▼ トレンチコートを掛けたのは
「ん?」
夕焼けでオレンジ色に染まった教室。
渡邊オサムは足を止め、空である筈の教室の中を眺めた。
視線の先にあるのは、机に突っ伏し静かに寝息を立てて眠る女子生徒。
彼女は彼が顧問を務める男子テニス部のマネージャーだ。
心配になって近くに寄れば、甘い香りがふんわりと鼻孔を掠める。
「こないな所で寝とったら風邪引くでー?寝るんやったら家帰って寝や、日南?」
肩を揺すって、耳元で喋っても日南は起きる様子もない。
流石にここまですやすや眠っているのに無理に起こすのも可哀想になり、暫く様子を見てから起こそうと思い、日南の正面の席に座った。
そして、日南の髪を撫でて、只一言呟く。
「……ごめんな」
事の発端はその日の昼休み。
「オーサームちゃん!!」
廊下を何となく歩いていたら、背後から日南が元気に笑って走って来た。
いつも日南は元気がいい。その元気を同学年で仲のいい財前に分けてやって欲しい位だ。
「日南。廊下は走ったらアカンやろ?せやけど、元気エエなぁ!よし!1コケシ」
「要らない!」
日南は満面の笑みでオサムの台詞を遮った。しかも即答で。
何故誰も欲しがらない?!!自腹きってオーダーメイドで作っているのに!!
そう思うと何だか泣きそうになって来た。
「…で、どないしたん?」
気を取り直しそう聞くと、日南は「…え…と、」と、小声でもじもじしている。
「早よせんと休み時間終わてまうで?」
そう笑いかけると日南は一泊置いてオサムのコートの袖を掴んだ。
「あの…、話があるの。誰にも聞かれたくないから、余り人の来ないとこ、行きたい」
その時は、ただの相談事だと思っていた。
二人は足早に余り人が来ない部室の裏へ移動した。
「日南、話しって何なん?」
「その、ね。私、オサムちゃんの事好き、なの」
「センセも日南の事好きやでー」
わしゃわしゃと髪を撫でてやると、日南はフルフルと首を横に振った。
「違う…!!そうじゃないの!!」
声を大きく張り上げ、日南は涙で歪み始めた視界でもオサムの姿を捕らえた。
オサムはオサムで一瞬心臓が止まりそうになっていた。
先生としての"好き"だと思い込んでいたのに、異性としての"好き"と言われてしまった事についてだ。
否、本当は気付いていた筈だ。日南のぎこちない言動だけでも解っていた。
解っていたけど、気付いてないフリをして、誤魔化して、幼い心を傷つけた。
「ごめんな…。日南の気持ちは嬉しいんやけど…アカンねん」
平静を装い、日南に優しく言葉を掛ける。
「もう休み時間も終わりやし、戻ろか」
その静かな空間から、小さい嗚咽だけが聞こえる。
泣いている。でも、結局は生徒と教師であって、恋愛なんておおぴらに出来るわけではない。
そう思うとオサムは遣る瀬無さとどうしようもない切なさに襲われた。
「オレも日南の事、……好きやで」
眠る日南の髪に指を絡め、独り言の様に呟く。
するりと滑る髪を集めては零して、ふぅ……っと溜息を吐いた。
もし自分も生徒だったら。もしそうだったらきっと日南の気持ちにこたえられたかもしれないのに。
そう思ったが虚しくなったから考える事を止めた。
喉が渇いたから一旦職員室に珈琲でも呑みに戻ろうかと席を立つ。
そして自分の着ているトレンチコートを日南に掛け、起こさないようにそっと額にキスをした。
告白されて、気持ちの箍が外れた。
でもこの想いは止められない。でもこの想いを届けてはならない。
職員室で自席に座り淹れたばかりの珈琲を啜る。
窓の外の景色は日も落ちかけ、少し暗くなり始めていた。
「(やっぱり起こした方が良かったんかな)」
そう思い、彼は自嘲した様に笑いながら、余りにも惨め過ぎて泣いた。
end.