▼ 交錯
目をつむれば、幼い頃の記憶が甦る。
「四郎三郎さま」
彼の名を呼んだ少女はぱたぱたと足音を立てて走る。
幼い頃の晴久はその少女に呼ばれたのが嬉しかったのか、晴久も少女に向かって走った。
少女の背後からは数人の侍女が付いてきていたが、少女はそんな事はお構いなしに晴久の腕の中に飛び込み、着物の袖を掴む。
袖を掴んだまま、少女が満面の笑みを浮かべたから晴久もそれにつられて笑った。
「わたしね、大きくなったら四郎三郎さまのごせいしつになりたい!」
突発的に紡がれた少女の言葉に晴久は頬を赤く染め、少女の頭を撫でた。
「当たり前だろ!お前しかオレのよめにしないからな!」
そう少女に言ってやると少女は「約束だよ?」と、小指を晴久の前に出す。
晴久も「約束だ!」と言って少女の指に自分の小指を絡ませた。
「「指切りげんまん、うそついたら針千本のーます。指切った!!」」
だが、その約束は交わされる事はなかった。
何故ならその少女は晴久と同じ尼子の人間。つまりは大名一族の娘。
その所為で少女は戦に紛れて消息不明になってしまったのだ。
晴久は厳格な祖父に少女の一族を捜して欲しいと請うたが祖父はそれを聞き入れなかった。
このご時勢、大名一族の消息が解らなくなる事などは良くある話だからだ。
そんな中彼女の父親だけは生きて戻ってきた。
彼女の父親は自分の家族を棄てて生きながらえた、晴久はそう思い腹を立てたが、それも今となっては過去の事…。
目を開けば今まさに、あの時の少女が目の前に居た。
勿論あの時から経過している時間の分成長はしているが。
「久しいな。元気にしてたか?名前」
「…はい。詮久様もお元気そうで何よりです」
名前は今の彼の名を知らないのか、最後に会った時の名を口にした。
晴久はそれを皮肉ととったのか少しだけ肩を竦めた。
しかし今の名前である"晴久"と呼んで欲しいからこそ名前に名前を正させる様に言った。
「その名は捨てた。今のオレの名は晴久だ」
そう言ったら名前はあの頃の様にあどけなく柔和な笑みを浮かべた。
しかし晴久はあの頃と違い名前の笑顔につられて笑う事は無かった。
何故なら今の名前の背後には毛利の軍勢の一部が弓を構えて並んでいる。
そしてその上、名前の手にはしっかりと武器が握られていたからだ。
何とか説得して名前を連れ帰りたい。
過去を懐かしむのは名前と一緒に月山富田城に帰ってからだ。
それならばまず先に何故毛利に組しているか訊かなければならない。
そう思って晴久は今は敵の幼馴染に語りかける。
「名前。お前はオレ達尼子の人間だ。何で毛利なんかについていやがんだ」
「私も尼子の姓は棄てました。今は私の命を拾ってくださった毛利家の…元就様の為に戦う!!」
「!!」
急に走りながら刃を振り下ろされ晴久は歯を食いしばりながら刀で刃を受け止めた。
「名前!!それでもオレとお前が戦う理由なんてねぇだろ?!!」
名前の攻撃をいなす様に、しかし名前を自分から離す様に刀を操る。
確かに名前は自分の父に家族共々棄てられ、子供ながらにも一族に棄てられた、そう思うのが妥当だろう。
しかしその後、名前は毛利家に、元就に拾われた。
だからこそ忠節を誓っている。だからこそ元就の意のままに動いている。
例え、大好きだった人が敵だとしても。
「もう私は尼子の人間じゃない!!今は元就様の駒なの!!」
胸に去来する想いを殺し叩き付ける様に叫ぶと、晴久が一瞬だけよろめく。
名前はその一瞬の隙を見逃さずもう一度大きく薙刀を振り下ろした。
