなかった。孤独の中で息をしていた筈なのに、いつの間にか見知らぬ少年と空気を分け合っている。酸素は確実に薄くなっているけれどどうして息苦しい感覚にはなれなかった。なぜ、と問い掛けはするものの、それ以上の思案を遮断するように、無理矢理筆を進ませる。考えたって答えの出ないことがこの世に存在することを、彼は知っていたから。

 鉛が最後の句読点を記す。大きく息を吐いて筆を置いた。雲雀の好む中編小説だ。世間の声は知らない。相変わらずこうして今日も筆を取っていることが、これまでの作品に対する評価なのであろう。担当へ脱稿の旨を伝えれば、次回作も楽しみにしています、とのことだった。凝り固まった体を解そうと立ち上がる。太陽は一番の高い位置をやや通り過ぎ、これから落ち行く準備のようだが依然として煌々と輝いていた。襖を開けると、ふと眼下に何かを捉える。視線を落としたところに、半分ずつのメロンパンとあんぱんが皿に乗っており、その脇に均衡の取れていない字で「ひばりさんへ」というメモが添えられていた。悩みに悩んで選んだそれらなのに、己を気遣い分けてくれたのだろうか。何とも表現できない感情が胸に湧き上がる。行儀の良くないことなど百も承知で、その場で片方を口に含めば、平々凡々なあんぱんも、何だか少し特別な味がした。それは空腹のせいなんだと、自分を納得させるのだった。

 さて、少年の行方を探さねばならない。部屋数は両手で数えられる程度だが、如何せん日本家屋特有の構造をしている為、例えば部屋を挟んだ縁側を移動していたら、すれ違ってしまう可能性や、襖一枚で隣り合っている部屋を行き来されれば見つけにくい。下手をしたら子供一人見つけるのに困難を来たすのだ。が、想像していたよりも遥かにあっけなく、すんなりと対象者を発見する。綱吉は縁側に座りぷらぷら足を揺らして空を仰いでいた。傍らには絵本が置かれている。その本は何度も何度も繰り返し読まれたように、くたびれて色も褪せていた。──雲雀は、それを知っている。なぜって、雲雀が書いた本だから。書いた、というと語弊が残るが、元はイタリア語であった絵本を、日本語に起こしたのが雲雀というわけだ。

 この絵本との出会いは雲雀がまだ綱吉くらいの歳の時分である。この家には祖父母が住んでいた。何でもないある日、祖父の部屋で見つけたのだ。漢字もろくに読めやしないのに、イタリア語なんて、ましてやそれが何語だかも、幼い雲雀にはわからなかったけれど、挿絵が美しく、異国の文字もその一部であるようで、心をまるごとごっさり持っていかれた衝撃を今だに記憶している。残念ながら話の細部までは理解できなかったが、絵の移り変わりから推測できた物語が以下である。
 主人公は雲の子供だ。いつも仲間とぷかぷか大空に浮かんでいたが、ある時迷子になったのをいい事に、旅に出ることにした。雲の子は自由に大空を冒険する。森の上を駆け回ったり、街の人々を見下ろし眺めたり、寂しくなれば空と会話をした。予期せず仲間と再会するが、最後はどうやら孤独を選んで終わる。それが幼い折に文字の情報なくして理解した限界であった。年端のゆかぬ頃から、同じように孤独を好んだ自分と、重ね合わせたのだろう。それからこの家に来る度、本を開いたが、暫くしてその存在は忘れられてしまった。そうして幼少の記憶すら薄れる程の年月を経て、祖父の遺品を整理していた時に、再び出会ったのだ。二十余年振りに触れた瞬間、その本の翻訳を出そうと誓った。勿論雲雀にはイタリア語など扱えない上、著者が存命なのか、権利はどうなっているのか、一小説作家では解決できない問題に助力をくれたのが、そう、綱吉を連れてきた当人のリボーンである。彼は原文の翻訳の一切を請け負ってくれ、更に特に時間を要することもなく日本での出版許可も得てきた。そうして、素っ気なく必要最低限の言葉で翻訳された文字たちを、雲雀が物語として装飾し、この世に生まれてきたのが、今綱吉の側にある絵本なのである。綱吉を断れなかった所以はここに由来する。

「その本、」

 雲雀の来訪に気づいていなかったのだろう、遠慮なく隣へ腰を落ち着ければ小さな肩が大きく揺れた。ぱちくりと瞬いてから、雲雀を見、そして絵本に目をやり、また雲雀へと眼を戻す。

「君の?」

 綱吉は空色の絵本を両手で抱えて頭を上下に振った。柔らかそうなカラメル色の髪が惜しげなく揺れる。

「父さんが、くれた」

 この子の口から親族の固有名詞が出たのは初めてだ。とはいえ、雲雀はその辺りには然程興味はなく、続く言葉を待っていた。けれど綱吉もそれから何をどう紡げば良いのかわからず、困ったように眉尻を下げるのみ。奇妙な沈黙が流れた。あぁ、そうか、こういう時には手を引いてやらねばならぬのだろう。

「大事なの、それ」
「、たからもの!おはなしもすき、だから」

 雲雀は優しく微笑えんで、綱吉の頭を撫でやり、そっか、と柔らかな声色で返すだけである。表紙に自分の名前が刻まれていることは黙っておくことにした。何となくそうしたかったのである。いつの日か知ることになるだろう。でもそれは、いつかでいい、今ではない。綱吉の髪を撫でたその手で本の表紙をなぞり、当たり前の雲を見上げた。あの日の自分を、小さな少年へ重ねる。何だか少しくすぐったい気持ちになった。仰いだ空には、小さな雲が浮かんでいた。












「あぁ、やっと見つけた、いとしい子!はやくかえっていらっしゃい」

 おおぞらのぼうけんはおわってしまった。なんて楽しいまい日だったのだろう。ひさしぶりに見たお母さん雲は、しんぱいでよるもねむれず、ごはんもたべず、すこしやせてしまったようだった。おとうさん雲が手まねきをします。

「こっちへおいで。でないとお前はまだ小さいから、そのままきえてしまうぞ」

 雲の子も気づいていました。日に日にじぶんが小さくなっていくのを。前へすすむはやさもどんどんゆっくりになっていました。そんなことずっと前からわかっていたのです。けれど雲の子はしっかりと体をよこへとふりました。


「ぼくはきえてしまってもいい。おおぞらにきえていくから」

 そうしてまた、おおぞらをじゆうにとんでいったのでした。













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140812




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