口の中に溜まっていた唾を飲み込む音が、いやに大きく聞こえた気がした。
ヒカリやジュンと一緒でも、こんな洒落たレストランにはなかなか来ない。ランチタイムだからか、客席の大部分には人がいて少しばかり騒がしく感じる。ウエイトレスの綺麗な女性がすぐ脇を通りすぎて、向こうのテーブルに料理を出した。
このレストランに来るのは初めてだから、普段と比べて混んでいるかどうかはわからない。だが、普通のレストランと比べれば人が少し多かった。場所のせいかカップルや女性同士の客が多く、男同士で来店していることに若干気が引ける。
周囲からも何やら落ち着いた雰囲気を感じて、前に視線を向けた。すると、同じく冷めた目で遠くを見ていたデンジと目が合った。それからどうした、と柔らかく微笑まれる。それを見て顔に熱が集中するのを感じるあたり、よほどデンジにほだされてしまっているに違いない。
「……よかったんですか?」
「何が」
「ぼくと……その、こんなおしゃれなレストラン来ちゃって」
それから先はどうにも卑屈すぎるように思えて、コウキは口をつぐんだ。
デンジは、コウキの贔屓目もあるがそれなりに見た目が整っている。ラフな格好をしているが、このレストランの雰囲気にも馴染んで違和感がない。何の動作をするにも、どこか余裕があるようにすら思えた。
それに比べて、コウキは容姿には自信がない。そこまで際立って悪いとは思わないが、とりわけ良いわけでもない。いい言い方をしても悪い言い方をしても普通、だった。自分と同じような顔なら、その辺りに転がっているのではないかとすら思う。
だからこそ、見目が整っているほうのデンジと一緒にいると引け目を感じた。形式上、デンジとコウキは付き合っているということになっている。だが正直なところ、デンジならもう少しレベルの高い人間と付き合えただろうと思うことがないわけではない。
デンジと一緒にいても不釣り合いにならないよう、努力はしている。しかし、こんなときほど容姿の差を痛感する瞬間もない。生まれ持ったものばかりは、コウキにはどうすることもできなかった。
デンジはコウキの顔をしばらく黙って見ていた。それから笑って、コウキの頭を少し乱雑に撫でる。
「また変なこと気にしてるんだろ」
「そんなこと……」
「ホントそれ、お前の悪い癖だな。気にすんなっていつも言ってるだろ」
そう笑うデンジに、コウキもつられて笑う。
デンジがそうして気にするなと言うと、少しだけ気持ちが軽くなるようだった。これからもまったく気にしなくなるということはなだろうが、少しだけ前を向ける気がする。
「ありがとうございます。でも、ぼくはぼくがデンジさんと一緒にいて大丈夫かなって不安になりますけど……」
「けど?」
「ぼくはデンジさんの財布も心配だな、って」
「……お前、そういうとこは気にしとけ。オレはオレで結構見栄はってるんだからな!」
デンジが困ったように眉を寄せるのを見て、コウキは思わず吹き出してしまう。
いつもデンジは冷静でいるが、時折こうして子供っぽいところを見せるときがある。コウキはそれを見るたび、デンジとの距離が近くなるように感じた。いつも大人として振る舞う、デンジの違った一面を見れることがとても嬉しい。
デンジはそれをじと目で見ながら、テーブル脇に備え付けられたメニューを取った。デンジはいつも、メニューを最初のページからは開かない。適当に開いただろうページを見、それからコウキに視線を上げる。
「コウキはどうするんだ」
瞬間、コウキは息を詰める。
ついに、この瞬間がやってきてしまった。普段ならこんな言葉は特に気にすることもない。しかしその一言も、今のコウキとっては重大な意味を持つ。
ヒカリが雑誌の切り抜きを持ってコウキの元を訪れたのは、ほんの数日前だった。
なぜだかそのときは、ヒカリがいやに目をぎらつかせていたのを覚えている。ヒカリは部屋にあがるなり、雑誌の切り抜きをコウキに見せてきた。
ヒカリが持ってきた雑誌の切り抜きの内容は、コウキにはうまく理解できるものではなかった。
どうやら最近は、オムライスを食べるときにひよこの心配をするのが流行っているらしい。愛らしい声と表情をして、ひよこにもなれずに食べられる卵の悲劇を嘆くのだ。そしてオムライスは頼まず、サラダだけを頼むとなおさら効果的らしかった。そしてそういう態度を見せると、男性はそれを可愛く感じてときめくものらしい。
コウキから見れば、その理屈はまったくもって理解できなかった。もしヒカリやジュンがそんなことをしても可愛いとは思えないし、誰がそんなことをしてもきっと可愛くはないだろう。それに、料理に使われる卵からはひよこは生まれないともどこかで聞いた。
