小説 | ナノ




ワンルーム・エデン






音もなく雨の降る夕方のことだった。就業時間が終わってすぐ、ぽつぽつと街灯が灯る道を家に向かって歩いていた。その日はとにかく肌寒くて、冷えきってしまった身体をはやく暖めたいと思いながら足早にマンションの角を曲がった。ビニール傘の向こう側でなにかがごそりと動いたことに気がついたのは、身体全体に鈍い衝撃を受けた後だった。


「あっ、ごめんなさい」
「......いえ、こちらこそ。すみません」


ぶつかってきたのは若い男の子だった。どこかの学校指定の茶色いブレザーがびしょ濡れで濃く変色している。明るめの髪の毛からわずかに覗くうつむいた目元がどこかつめたかった。ポタポタと垂れる雫を払おうともせず、少年はそのまま私に軽く頭を下げて背中を向けようとする。まるで捨て猫を思わせるその華奢な肩を見て、気づけば彼の腕をつかんでいた。


「待って。きみ、傘ないの?」
「......」
「よかったらこれ使って」


うち、もうそこだから。そう言って持っていた傘を差し出したら、彼はゆるりと視線を上げて傘を見上げてから、すぐに視線をずらしてこちらを見た。涼しげな目元がわずかに街灯の光を反射している。射抜くようにつめたい切れ長の瞳が私を捉えたので、どきりと思わず心臓が鳴る。


「結構です」
「遠慮しないで、返さなくていいから。ビニール傘だし」
「ですから、本当に...っくしゅ、」
「ほら。風邪ひいちゃうよ」


少年の体がぶるりと震えたのを見逃すことができず、だめ押しとばかりにもう一度傘をずいっと差し出したら、根負けしたのか少年がはあと深くため息をついて傘の柄に手を伸ばす。わずかに触れた指先があまりに冷たくて、びくりと指が跳ねてしまった。一体この子は、何時間雨に打たれていたのだろう。


「つめた...!ねえきみ、おうち遠いの?本当に風邪引くよ」
「...あなたには関係ないでしょう」
「わかった、訳ありってことね。...じゃあちょっとついてきて」
「は?ちょっと、」


私は少年の手首をひっつかむと、そのまま自宅に向かって歩き始めた。指先どころかその手首まで冷えきっていたので、思わず身震いしてしまう。放っておけばいいのにそれができなかったのは、さっき覗き見えた少年の瞳が、まるで泣いているように思えたからかもしれない。










「適当に座って。散らかってるけど」


そこから歩いて数分のマンションの自宅に着くまで、少年は一言も言葉を発しようとしなかった。入って、と促したときに一瞬たじろぐような仕草を見せたけれど、半ば強引に中に引きずり込んだので、色々と諦めたのかまた黙り込んでしまった。そのまますぐにお風呂にお湯を張って、バスタオルを押しつけて、有無を言わさず風呂場に押し込む。適当なジャージを引っ張り出して、彼が風呂場にいる間を見計らって脱衣場に置いた。しばらくしてリビングのドアを開けて現れた彼は、ずいぶん居心地が悪そうだった。


「きみ、まさか家出とかじゃないよね?」
「違いますよ」
「そっか。今さらだけど、私別に怪しいもんじゃないから。制服が乾くまで雨宿りしていきなよ」
「強引に連れてきておいてよく言えますね」
「はは、確かに」


少し窮屈そうなジャージを着た少年は、部屋の真ん中にあるクッションにちょこんと座る。どうぞと差し出した熱めの緑茶の入った湯飲みをしばらくじっと見つめていたけれど、いただきます、と小さく呟いてから口をつけた。雨に打たれていたときは分からなかったけれど、ずいぶん端正な顔つきをしている。きちんとした丁寧な仕草に育ちのよさがにじみ出ていた。


