お久しぶりです、左上さま。またお話できて、本当に嬉しいです。
「心のなかがもやもやして、どうすればいいのか、自分がいまどこにいるのか、わからなくなってしまったとき、ふと正午さまのサイトを訪ねることがしばしばあります……」とのお言葉、恐縮ですが、もしも私のこのサイトが左上さまのなかで微力ながらも支えになれているのであれば、そうでなくとも、ふとしたときに思い出していただけるものなのであれば、私はこれ以上ない幸福なことだと思います。ありがとうございます。くどいようですが、そういっていただけることが、私が詩を書く意味になり、このサイトを残す意味になります。本当に、左上さまからのこうしたお手紙がなければ、たぶん私はもうこのサイトからは離れていたことと思います。そのくらい私にとって(また、このサイトにとって)左上さまの存在は大きなものです。(大仰に聞こえて押しつけがましく思われたらすみません。不愉快になられたらお詫び申し上げます)
 また、詩のみならず、小説のほうも読んでいただき感謝します。実はこの小説のほう、一度削除して書き直そうと考えていたところでした……ので、せっかく読んでいただきましたのになんだか申しわけないです。書き直したあかつきにはまたリンクを繋ぐと思いますので、もしよろしければお暇な際にでもまた読んでいただけたらさいわいです。このように未熟な小説にも感想をくださり本当にありがとうございます。嬉し恥ずかしいとともに、読んでくださるかたがいるからには、精進したいと思いました。
 写真についてですが、はい、おっしゃる通り私は海月が好きです。そもそも海中生物が好きで、あの写真は今年の春に海遊館にいったときのものです。海のいきものは神秘的かつ生々しく、まさにいのちを凝縮したようないきものが多いと勝手に感じています。ただ奇麗なばかりではないところや、動物のように生きて動いているというのに、どうしようもなく無機物的な無感動ないきものにも見え、それが私たちとは圧倒的な違いであり、不可思議で、どこか神聖で、いのちというものを純粋に体現しているようで、とても魅力的に見えます。左上さまも海月がお好きなんですね。あれ、もしかすると私と左上さまには共通点が多いのでしょうか……だったら、すごく嬉しいです。私はリアルではなかなか自分と趣味嗜好や価値観の合う人(あるいはそういうものが合わずとも、会話のなかで共有できる人)がいないので、こうして左上さまとお話していると、楽しいです。本当に出会えてよかったと、近頃とくに感じています……(重く感じられたらすみません)
 話がそれてしまいましたが、写真自体は実に拙いものなので、こうして誰でも閲覧できてしまう場所に公開するには未熟すぎるとは思いつつも、左上さまのように好きだといってくださるかたがいるので公開してよかったと思います。
 共感と理解、血縁のお話ですが。私がお話させてもらったものは、私がただ、なかなか他人と馴染めず、現在進行形で周囲との価値観の甚だしい相違が生じていることや、大きな枠で見れば世間や社会というものからの逸脱、そういった人間でして、一般的に解釈される理解や共感から遠かっただけというのも理由の一つにあるかと思います。自分でいうのもおかしな話ですが、私自身はどちらかというとひねくれたところがあって、一般論や常識というものになかなか沿えない人間です。考え方一つにしてもそうで、だからいつも他人とささやかな「共感」「理解」すら共有できず、そもそも自分には「共感」「理解」という感情の行為が欠落しているのではないか? と感じることがあるほどでした。ですが、これは私個人の問題であって、すべての人間にあてはまる理論ではないのは当然ですし、つまり各々にそれぞれのかたちで「共感」「理論」があり、各個人が「共感している」と感じた時点でそれは本当にその人にとっての「共感」だとしても間違いではないとも考えます。「Aさんの姉が亡くなり、Aさんが悲しんでいるのを見て僕も悲しくなり泣いた。僕はAさんにひどく共感した」とこの「僕」が思っているのであれば、Aさんとまったく同じ立場で悲しむことはできないとしても、これはたしかに共感足りうるとも思います。そして、おそらくこれはそれなりに世間共通の「共感」に対する考え方だと思います。
