小説 | ナノ




愚者の哲学



昔転校してしまった幼なじみと、再び遭遇する確率って何パーセントなんだろう。


目が合った瞬間に、まさか。と思った。いや、多分おそらく気のせいだろうと思いたかったのに、そんな私の願いは無惨にも打ち砕かれる。目が合ったと認識してから0コンマ5秒も経たないうちに、ぐるりと背中を向けて雑踏の中に紛れ込んだ。まるで嘘がばれてしまった子どものように、心臓の音だけがやたらうるさく鳴っていた。もう二度と会わないだろうと思っていた彼、柳蓮二がそこにいた。


柳蓮二とは幼なじみだった。彼は小学校五年生のときに何も言わずに引っ越してしまって、それから音信不通になったのだ。私の家は蓮二の家の三件となりで、一緒に帰ったり蓮二の通うテニスクラブに顔を出したり、よく一緒に公園に遊びに行ったりしていた。そこそこ仲がよかったと思っていただけに、ある日突然引っ越したと聞いたときは、一日中部屋に篭りきってごはんも食べずに泣いていた記憶がある。


中学に上がるとき、親の転勤で神奈川に引っ越すことになって、立海大附属中学校に通うことになった。しばらくして、テニス部に怪物みたいなスーパー新入生たちが入部したらしいとの噂を聞いて、野次馬よろしくテニス部を覗いてみたら、一人の男の子と目が合って、そして冒頭に戻る。まさかまさかの柳蓮二である。自分が目にしたものが信じられず、悩みに悩んだ挙げ句、とりあえず一旦記憶から消してなにもなかったことにした。幸いにも柳蓮二(仮)とはクラスも委員会も被っておらず接点がなくて、立海がマンモス校であることも幸を奏し、ひっそりと暮らしていれば彼と接触する機会もなく、早いもので気がつけば三年生になっていた。このままいけば、柳蓮二(仮)とは一言も言葉を交わさないまま卒業式を迎えるだろうと思っていた。








「名字」



そう思っていたのに、それは突然の出来事だったから、正直何の心の準備もできていなかった。放課後、職員室に用事があって、退室しドアを閉めて振り返った瞬間に声を掛けられ、逃げる隙もなければ身を隠すような場所もなく、聞こえなかったふりをするような暇もなかった。そう、あまりにも突然だったのだ。


「や、柳くん?」
「急に呼び止めてすまない。今、少し話す時間をもらえるか?」
「......えーっと、あの、ちょっと用事があって、すぐ帰らなきゃいけなくて」
「相変わらずだな」
「えっ」
「嘘をつくとき、必ず左斜め上を見る」


思わず動きを止めてしまった私を見て、彼はふと口元を緩ませた。その表情こそ昔と変わっていなくて、一瞬小学生だったころの彼を彷彿とさせた。あっけなく嘘だとばれてしまった私にもはや拒否権などはなく、観念して頷くと、促されるままに人影のなさそうな場所まで彼の後に続いて移動する。少し前を歩く、数年前よりだいぶ広くなった背中を見つめながら、ドクンドクン、と、まるで身体中が心臓になったかのように波打っていた。


「すまなかった」
「え?」
「あの日、何も言わずに姿を消したこと。ずっと申し訳ないと思っていた。いつかまた再び会ったら、謝らなければならないと」
「......いや、そんな...別に謝られるようなことじゃないし、」


しばらく歩いてからおもむろに足を止めた彼は、私に向き直ると軽く頭を下げた。紡がれた言葉もやはり唐突すぎてどうしたらよいのか分からずしどろもどろになる。でも目の前にいるのは、やっぱり本物の柳蓮二だった。そんなことは、とっくに分かっていたけれど、彼とこうしてちゃんと向き合いながら会話していることが、何だかとても不思議でならなかった。少しだけ落ちた沈黙が気まずくて、取り繕うようにあわてて口を開く。


「や、柳くんは、ずいぶん変わったね。その...雰囲気がというか何というか」
「そうか?」
「うん...」
「名字は変わらないな。昔と」
「そ、そうかな」
「ああ。一目見かけてすぐに分かった」


きっと一瞬目が合ったあの時のことだ。それならなぜあのときに声をかけてくれなかったの、と思うのはきっとお門違いだろう。だって私も彼のことを無視しようとしていたんだから。でも今の彼の言葉で、あのときやっぱり、絶対に目が合ったのだと確信してしまった。そして彼もそれを認識していながら、気づかなかったふりをしていたことに。それなら、どうして、


「何故今になって、と思っているだろう」
「えっ、」
「本当に分かりやすいな、名字は」
「......まあ、思っていないって言ったら嘘になるけど」
「このまま、声をかけずにいたほうがよかったか?」
「そんなこと......」


思ってない。思ってないはずなのに、真っ直ぐ彼の目を見ることができなくて俯いた。これじゃあまるで、はいその通りですと言っているみたいだ。それでなくてもきっと彼には私の考えていることなど、とっくにお見通しだろう。昔からいつもそうだった。私が何も言わなくたってすべてお見通しで、それが私のことを分かってくれているような気がして、とても心地よかったのだ。蓮二、なまえ、と呼び合っていたころが懐かしい。もう二度とそんな日は来ないかもしれないけれど。何も言わない私を見て、柳くんはふっと小さく息を吐き出した。


「引っ越しのことを告げられなかったのには、理由がある」
「...理由?」
「泣くだろうと思ったから」
「え?」
「名字に泣かれるのは、昔から弱い」
「柳くん、」
「でも同じくらい、名字に他人のような顔をされるのが、もう耐え難かった」


幼いころからずっと一緒にいたのに、そんな顔をする彼を初めて見た。思わず小さく息を飲んでしまいそうになる。私はずっと、怒っていたんだろうか?何も言わずに去っていったあのころの彼に?再会しても知らぬふりをしていたことに?ずっと、自分でもよくわからないままの気持ちがモヤモヤといつまでもまとわりつくようだった。でも今、彼の言葉を聞いてそのモヤモヤの正体がようやく分かったような気がする。たぶんどの瞬間も私は、寂しかったんだ。寂しかったし、悲しかった。あんなに一緒にいたのに、彼にとって私はその程度の存在なんだと言われているようで、ずっと悲しかった。


「柳くん」
「ん?」
「昔転校していった幼なじみと、また仲良くなれる確率って何パーセントだと思う?」


柳くんは問いかけには答えずに、眉を下げてただ穏やかに微笑んだ。やっぱり私には、柳くんの考えていることなんて、昔からこれっぽっちもわからない。わからないから、その笑顔がまるで、ようやく罪を許された子どもみたいだと思ったのは私の思い違いかもしれないけれど。記憶の遠くのほうに今でもずっと残っている幼なじみだったころの彼が、いつも私に向けてくれていた柔らかな笑顔を、手繰り寄せるように思い出そうとしていた。







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -