「兄さん」




静かな夜だった。春の後の、夏の前の、梅雨の夜。開け放った窓から流れ込む風は、僅かな冷気を帯び心地よい程度に疲労の溜まった体の熱をさらってくれる。人の歩く音や話し声、車の通りすぎるタイヤの音、どこかの家の玄関が閉まる音、たまにそういったものが聞こえるだけで、あとは無だった。否、無ではない、空気の音と言うべきか、若しくは風の音か、夜の音か。とにかく、そんな町の音色にゆだね、薄れ行く意識に抗いもせずに寝転んでいたベッドのスプリングが、もう一人分鳴いたのは、今自分の体に跨がる男のせいだった。

「むくろ…?」

白熱灯の点いていない室内で、月明かりに輪郭をなぞられた弟の姿。加減なくのし掛かってくる体重は、まるで己の存在を主張しているかの様だ。

「結婚、するんですって?」

指先まで凍る錯覚を覚える程の冷たい響きを持った言葉。頼りない光の中では、はっきりと確認することはできないが、それだけで彼の表情も安易に想像できた。あの射抜く様な瞳がまっすぐに降り注いでいるのかと思うと、額を、嫌な汗が伝う。

普段、弟は自分に一番優しかった。六つも離れた弟で、昔から猫可愛がりしてきたせいもあってか、普通ならば兄離れする歳を迎えてもその兆しは一向に表れず、寧ろ年を経るごとに彼の兄へ対する愛情の類いは、濃度を増していった。綱吉自身、満更というわけでなく、第三者…ひいては両親にですら一線引く弟が、自分へ対しては隔てなく甘えてくれるのを嬉しく思っていた。綱吉が高校生くらいの頃までは一緒に風呂に入ったし、大学を卒業するまでは同じベッドで寝ることもよくあることだった。社会人となって早数年、学生の弟とは生活サイクルが変わってしまったが、時間の合う休日は、共に出掛けることもある。
けれど、時折こうした禍々しい感情をぶつけてくる事があった。一番初めは彼女が出来た夜。その次はデートをした夜、三番目はキスをした夜。継いで朝帰りした日の朝。
いくら鈍い綱吉と言えど、理由はわからずとも、原因には察しがつく。初めこそ恋人のできた己に嫉妬でもしているのかと考えたが、思えば弟は幼稚園の頃から美男子として持て囃されていたし、そんな器の狭い人間でもないのも理解していた。だから、余計理由なんてものは思い浮かばなかったが、かといって問いただすこともできず、それでも力ずくで拒絶してこなかったのは、弟の表情に、どこか悲しみを感じ取っていたからだ。
弟を悲しませることは絶対にしてはいけない。それは物心ついた頃から慕い続けてくれている彼に対する、愛情表現の一つだった。そう心得ていたから、今回の結婚のことはまだ黙っていた。母親にすら話していない。頃合いを見計らって両親に打ち明け、それから彼女のご両親に挨拶に伺い、届を提出する直前に話そうと思っていた。自分だって、人間で、男で、社会人だから、いつまでも独身ではいられない。でも、弟を出来るだけ悲しませたくない綱吉の、今ある最良の策だったのに。

「僕に隠し事ができると思わないでくださいね」

弟に隠し続けてきた罪悪感もあって、顔を反らした綱吉の首に骸の手がかかった。驚いてその腕を掴むものの、容赦なく空気を奪っていく。

「っはな、して‥っ」
「別れてください」
「なっ‥」
「嫌いになったと言って別れてください」
「そ、ん‥なっ」
「頷いて、兄さん。お願い」

酸素が足りない、と脳が救難信号を出していた。目の前が霞み、体ごと心臓になってしまったかの様に鼓動が響く。骸、と形作った唇は言葉にならなかった。

「頷いて!」
「‥‥った、わか‥った‥から‥!」

気道が解放され、浅い呼吸を繰り返す。眦に浮かんだ涙は、生理的なものか、はたまた自分よりも苦し気な顔をしている弟へ向けてか。なぜ、と声をかけることはできなかった。

それから、彼女に電話した。いきなりの真夜中の電話にも関わらず、優しげな声が鼓膜を震わす。だから尚更なかなか切り出せず、暫く他愛もない世間話をしていたが、話の流れを変えたのは何かあったの?という彼女の一言。そうして、漸く伝える事ができた。別れよう、と。彼女は一度では理解できなかったらしく、聞き返されたので、もう一度あの嫌な言葉を言わなければならなかった。どうして?昨日まで、と問い詰める声は涙に濡れていた。確かに彼女の事は愛していた、今だってまだその想いを引きずっている。それでも、今、自分の体に必死にしがみついて震えている男の方が大切だと思ってしまう自分はとうとう末期かも知れない。



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「いいんだ、骸、大丈夫」
「苦しかったでしょうごめんなさいごめんなさい兄さん」

先ほどまでの力強さが嘘のように、触れる手のひらは優しさに満ちていた。彼女に別れを告げてから数時間、弟はずっとこの調子だった。こうした暴挙に出た終いは決まって謝り続けるのだ。謝罪の対象は、痛めつけてしまった綱吉へ。決して、彼女との仲を駄目にしたことではない。

「兄さん、兄さん、ずっと側にいてくださいね。僕をひとりになんかしませんよね?兄さん、僕の兄さん」

すがりつく手のひらを、そっと握った。夜明け前の滑稽な僕らの喜劇。












090620
140709 加筆修正







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