「!あち...」
「あ、ごめん。もしかして猫舌だった?」
「...いえ、別に」
「なんか本当に猫みたいだね、きみ。高校生何年生?」
「中学二年です」
「えっ」


思わず固まってしまった私を尻目に、少年は茶をすすっている。ちゅうがくせい。せいぜい高校一年くらいかと思っていたのに。中学生がこんな時間に雨に濡れて何をしていたんだろう。もしかしてこれはれっきとした犯罪になるのでは?誘拐?いや監禁?今さらそんな不穏なワードを思い浮かべて顔面蒼白になる私を見て、少年は鼻で笑うように言った。


「なんですか、今さら」
「えー...まあ、確かに今さらではあるけど... 」
「制服が乾いたらすぐに帰りますよ」


風呂、ありがとうございました。少年のさっきの言葉通り、無理やり引っ張ってこられたにも関わらず私に向かってぺこりと律儀に頭を下げる姿を見て、やはりどこかのお坊ちゃんなのかもしれないな、なんて呑気に思った。中学生だと分かったら、その姿が年の離れた弟にだんだん重なって見えてきた。


「そのままじゃ風邪ひくから、こっち来て」
「は?」
「髪の毛。乾かしてあげる」
「いや、自分でやりますから」
「いいからいいから」
「......」


少年はしばらく抵抗していたけれど、もう何を言っても無駄だと思ったのか、黙って私のなすがままにされていた。洗面所から持ってきたドライヤーをセットして、少年のすぐ後ろに座る。ふわり、といつも自分が使っているシャンプーの香りがした。さらさらと指通りの良い髪の毛が指先を滑っていく。


「...アンタって、......」
「んー?なに?」
「何でもないです」


ぽつりと少年が何か言ったようだったけれど、ドライヤーの音にかき消されてしまって聞こえなかった。彼はそのままじっと私に身を委ねている。その姿はやっぱり猫みたいだな、と思ったら少し笑えた。


「はい完成」
「...ありがとうございます」
「うわー、すっごい不本意そう」
「当たり前でしょう。誰が頼んだんですか、こんなこと」
「そのわりに大人しくしてなかった?」


さらり、と彼の目元にかかる髪の毛をよけたらまつげが揺れた。そのままゆっくりまぶたが押し上げられて視線が合って、さっき雨の中で見たあの涼しげでつめたい瞳が私を捉える。


「本当に物好きですね」
「まあ。猫派なんだよね、私」
「何ですか、それ」


ふ、とずっと引き結んでいた口元を緩ませて少年が言った。なんだ、ちゃんと笑えるじゃん。ほんの一瞬浮かべたその笑顔は、さっきよりもずっと年相応に見えた。


「きみ、名前なんていうの?」
「聞いてどうするんですか」
「うーん。出会いの記念に?」


意味が分からないとでも言いたげにあからさまに眉をひそめていたけれど、「...日吉です」しばらくの沈黙のあとに告げた少年、もとい日吉くんはやっぱり律儀だと思う。部屋の時計にちらりと視線をやって、そろそろ帰ります、と言って腰を上げた彼にまだ少しだけ湿っている制服を差し出し、代わりにバスタオルを受け取る。脱衣場で制服に着替えた日吉くんは、さっきの高校生みたいな大人びた表情に戻っていた。玄関のドアを開けたらもう外は暗かったけれど、雨はすっかり止んでいた。


「駅までの道わかる?送ろうか?」
「大丈夫です」


きれいなローファーを丁寧に履いて、ありがとうございましたともう一度言って軽く頭を下げる。さらりと流れる髪の毛をもう一度触りたいとぼんやり思って手を伸ばしかけたけれど、やめておいた。頭を上げた日吉くんの瞳が私を見る。涼やかで、つめたくて、でもどこか宝石みたいにきらきらと小さな煌めきを秘めたような瞳。




「日吉くん」
「何ですか」
「また、いつでもおいで」



もう来ませんよ。ドアノブに手をかけながら顔だけこちらを振り向いて言った彼は、またほんの少し笑っていて、そんな風にずっと笑ってたらいいのにな、なんて、日吉くんに知られたらまた呆れられそうなお節介なことを思って笑った。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -