小説 | ナノ




サファイアの愛と心臓


※「王子さまのキスの呪い」続き






「おはよう、名字さん」



教室のドアを開けたら目が合った幸村くんは、にっこり笑って私に告げた。教室がざわめくのも、私が微妙な居たたまれなさを感じるのもいつものことで「...幸村くん、おはよう」ぎこちなく笑って挨拶を返すので精一杯だ。こうして幸村くんが私に毎朝挨拶をしてくれるようになってからしばらく経つが、慣れない。全くもって慣れない。それは周りのクラスメイトも同様らしい。


初めて幸村くんと放課後の教室で二人きりで話したあの衝撃的な日の翌日から、幸村くんは私に堂々と挨拶をしてくるようになって、それを初めて目撃したクラスメイトから今の比ではないほどのざわめきが起こり、大半は以前想定した通り、私が幸村くんを脅していると思ったであろう。しかし実際脅されているのは私の方ではないかと思う。私を捕らえるそのまっすぐな瞳には、まさか無視なんてするわけないよね?と副音声がついている、ような気がしてならないのだ。脅されているといったら聞こえが悪いから言い直すと、まるでハンターに追い詰められたウサギ、もしくは蛇に睨まれたカエル、猫に弄ばれるネズミとも言える...どれもすこぶる聞こえが悪い。まあとにかく、あの日私の名前を呼び捨てで呼んだこととか、自分から逃げるのを許さないと言ったのがまるで夢だったのではないかと思うほどに幸村くんは私に副音声つきのにこやかな笑みを向ける。今日も余すことなくかっこいい...ではなくて、いや勿論幸村くんはどんな風に笑っていても存分にかっこいいのだが、それはひとまず置いといて、そんなわけで私はあれらの台詞たちがきっと夢の中の、もしくはずいぶん都合のよい妄想だったのではないかと思うのだ。


あの日、あれほどに頭を悩ませていた進路希望表に、立海大附属高校、と書くのを見届けた幸村くんはとても満足そうに笑っていた。これで一つ解決だな、と言って。進路という名の目下の私の最大の悩みは解決してしまったので、幸村くんには何やら他に悩みがあるのかもしれない。追及できるほどの勇気もないままその日私は帰路につくことになった。家まで送るよ、と夢のようなシチュエーションを笑顔で提示してくれた幸村くんの言葉を断わるなどという選択肢はなく、甘んじてそれを受け入れた私は、幸村くんが見えなくなるまでずっとその背中を見つめていた。その日のみならず、どういうわけか、幸村くんが部活のない日や私の帰宅が遅くなった日に幸村くんと帰るというスペシャルなイベントが次第に増えるようになってきた。そして今日、部屋に戻ってからまるで夢のようだった時間を思い返しながら、私はある一つの決意を静かに固めている。







「おはよう、幸村くん」



ドアを開けたらいつものように幸村くんと目が合ったので、跳ね回る心臓を精一杯押さえながら口を開く。いつもは幸村くんから挨拶してくれるところを、私から先に挨拶したのが意外だったのか、それとももっと他のことに驚いたのか、幸村くんがわずかに目を見開いて固まったように見えた。でも幸村くんの言葉を待つより先に、いつも一緒につるんでいる友人たちがこぞって駆け寄ってきたので、それが一瞬の出来事であったのかどうかは分からなかった。


「なまえ!どしたの!?その髪!」
「ちょっとイメチェン...変かな」
「いいじゃん!すごい似合ってるー!」


わいわい騒ぐ友人たちには概ね好評らしく、内心少しだけ胸を撫で下ろす。昨日までほぼ金髪に近かった明るい髪は、限りなく地毛に近い色に戻した。制服も着崩していたものをちょっとだけ直した。かつて私がイメチェンを果たした時と同じように決意を固めてしまったら、またしても居てもたってもいられなかったのだ。幸村くんが私に話しかけてくれるようになった以上、少なくとも幸村くんに迷惑のかかるような吹聴をされたくなくて、せめて地味めの見た目になれば目立つこともなくなるかもしれないと思い立って即座に実行した。以前にもイメチェンに挑んだことのある私にとって、髪を染め直したりスカートの丈を直したりするのはそれほど難しいものではなかったけれど、確実に前回と違う思いが私の中に渦巻いていたのをはっきりと感じてしまった。幸村くんは私を見てどう思うだろう、という期待にも似た滲むような思いを。


ちらりと幸村くんの方に視線を移す。こちらをじっと見つめる幸村くんとしっかり目が合ったけれど、いつも目が合うと微笑んでくれる優しい視線は僅かも緩むことなく、口許を固く結んだ幸村くんはすぐに私から目線を反らしてしまった。どうして。心の奥が一瞬にして冷える。話しかけてくる友人たちに応えながらも、私の心臓はずっときしんだままだった。