 そして血縁についてですが、「救いでもあるのかもしれない、と今ふと感じています。脈々と続くつながりが、自分を掬いあげてくれる」という左上さまのお話も、わかります。ある意味、自分以外のすべてを失ったとき、そして家族すら失ったとき、それでも血縁だけはたしかに残ります。つまり、そのとき自分を自分たらしめてくれるのは、その血縁という概念であり、目に見えないというのに人間の意識の根底に知らずに根づいた本能のような感覚、繋がりでもあると思います。血縁は消えないですから、「血縁」というもの自体がわずらわしくとも、「消えない」という事実が人を救うこともあると思います。そういった意味ではたしかに救いでもあるのでは……と。でも、血縁云々など語る必要も考える必要もなく、血縁のあるもの、つまり家族や親戚といったものを大切だと思える人は素敵でしょうね。救いなのか、呪いなのか、ということを考える必要などない人は、きっと素敵です。(私は考えてしまいます……)
 そうでしたか。左上さまは、二次創作をなされていたんですね。ここにこうして書き記すことを躊躇っているのですが(見ようと思えば誰でも見れるページですので)、もしも不都合がございましたらおっしゃってください、即刻削除いたします。
 実は、驚かれるかと思うのですが、私も二次創作、そのなかでも夢小説というものを書いています。昔は、いわゆるカップリング、NLやBLといったものも書いていたことがありました。
 いえいえ、私は二次創作自体にはとくに偏見のようなものはないので(書いているわけですし)、大丈夫です。むしろ、お話してくださり嬉しいです。おそらくとても勇気のいることだったと思います……!(私が書いていることを知らなければ、なおさら)
あの、不躾で申しわけないのですが……もしかすると、左上さまは、同じハンドルネームで二次創作サイトを運営なさってはおられませんか? 万一違っておりましたら、大変申しわけありません。ですが少し、心当たりがございまして……
 早朝と晩に、真昼の熱が引いて涼しさを覚えるようになりました。夜中には外から虫の音が聞こえ、道路にも蝉の死骸が落ちているのが目につきます。昼間はまだ暑いのですが、秋の気配が近づいてきているのをたしかに感じています。秋は、去年はあってないような曖昧なものでしたが、今年は果たしてやってくるのでしょうか。寂しい季節ですが、木々の色づきや、道端の落葉、枯れ木のにおいを感じさせる乾いた風や、途方もなく高い空が好きです。秋、今年は楽しめるといいなと一人で思っています。
 夏の終わりは、淋しさよりもいつも呆然としてしまいます。暑くつらい夏が終わるというのに、少なからず喪失を覚えているんですね。嫌いではないですが、純粋に好きとはいえない夏、重い感情を夏の熱が増幅させ高揚させるばかりの夏で、鬱屈とした感動を生じさせます、そのくせそれが不可解に癖になるような、困った夏です。
「まるで世界に一人きり取り残されたような、そうしてこのままのまれていってしまうような、そんな気が」する冬、私も感じます。夏は世界が私から遠のくような心地がするのですが、冬は私が世界から遠のくような……いえ、冬ごと私が世界から遠のくような心地がします。冬という季節に連れられたまま、私が世界から切り離されるような感じでしょうか。冬の静寂、凍え、灰色、体温、すべてが厳格で、ですが張り詰めた歪みのない冷たさゆえに私にとってはやさしくて、ただ好きです。永久凍土とともに、私も凍って時間から隔離されるのではないかと思わされます。本当にそうなったとき、やはりおそろしいのでしょうか? ありえない話ですが、私には無性に贅沢に思えてならないのです……
 左上さまのこの晩夏、そして続く秋、冬までもが、過酷でありながらも、かすかなきらめきを遺せるものであることを祈っています。どうぞご自愛ください。
 いつも本当にありがとうございます。また会えることを願っています。


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