しかしコウキが知らないだけで、世間の恋愛事情は進んでいるのかもしれない。そういう雑誌に載るということは、世間的な風潮がそちらに傾いているということなのだろう。そういう雑誌はいつでも流行の先端をいくものだとコウキは思っているし、皆そういうものを参考にしていた。コウキはそういったことにそこまで敏感ではないから、なおさら不安だった。自分はそう思わないだけで、もしかしたらデンジはそういうものが好きかもしれない。
デンジはクールなように見えて、時折コウキを可愛い、と言ってくるときがある。つまり、デンジは可愛いものは嫌いではないということだ。とどのつまり、デンジもその雑誌に載っていたようなことも好きかもしれない。
ヒカリはこう言っていた。誰かに愛されるためには、時に恥をかなぐり捨てることも必要である。
確かにそうだとコウキは思うし、今のようにデンジの優しさに甘えたままではいけないこともわかっている。デンジは優しいから、コウキが少しずつ変わって成長していくのを辛抱強く待ってくれていた。それに応えるためにも、恥をかなぐり捨てる瞬間は今しかない。
コウキはテーブルの下の手を強く握りしめた。
こんなことをするのは恥ずかしいし、男としてのプライドが邪魔をしそうになる。しかしこれでデンジが喜ぶなら、こんな小さなプライドなどどうということはない。雑誌の内容を必死に何度も思い出しながら、大きく深呼吸をする。今の自分は、このレストランにいるどんな女性よりも可愛いのだ。
コウキの様子に気づいて、デンジが不思議そうに顔をあげる。
「どうしたんだよ、ボーっとして。なんかあったのか?」
「え、いや、なんでもないです!」
コウキが慌てて首を横に振ると、デンジはふうんと言って納得したようだった。それを見、コウキは内心深いため息をつく。
ヒカリが言うには、これを言うとき下心を悟られてはいけないらしい。下心が透けて見える状態では、可愛く見えるものも見えなくなる。幸いデンジは気づかなかったようだが、この調子でいたら、いつ気づかれるかわかったものではない。
コウキは唇を噛み、意を決した。テーブル脇のもう一つのメニューを取り、適当に開く。
何やら様々なメニューが書かれているが、緊張してまったく頭に入ってこない。それよりも例の言葉をいつ切り出そうか、そのことばかりが頭をよぎった。あまり唐突すぎても、遅すぎてもいけない。計画を気取られない、絶妙なタイミングであの言葉をかけなければならないのだ。
少しページをめくり、適当なメニューにあたりをつける。そしてデンジを真っ直ぐに見、できるだけ自然になるように笑う。
「ぼく、海鮮サラダで」
「あとは」
「その……それだけで、いいです」
「は?」
デンジは目を丸くして呆けた声をあげた。予想していた反応だったが、それでもコウキは肩を震わせる。
「それだけって、どうして」
「え、っと……」
「別に遠慮とか気を使ったりとかすんなってさっき言っただろ。コウキ、カレーとか好きだって言ってなかったっけ?」
そう言われると返す言葉もなく、コウキは笑って言葉を濁す。今はカレーにではなく、オムライスに用事があるのだ。
デンジは、あまり自分の意見や考えを他人に押し付けるタイプではない。しかしコウキがいつまでも悩んでいると、見切りをつけて先に決めてしまうことがあった。もちろん最低限の範囲であるし、コウキも嫌な気はしなかったが、今回はそうなられては非常に困る。そうなってしまう前に自分で決めなければならない。
ただ、タイミングを誤れば不自然さを勘づかれてしまう。できるだけ自然に、かつ絶妙なタイミングで話を切り出さなければならなかった。
デンジはコウキの様子を見て何かを感じたのか、再びメニューに視線を落とす。そして何枚かページをめくってから、ある一点に目を留めた。
「コウキ、これは?」
「えっ」
「キノコのデミグラスソースオムライス」
瞬間、コウキの全身に衝撃が走った。
まさかデンジからその話題を持ってきてくれるとは思ってもみなかった。この流れに乗れば自然と、何の疑いもなく例の言葉を口にすることができる。例の言葉を出すのに最適な瞬間は、今をおいて他にない。
コウキは緊張で少しだけ汗ばんだ手でメニューを握りしめた。いざとなると心臓が早い鼓動を刻み始めて、落ち着きがなくなってくる。
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