もしかしたら私の今度の一念発起はあえなく失敗に終わったのかもしれない。そういえばあの日も、変なイメチェンだって揶揄されたような気がする。結局、幸村くんが話しかけてくることはなくて、あっという間に放課後になってしまい私は肩を落としていた。あの日から、幸村くんが私に話しかけてくれない日なんて一日たりともなかったから。3年間、見ているだけでよかったはずなのに、今じゃ話しかけられなくなって落ち込んでいるなんて贅沢な悩みにも程がある。やっぱりおこがましかったんだ。あの日の幸村くんの言葉を真に受けて、ただその厚意に甘えて。勝手に何度目かわからない一念発起をして。幸村くんはまた、今回も幸村くんのことを考えすぎた結果の行動だって分かっているのかもしれない。いや、きっと見透かされてるに違いない。そもそも、ちゃんとはっきり告白されたわけでもないのに。ちょっと話すようになったからって、好きだと知っているのに距離をとらず話しかけてくれたからって。調子に乗っている私に呆れているに違いない。あの時みたいに笑われたほうがまだマシだった。恥ずかしい。恥ずかしすぎて泣けてくる。





「なまえちゃん、いま帰りー?」


下駄箱で靴を履き替えていたら、隣のクラスの男の子に話しかけられた。友達を交えて何度か話をしたことがある程度だけど、ちゃらちゃらした軽めの雰囲気が正直苦手だった。...まあ自分も昨日まではいわゆるギャルのような分類にカテゴライズされていたであろうので、人のことは言えないけど、それでも遊び人でいい噂の聞かないこの人とは、できるだけ距離をとろうとしてきたというのに。


「うわ、めっちゃ雰囲気変わってね?」
「うん...」
「へぇー、いいじゃん」


清楚系?ウケるわー、と軽く笑いながら肩に手を回して顔を覗き込まれる。こっちは今の今まで感傷に浸って泣きそうになってたっていうのに、いったい全体何がウケるというのか。それに私は幸村くんのことを考えるので忙しいんだから、さっさとどこかに行ってほしい。じろじろ見られるのが居たたまれなくて身体をよじってみたけれど、肩に置かれた手が緩む兆しが一向にない。


「ちょっと、離してよ」
「なんで?いーじゃん。俺、前からなまえちゃんのこと可愛いと思ってたんだよねー」


彼氏欲しいからイメチェンしたんでしょ?俺と付き合おうよ、とあまりにも軽すぎる台詞を耳元で囁かれ、全身に悪寒が走る。冗談じゃない。さっきから振りほどこうとしているのに手首を捕まれてしまって一向に振りほどけない。なんてことだ。これがイメチェンの効果とでもいうのだろうか?だとしたら、あの一念発起はやっぱり失敗だ。こんなことになるなら、幸村くんと話せなくなって、代わりにこんな男に捕まってしまうなら、最初から足掻こうとしなければよかった。ちょっとでも幸村くんに釣り合う女の子になりたいだなんて、浅はかな思いを抱かなければよかった。自然と涙がこみ上げてきて、離して、ともう一度言おうと口を開いた時だった。








「何してるのかな」




私たち以外誰もいないはずの下駄箱に、聞き慣れた、でもいつもよりもずいぶん温度の低い声が響く。それが幸村くんの声だなんて振り向かなくてもわかったけど、その声の威圧感となんとなく感じる気まずさに耐えかねて、振り向くことはできなかった。男も幸村くんのただならぬ雰囲気に圧されたのか、短く幸村くんの名前を呟いた。


「聞こえなかった?何してるのって聞いてるんだよ」
「な、何って...関係ねーだろ」
「関係あるよ。彼女は俺と帰る約束をしてるんだ」


つかつかとこちらに歩み寄ってきた幸村くんは、私の手首を掴んでいた男の腕を無遠慮にがしりと掴むと、「だから離せよ、早く」3年間で一度も聞いたこともないくらい冷たくて低い声で言い放つ。あっけなく解放された手首を今度は幸村くんに掴まれて、「待たせたね、帰ろうか」そのまま有無を言わさず強く引かれ、つんのめりそうになりながらも慌てて幸村くんの背中を追った。彼は何も話さないまま、ただ私の手首を引いている。私は幸村くんを見上げなかったし、彼も一度もこちらを振り返らないから、どんな表情をしているかは分からなかった。でも、手首を掴むその強さが、初めて感じた温度が、見慣れすぎたその背中が、幸村くんという存在の全てが。私のいまの脆弱すぎる心臓と緩んだ涙腺をどうしようもなく刺激して、ますます視界がぼやけていく。まるでヒーローみたいにかっこよかった。こんなんじゃまた私は彼を好きになってしまう。朝から私と一言も口を利いていない幸村くんが、一緒に帰る約束をしているなどという嘘までついてあの危機から救ってくれた礼だけは何としても伝えなくてはならないと口を開いたのと、幸村くんが足を止めて振り返ったのは同時だった。振り向いた幸村くんは、見たこともない表情をしていて、息が止まりそうになる。


