【3594taisen】
茘枝香夢
「……ん…この香り、は…?」
淀みの無い風に乗り。
香の香りにも似た芳醇が鼻腔を擽るのをふと覚えた郭淮は、廊下を歩む足をぴたりと止めた。
その芳香は甘く、魅惑を知り尽くしたかの様で。
上品の中にも、湛えた妖しき色香。
仄かに感じただけで、今迄に知らぬ香りである筈なのに―――奥底に秘めた、それらを知らされる。
「…何方かの香でしょうかね…しかし、良い香りですねえ」
眼を閉じ、改めてその香を楽しむと。
不意に、香りの主を求める好奇心が湧き立ち。
「此方…ですかね?」
風と香に誘われるまま、郭淮は再びの歩みを始める。
知らずの内に、囚われて。
―――…
「あれ……張コウ殿?」
香の元を探り当てたと確信し、辿り着いた部屋の戸を開いた先に居たのは張コウ。
意外に思ったが、室内に篭る香りは正にそれで。
間違いは無い様だ。
「…どうかしたか?」
「いやあ、良い香りがしたものですから…香の主は、何方なのかと思いましてね」
「…鼻の効く奴だな」
「…結構、外に漏れてましたよ?」
「そうか?」
一歩踏み入れた郭淮は直ぐ気が付いたのだが、ぴったりと閉じられた室内はむせ返る様な芳香に包まれており。
濃密な香は、隙より出でた微かだけでも充分に郭淮を導いた。
そんな、眩暈を覚えそうになる室内で張コウが平然としているという事は…恐らく、慣れによる麻痺なのだろう。
察するに、随分と前からこの芳香の中へと居たらしい。
「それで…」
様子を窺うに、香を焚いていた訳でも無さそうで。
湧き出た好奇心を、そのまま張コウへと問う。
「一体、この香りの正体は何なのですかね?」
「…茘枝、だ。」
「"れいし"…?」
「産地では"ライチ"とも呼ぶらしいがな」
どちらにせよ聞き慣れぬ名に、不思議そうな表情を郭淮は浮かべる。
「…最も、此処にあるのは"それそのもの"という訳ではない」
「どういう事です?」
「そら」
そう言って差し出された、張コウの掌に乗っていたモノは。
「茶葉…ですか?」
「ああ」
成る程、よくよく奥を覗けば茶器が見える。
蒸らし待つ急須から、魅惑の香。
しかし慣れぬ煎れ具合に苦心したのか…幾度も煎れ直した跡も見受けられる。
その結果が、広がる芳香という事か。
「元々は南方の果実なのだそうだがな…足が早い為に、この形でしか此処まで届かんのだ」
「ああ、果実でしたか…道理で甘く、良い香りな筈ですねえ」
「気に入ったか?」
「ええ、俺はこの香りが好きですよ」
そう言って微笑んだ郭淮に、張コウも微かな笑みを見せる。
多く語らぬのは性分。
ならば、その意味は。
「…毒見役に、一杯、戴いても構いませんかね?張コウ殿」
「…ふ…構わんぞ」
頃合い良く、蒸らしを終えた急須を張コウは手に取り。
郭淮は、机に置かれていた二つの茶杯を手に取った。
つ…っ…
「…う〜ん…真に、馥郁を感じさせる良茶ですねえ」
内庭を臨む楼閣の一角へと場所を移し。
早速、一口含んだ郭淮は顔を綻ばせる。
「甘党の俺には、丁度いいですよ」
「…その様だな」
茘枝そのものの甘味を知り得ている訳ではないが。
その片鱗は、茶葉と変容した中でも窺い知る事が出来る程。
糖質を全く含ませていないというのに、自然な甘味が咥内に広がる。
「全く持って、お前好みだ」
「選んで下さったのですかね?」
「……想像に任せるさ」
「もう、素直に言ってくれてもいいじゃないですか」
ゆったりと、香を澄んだ風に運ばせながら。
茶を、逢瀬の様なひとときを、楽しむ。
つ、う…っ
「…ふう…御馳走様です、ありがとうございました張コウ殿」
「…礼には及ばん。」
く、と。
茶杯を傾けて飲み干し。
「どうせ、お前の為だからな」
ことり、と。
空となった二つの茶杯が机に響く。
「……本当、的確な好機を知っていますよね、張コウ殿って」
「俺は、お前が言えというから言っただけだ」
甘き香りは、未だ漂い。
ふたりを包み込み。
「それに…それならやはり、礼をしないと俺の気が済まないですよ」
「……ふ…っ…好きにしろ……」
ふわりと浮かぶ様な、優しき口付けを郭淮は落とす。
同じ香の中で攫うそれは、夢中にも似て。
境目を失い、ひとつと化す。
■終劇■
2007/09/30 了