【3594taisen】
酒涙雨
その、涙は。
如何な理由を孕んで流すのか。
ひと時の逢瀬、惜別に流すのか。
叶わずの逢瀬、嘆きに流すのか。
その、雨は。
七夕の夜。
灯りの類を点す事も無く、徐庶はひっそりと静まる城内の縁側に座り、空だけを見詰めていた。
星々の瞬きなど望むべくも無い雨雲が眼には映り。
嗚呼、今年も―――か。
「…逢瀬の夜に雨とは、真に天も無粋よの…」
ぽつりと呟いた徐庶が、座した傍らに置いていた杯を呷り。
元へと置けば…杯は、ふたつ。
自らの杯は空となった。
もうひとつには、注がれたまま。
待てど待てども、この雨では。
「…元直?」
不意に、よく耳慣れた声が静かを裂いた。
徐庶が声の主へと眼を向ければ、その姿も違える事は無い。
「…どうしたんじゃ?広元」
学を志したからこそ出来た友。
曹操の下へ身を置く今も変わらず、声を掛けた主―――石韜、は。
徐庶にとって、旧友と呼べる大切な存在で。
どうやら、徐庶の姿を見掛けたはいいが…只管に天だけを臨むその姿に、少々気後れしつつも声を掛けた様子。
「どうした、はこっちの台詞だろ。全く、お前が大人しく天文とか…何だ、具合でも悪いのか」
「ほっほ!やれ、やれ…随分な言い方をしてくれるの、広元」
憎まれ口の叩き方も、叩かれる側も心得たもので。
くつくつと笑う徐庶に呆れながらも、何時もの徐庶だと安堵した石韜はゆっくりと歩み寄る。
「…?…誰か、居たのか?」
「来る筈…だったんだがの、この雨空では…来れぬ様でな」
「―――…そっか」
徐庶の傍らに置かれたふたつの杯が、夜闇の中で幽かに浮かび。
石韜が訳を問い、返す徐庶は。
―――元直、には。
「…良ければ、代わりに呑んでくれんかの?広元」
「…ああ」
再び流れ始めた静かを裂いたのは、徐庶。
誰かを待ち、誰かの為に注いだ一献を手に取ると、石韜へ。
大切な友だから。
大切な。
「のう広元、天が泣くとは…よく言ったものよの」
雨は代わりに泣いてくれるのだ。
叶わぬ逢瀬に泣いてくれるのだ。
雨は、
「元直」
徐庶より手渡された誰かの為の酒を空け、石韜は悟っていた。
自分が、代わりにはなれぬ事。
真に、涙を流すべき者の事。
「…泣けよ」
「ほっ…広、元…?」
きょとん、と。
石韜が何を言い出しているのか、徐庶には真意を掴む事が出来ず。
…否、そんな筈は無い。
何故なら、それが真なのだから。
偽りを消す為に必要な言の葉なのだから。
理解っていたのに。
理解らなくて。
―――誰かに、教えて欲しくて。
「泣いていいんだ―――元直」
それは、おかしな事ではない。
それは、恥ずべき事ではない。
それは、それは、貴方に愛する人が居た証なのだから。
「……こう、げん…こう…っ、…く…うっ…わたし、は……」
つつ、と。
一条が徐庶の頬を伝い、虚ろを払い総てを曝け出そうとする。
誰を待っていた?
誰を想っていた?
誰を、愛して。
「お前が呼んでやらなきゃならないのは俺じゃないだろ?元直…」
「…ッ…げ、ん…しげ、ん…っ……しげん、に…あいた、い…」
嗚呼、ほら。
ぱたぱたと地に染み入るは雨音。
真の涙雨。
堰を切った様に嗚咽を上げて愛する者の字を呼ぶ徐庶の背を、石韜は何も言わず優しく擦り。
天を臨む。
空には満天、星の川が煌き。
際に輝くふたつの星は、この夜だけに赦された逢瀬を迎えている。
―――逢える筈の、夜なのに。
天へと還った雛と逢えぬのは。
私が、雨だから。
■終劇■
◆酒涙雨(さいるいう)
催涙雨・灑涙雨とも、七夕に降る雨の事を差す。
織姫と彦星が年に一度の逢瀬の後の惜別に流す涙。
または、逢瀬が叶わなかった際に流す悲しみの涙雨とも。
2009/07/07 了