24
苦い甘味(side.真彩)
「良いご身分だねぇ、ホント」
それは、光くんのリクエストに答えてピアノを弾いていた時だった。
第三音楽室に現れた、弓槻凛先輩。
癖のある口調はいつものこと。
だけど、その瞳は――いつも以上に鋭い光を放っていた。
「古宮様の温情で、生徒会に入れてもらってるって言うのにねぇ?」
鋭い視線。
トゲのある言葉。
向けられる敵意に身がすくむ。
「誰だよお前! いきなり来て、マーヤに何てこと言うんだ!」
憤慨した光くんが声を荒げる。
弓槻先輩は、そんな光くんを一瞥して嘲笑を浮かべた。
「君こそ誰ぇ? 2年の転校生くんだってことは知ってるけどぉ」
そんなことより、と先輩は僕に向き直る。
「ねぇ何悠長にピアノ弾いてるの?」
神原、真彩くん。
名前を呼ばれても、僕は俯くことしかできなかった。
--古宮様に迷惑かけないでよ。
--いつも古宮様のお世話になってる身として、きちんと働こうって気はないの?
--せめて書記としての責務を果たしたら?
--生徒会役員として役不足だよ。
--神原を名乗らせてもらってる身なんでしょ。
--頑張らないと家にも申し訳が立たないんじゃないの?
--家を継ぐ弟くんに、厄介な兄を持ったって思われちゃうよ。
矢継ぎ早に告げられる先輩の言葉。
何一つ反論出来ない。
必死に光くんが僕を擁護してくれていたけれど。
僕は足元を見ているだけで精一杯。
頭の中がぐるぐるする。
全部正論だ。
少なくとも、僕にとっては。
今の先輩が言ったことは全て正しい。
「それじゃあね。神原、真彩くん」
音楽室から出ていく先輩の瞳。
そこに映る僕は、ひどく歪んで見えた。
それは先輩からそう見えている証拠のだろう。
僕はとても汚く映っているのだろう。
「マーヤの馬鹿! 何で言い返さないんだよ!」
先輩が出ていくとすぐに、光くんは振り返って叫んだ。
光くんは必死に僕を擁護してくれたというのに。
僕は、何一つ言い返すことはできなかった。
そのことに怒りを感じることは当然だ。
「あんなこと言われて悔しくないのか!? マーヤはちゃんと頑張ってるじゃんか!」
「…………」
「倒れるまで生徒会の仕事やってただろ!」
「光くん、」
「何でアイツに何も言わないんだ!」
言葉を挟む隙がない。
僕を問い詰める光くんの剣幕はすさまじい。
だけど、僕は――、
ぐるぐるする頭では答えなんか出なくて。
「何でなんだよ−−ぉ?」
『こーはーくー! キーック!!』
光くんの言葉を掻き消す声。
発信源は、扉の向こう側。
――会計・仁保の声だ。
間を置かず聞こえる喧騒。
何かが起きたみたいだ。
「……どうした? 何があったんだ!?」
気が削がれた光くんは、扉を開けて向こう側を確認する。
誰かと会話を始めたと思ったら、すぐに扉の向こう側へと消えた。
静まり返った音楽室。
扉越しの喧騒も、もう聞こえない。
頭の中に巡るのは、
先程の喧騒じゃなくて、
光くんの擁護じゃなくて、
――弓槻先輩の忠告。
『神原、真彩くん』
苗字で1度区切る先輩の口調。
神原という苗字は僕に相応しくない。
そう言っているように聞こえてしまう。
――頭の中がぐるぐるする。
どれだけ時間が経ったのか。
曖昧な感覚の中、口の渇きだけははっきり分かっていた。
窓の外はもう陽が暮れている。
西の空に僅かに残る橙色の空。
1番星どころか多くの星が瞬く。
少し欠けた月は淡い光を放っていた。
いつもならこんな景色はピアノで表現したくなるのだけれど。
今日は――今は、出来ない。
目の前にあるピアノ。
弾くはずだった楽譜。
頭の中がぐるぐるしたまま。
活力は出ないまま。
鍵盤に指を置くことはできない。
だからといって、ピアノの前から離れることもできない。
動くことさえできずにいた。
「いつまで呆けてる気だ、馬鹿王子」
声に驚いて、肩がびくりと跳ねる。
振り向く必要もなく、秋月はすぐ傍にいた。
いつの間に音楽室に入ってきたのか。
気付かないほど、僕は物思いに耽っていたみたいだ。
「また倒れる気かよ」
怪訝な表情で、秋月の指が僕の頬に触れる。
倒れる気はない。
けれど、頭はぐるぐるしていた。
頬も、血の気が失せているのだろう。
触れる秋月の指は温かい。
無意識の内に、その優しい手に擦り寄った。
「キツい時ぐらい、キツいって言えっつったろ」
ため息混じりの言葉。
前にも同じことを言われた気がする。
そう、前に倒れた時に。
「……どのくらい、」
「あ?」
「どのくらいから言っていいのか、分からなくて、」
キツいことは誰にでもあって。
僕が今感じてるそれは、耐えるべきものなのか。
それとも、弱音を吐いていいものなのか。
――境界線が分からない。
“キツい”の程度の基準が分からない。
「本当に、馬鹿だな」
馬鹿王子。
呆れ口調の後に、短いため息が続く。
「んなもん、キチーって思った時言えばいーだろ。そしたら」
ぐい、と腕を引かれる。
秋月の手は力強くて、制服越しでも伝わる温かさがあった。
「肩ぐらいは貸してやるよ」
素っ気ない口調。
垣間見える優しさ。
嬉しくて嬉しくて堪らなくなる。
「帰るぞ」
足に力を込めて、どうにか立ち上がる。
秋月は僕の腕を掴んだまま、扉を抜けて寮へと先導する。
先を歩く秋月の顔は見えない。
こんな僕を連れて歩くことは、本当は迷惑かもしれない。
心の中では厄介に思っているかもしれない。
だけれど、手を離さないでいてくれる。
それだけで有り難くて、
「あきつき、」
「んだよ」
「ごめん」
「……王子は謝罪しかできねーのかよ」
曖昧な感覚も、ぐるぐる回る頭もまだ治っていない。
だけれど、腕を握る秋月の手が。僕を繋ぎ止めてくれている。
「あきつき、」
「…………んだよ」
「ありがとう」
感謝の言葉を秋月は無言で受け取った。
それ以降、帰りつくまでずっと会話はなかった。
秋月は何も話そうとしなかったし、僕も喋らなかった。
息苦しい沈黙ではなかった。
だから、それでよかった。
腕を掴んだままでいてくれただけで。
離さずにいてくれただけで。
――不安定な僕を繋ぎ止めてくれているだけで。
それだけで、嬉しかった。
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