寸での所で晴久は名前の薙刀を弾くと、計らずとも薙刀は名前の手から離れ放物線を描き砂の地面に突き刺さる。
弾かれた衝撃で名前も砂の上に叩き付けられた。
晴久はぐっと今にも爆発しそうな感情をこらえて名前の眼前に刀の切っ先を突きつけた。
その光景を目の当たりにした毛利兵は危機に陥った名前を援護しようと弓を構えるが晴久がそれを一喝した。
そしてもう一度、名前に優しく説得の言葉を掛ける。
「もう一度言う。名前、尼子に下れ」
「い…嫌だ」
「何でだ」
「私は…元就様の為に戦うって決めたから」
今にも泣きそうな名前に仕方なく晴久は刀を振り上げる。
「斬り殺される」そう思い名前はゆっくり目蓋をを閉じ、思う。
晴久に殺されるのも悪くない、と。
そして目蓋の裏にぼんやりと映る君主の姿に謝罪の言葉を託した。
「(元就様、私は貴方様の駒になりきれませんでした)」
つうっと名前の目尻から涙が零れる。
しかし何時までたっても刃が名前の体を切裂く事はなかった。
「ったく、なんて顔して泣いてんだ、馬鹿」
納刀する際の音がしたと思うと、その次には言葉と共に頭の上を優しく撫でられる感触。
目蓋を開きゆっくりと顔を上げると晴久があの頃と同じ様に笑っていた。
嗚呼、彼はあの頃のままだ、名前はそう安心した。
しかし今は戦の最中。何時までもこうしている訳にはいかない。
このまま時が経てばいずれ毛利軍の援軍が来る。
そうすれば尼子の総大将である晴久は狙われるし、その尼子の総大将と馴れ合った名前が部隊ごと処断されるのは必須。
チラリと名前の後ろに控えている部隊を見れば、全員名前の事を心配そうに見つめている。
晴久はそれを確認すると左手を挙げ高らかに声を張り上げた。
「尼子軍全軍撤退だ!!」
「え…?!」
名前が驚嘆の声を上げれば、晴久は名前から離れ踵をし、しばらく歩くと足を止めた。
名前の方を振り返らずに、其処に立ち尽くしたまま。
「何で…!!」
「名前!!」
名前が晴久につっかかろうとしたのをすかさず毛利兵が止める。
彼らは晴久が兵を退かせたからそうした訳ではない。
晴久が何故兵を退かせたか理由を今までのやり取りから察したからそうしただけの事。
一軍の総大将がそう容易く兵を退かせる訳がない。
恐らくは名前の姿を見た時から迷っていたのだろう。
そして今、総大将としての苦渋の決断をしたのだ。そんな苦しんでいる晴久を止める義理は無い。
「名前」
名前を呼ばれ名前は晴久の背を見つめる。
その瞳は涙で潤み視界はぼやけていたが、それでもしっかりと晴久を見続けていた。
「お前がオレと敵対するならそれで良い。でもそれならオレ達の過去の事はスッパリ忘れな!」
その言葉はまるで自分自身に言い聞かせている様にもとれて。
微かに震えていた晴久の声に名前は無意識に腕を伸ばしていたが、晴久はすぐに砂の中にもぐってしまった。
体の力が抜けた様に崩れた名前はずっと晴久がいた場所を見つめ続けていた。
しかし「名前様」と、自分に掛けられた声にハッとして後ろを振り向く。
そして気付いた。自分と晴久の関係は一部とはいえ軍に知られてしまった。
「名前様。此度の件、我々は何も見ていませんし、聞いてもいません」
驚いた顔をして彼らを見ると彼らは笑っていた。
どうやら自分は人望に恵まれているらしい。それならば彼らの願いは聞き入れなければならない。
「…ありがとう」
例えどれだけ時間が経ったって、その所為で敵対したって貴方の事が大好きだよ。
四郎三郎さま。
End.