小説 | ナノ




果てでぼくは





『海が見たいな』




深夜に震えたスマホに寝ぼけ眼を凝らしてみれば、簡単な一文だけがそこに乗せられていた。今何時だと思ってんだ、と文句のひとつも言ってやろうとしたけれど眠気に負けて画面を伏せようとした刹那もう一度小さく震えた画面を見て、俺は二度寝をあきらめた。



『待ってるね』




そのたった5文字だけで深夜の街に車を走らせる俺をバカだと誰か笑ってほしい。












「いま何時だと思ってんスか」
「夜の2時」
「俺寝てたんスけど。今日撮影延びてくたくたなんスけど」
「でも、来てくれたよね」


なまえさんは、コンビニで買ったラテを片手にあははと笑う。半分開いた窓から入る涼しい風がその漆黒の髪を揺らした。そんな風に言われたら。…まあそうですけど、とか、口ごもる他に手段がない。ほんとうにこの人は、よく言えば奔放で、悪く言えば小悪魔みたいなひとだ。


「どうしたんスか」
「うん?」
「何かあったんじゃないんスか」


急に海が見たいだなんて。そう言ったらなまえさんはちらりと俺に視線を寄越した、ような気がした。ETCのゲートが開いて、俺は勢いよくアクセルを踏み込む。深夜の高速道路には、運送屋の兄ちゃんのトラックくらいしか走らない。


「別になにもないけど」
「はあッ?」
「ただ、退屈だったから。明日非番だし」
「俺を暇つぶしの相手に使わないでくださいよ」
「あはは」


なまえさんが笑う。その声が風の音にかき消されてしまわぬように、俺は窓を閉めた。


「もー、なまえさんくらいっスよ。この俺を深夜に呼びつけて車走らせられんの!」
「でも来てくれたよね」
「はあ、まあそうっスけど…ってこのやりとりさっきもした!」
「涼太は、やさしいよね」


そういったなまえさんはどんな表情をしていたとか、そんなの見なくたってわかってる。やさしいよね、の言葉に秘められたほんとの感情なんて、とっくに知っている。

だってそうじゃなかったら、俺はとっくにその感情に付け込んでる。そうじゃなかったら、なまえさんの荒唐無稽なお願いになんか付き合ったりしない。そうじゃなかったら、俺はいまごろ、このひとと二人でのんきにドライブなんかしてない。



「…そんなことないと思うけど」
「そうだよ、涼太は、優しいよ」
「だから、それは、」
「私は、きっと、傷つきたいのかな」
「え?」
「愛されたいの。でも、無理なの。だから、傷つきたいの」



運転してるのが俺でよかった。なまえさんの横顔を見なくて済んだから。




「何もないのが一番つらい」












黒い世界を抜けていく。いつだったかなまえさんは、昼より夜が好きだと言っていたけど、その言葉が今ならわかる。世界に昼の似合う人間と夜が似合う人間がいるとしたらこのひとは間違いなく後者の部類に入るだろう。


「静かだね」
「まあ、夜っスから…あ、なんか掛けます?曲とか」
「ううん、いい」
「SAありますけど、腹減ってないっスか?」
「大丈夫」
「そうッスか」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あの、」


沈黙に耐えかねて声を漏らしたのは俺のほうだった。俺はもともと沈黙とかが得意じゃない。
シーンてなる瞬間がどうにも苦手で、何かしゃべってなきゃって思ってしまう。から、勝手に動く、口。


「なに?」
「えーと、あー、さっきの」
「さっきの?」
「傷つきたい、って。どういう意味?」


話題に困って蒸し返したのはよくない判断だったと口が滑ってから理解するも遅し。その言葉の真意が気になったのは事実だけど、わざわざ蒸し返す話題でもなかったような気がする。だってなまえさんは、自分のことを多く俺には話さない。話したがらない、のかもしれないけれど。


「そのまんまの意味」


追い越し車線に車はない。対向車線の車もない。真っ暗闇に灯るわずかなライトがぽつりぽつりと行く先をオレンジ色に照らしている。


「無視されるのはいやってこと」
「はあ」
「だったら傷つけられたほうが、ましってこと」
「…なまえさん、Mなの?」


俺にはよくわかんね。だって傷つけられるのは誰だってイヤでしょ?そう言うとなまえさんがちょっと笑ったのがわかった。バカにするようなそれでも、自分を守ろうとあがくそれでもなく、空気が自然に動いたような、昔から俺が見てきたなまえさん特有の笑い方だった。


「そうかもね」
「…俺いまとんでもないカミングアウトを聞いてるんじゃ…」
「私は、選ばれないの」



いつでも、そうなの。



静かに、静かに。暗闇に解けるように乗せた言葉は俺の意識を持っていったけど、わずかに残った理性がなまえさんのほうに振り返らせるのを留めた。視界の端には漆黒の髪の毛。



「なにもないくらいなら、傷つけてくれればいいのにって、思わない?」



なまえさんの声がわずかに震えたけれど、俺はいまだ前を見据えたままだった。だってわかってしまったから。いや、本当はずっと前からわかっていた。このひとは、寂しいんだって。探してるんだ、自分だけを一番に愛してくれるひとを。本当は人一倍寂しがりやなくせに、それを上手に隠して、他人と距離をとるのが上手くて、自分の奥まで踏み込ませない所業を厭味なしにさらりと自然にやってのけて。気が利いて、風のように現れては去っていき、来る者拒まず去るもの追わずなこのひとが。愛して、傷つけて、関わってくれる、自分以外のひとを探してるって。



「なまえさん、」



ハンドルを握る手がきつくなる。俺はいつでもこのひとの横顔を見てきた。その気丈に振舞う横顔だけを見てきた。今は振り向かない。振り向けやしない。だって振り返っても、なまえさんは俺のほうを見てくれることは、ないから。俺の前でなまえさんはいつだって前だけを見据えて笑っている。


俺だったらいいのになぁ、と。思う。俺を選んでくれないかなぁと、一週間に一度くらいは願ったりもする。いや、もっとだ。俺がちゃんと君の目を見つめてすきだと言ったら、きみはどうするんだろう。俺に愛されてみたいと、一瞬でも願ってくれるのかな。






「泣かないで」





アクセルを踏み込んだまま車は漆黒の闇を走る。君の悲しみも、むなしさも、さびしさも、俺ももどかしさも、切なさも、全部ぜんぶ乗せたまま。俺だって、なんにもないのはもう嫌だよ。海に着いたらきみがすきだと言ってみようか。夜の海での告白なんてなかなかロマンチックじゃないか。そしたらなまえさんだって、黒い波に引かれるように、一種の気の迷いみたいに、うんってうなずいてくれるかもしれない。






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