「ゆ、幸村く...」
「名字、隙がありすぎるよ。俺が来なかったらどうするつもりだったの?」
「え、ご、ごめんなさい」
「...ただでさえ火消しが大変なんだ、これ以上余計な火種を作らないでくれ」


幸村くんが矢継ぎ早に言い放つ。朝いちばんに挨拶をするとき、帰り道で他愛もないことを話すとき、また明日って手を振ってくれるとき。いつだって幸村くんは私に柔らかくて眩しい笑顔を向けてくれていたのに、その面影はどこにもなかった。幸村くんがため息と共に呟いた言葉の意味は正直よくわからなかったけど、やっぱり怒っている。怒らせてしまったんだ。ごめんなさいと何度呟いても、謝らないでくれと告げられてしまう。じゃあ私は一体どうしたらいいんだ。これ以上幸村くんに迷惑をかけないようにするには、一体どうすれば。



「...ごめん、怒ってるわけじゃないんだ」


いつもと違う、幸村くんの憔悴したような声がして、はっと顔を上げてみたら今度はとても傷ついたような顔をして私を見つめていた。なんで幸村くんが謝るんだろう。そんな顔してほしくなんかないのに、その元凶は間違いなく私なんだからどうしようもない。どうしようもなくて、どうしたらいいかももうわからない。もうたった一つしか、解決法がわからない。私はまた懲りもせず、焦った心で導きだした決意を告げるべく幸村くんの目を見つめ返す。どうか涙が出ないように祈るので精一杯だった。


「幸村くん。あの、安心して。もう私、今度こそ本当に、幸村くんに近づかないようにするから」
「...」
「もう幸村くんに迷惑かけないし、困らせるようなことも怒らせることもしない。...好き、なのも、そのうちやめるように頑張る、だから、」
「それ、名字の悪い癖だよ」
「えっ、」
「俺がいつ迷惑だって言った?いつ名字が俺を困らせたの?そうやって、いつでも何でも俺のいないところで勝手に決めて、じたばたするのはもうやめてくれ」


...いや、じたばたしてるのは俺の方だね。と、幸村くんは苦しそうな笑顔をしてから私を見つめる。あの時みたいに、有無を言わせないその意志の強い瞳の中に今にも泣き出しそうな私を映して。






「なまえが好きなんだ」




だからどんな男も君に近づいてほしくないし、君を可愛いって思うのも、隣で笑ってるのも、触れるのも、今までもこれから先も俺だけでいい。俺のためにイメチェンしようとするのも、おかしな方向に努力しようとしてるのも、全部が可愛くてたまらないんだよ。こんなことならもっと早く、あの時ちゃんと言えばよかったね。



まるでそれは夢物語の王子様が塔から救いだしたお姫様に告げるそれに似ていた。幸村くんが、私を好き?あの日、そんな夢みたいな出来事があったら幸せなのにって、でも勘違いしないように必死で、じたばたして。だけどこんな究極の告白を聞いてしまったら、ずるい。あんなにああでもないこうでもないと頭を抱えた今までのすべてのことが一瞬にしてどうでもよくなってしまう。「なまえ、好きだよ」確かめるようにもう一度、幸村くんが私の目を覗き込んで言うから、ずっと我慢していた涙をうっかり一粒だけ溢してしまった。


「それでもなまえは、俺から離れたいって思う?」
「お、思わない...」
「よかった」


あの時みたいに意地悪な台詞じゃなく、心底安心したように幸村くんが言って笑いながら、私の頬に溢れてしまった涙をぬぐった。私の大好きな笑顔で。


「幸村くん」
「なんだい?」
「私、幸村くんが好き。大好き」 


しってるよ、と幸村くんがまた嬉しそうに笑って、そのまま私の手をそっと握って歩き出す。まるで私がそうしてほしいのが分かっていたみたいに。分かるよ、だってずっと見てきたんだから、と、あの時言われた台詞が頭のなかを巡っていった。すべてお見通しの幸村くんには、私の心臓がこれ以上ないくらいにきゅんと絞られていることとか、繋がれた手の優しさにまた泣き出してしまいそうだとか、本当に幸村くんが大好きなんだって世界中に叫びたくなるような気持ちとか、全部全部伝わってしまってるだろう。そんな溢れそうになる思いを精一杯押し込めながら、そういえば火消しって何のこと、と尋ねてみたけれど、内緒だよ。とだけ言われて微笑まれてしまった。幸村くんの笑顔にすこぶる弱い私は、それだけでまあ幸村くんがそう言うならいいか、とあまりにもあっけなく懐柔されているような気持ちになってしまうくらい単純に、幸村くんに恋をしている。だからお願い、幸村くん。これからもずっと、私の隣で笑っていてね。







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