「あー、と。大丈夫か?」
「はい。あの、ありがとうございます!」
さっきの剣幕は嘘みたいに消えて、見下ろしてくる影山くんの顔は困り顔だった。どうしてだろうと一瞬考え、自分のいる所が自販機への通り道であることをやっと思い出す。
「あ、自販機に用事だった?良かったら私、奢る!今のお礼」
「は?別に俺は何も……」
「助けてくれて、ありがとう!」
声がまだ震えている気がして、影山くんの顔が見られない。怖かった。掴まれた手首がまだ痛い。男の子ってあんなに力強いんだ。
そんな当たり前のことを、私は全く理解していなかった。誤魔化す様に摩った右手首は、赤くなっている気がする。こんなの早く消えて欲しい。
「えっと、牛乳?」
「ぐんぐんヨーグル……あー、えっと、みょうじ、さん、だっけ」
「はい。そうです」
「月島ってすげー性格悪いだろ」
「えっ?」
唐突に蛍くんの悪口を言い出した影山くんに驚いて、自販機のボタンを押してしまった。一体何が始まったのだろうと影山くんの顔を見ると、眉間の皺が深く刻まれている。
取り出し口からジュースを持ち上げた彼は、口を尖らせながら持論を展開した。
「嫌味だし、からかう時の声と顔が凶悪だし、ネチネチしてるし、身長高い割にひょろいし、ブロックの時は頼りになるけど」
最後の方は全然悪口じゃなくなっていて、小さく呟かれた「あのボゲェ」は誰に向けられているかも分からない。それでも影山くんの言いたいことは、まだこの先にある気がして口を挟まないことにした。
「怖く見えるとき……はあるかもしんねーけど。怖くはねぇよ」
「うん」
「さっきみたいなことはしないと思うし、月島は……」
「何やってんのさ、王様」
影山くんが何かを言い終わらない内に、後ろから声が聞こえてきて。聞き覚えのある声の方へ先に振り返った影山くんを見て、自然と肩が揺れた。
私もゆっくりと向き直る。予想通りそこには蛍くんがいた、けれど。声が聞こえていた時よりずっと近くに立っていることに驚いた。
「蛍くん?」
「何だよ!お前いつからいた!」
「はぁ?僕がいたら困る様なことがあるわけ?」
「んなこと言ってないだろうが!」
前から思っていたけれど、どうやら二人は顔合わせると喧嘩腰になってしまうらしい。さっきまで、影山くんはフォローをしてくれようとしていたように思うけど。
でも、今そんなことを言っても二人とも違うって否定する気がする。私は二人の間に立って、両方を見ていることしか出来なかった。
「大体何でなまえと一緒にいるのさ」
「ああ?言っとくけどさっきそこで会っただけだからな!」
「別に言い訳とか求めてないんだけど?」
「はあああ!?聞いてきただろうが!」
大袈裟に溜息を吐きながら横を向く蛍くんと、段々とヒートアップしていく影山くん。確かに、蛍くんの様子がおかしい。
わざと怒らせるような言い方の上に、なんだか一言前の言葉すら矛盾している。
「人の悪口は小声で言いなよ」
「ちがっ!お前こそ盗み聞きとか性格悪ぃんだよ、ボゲ!」
「王様は本当に、語彙力残念だよねぇ?」
私も似たようなことを言われたことがあるから、これがからかい半分で本気で言っている訳ではないのは分かる。分かるのに、何故か蛍くんの顔に苛立ちが見て取れた。
どうしよう。蛍くんが話を途中から聞いていたとしたら、誤解しているのかもしれない。
「えっと、蛍くん。影山くんは別に悪口なんて……」
「へぇ、なまえもコイツの肩持つんだ」
「あ!?」
「違うよ、あのね、影山くんはさっき助けてくれたから、お礼にジュース……」
「手首どうしたの?」
私が説明を終える前に蛍くんが指摘してきたことに、心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらい跳ねた。さっきのことを思い出して、無意識に握り締めていたらしい。
半袖の制服では隠すものもなく、焦っていると手を掴まれて蛍くんの肩くらいの高さまで持ち上げられた。じっと見てくるその目がどういう感情を浮かべているか知るのが怖い。
「おい、月島……」
「なにこれ?指の跡?」
「……い、」
「痛がってるんだからやめてやれよ!」
「なに?これ王様がやったの?」
「んな訳あるかっ!」
「ちが、違うよ!」
「ふーん……」
手を離してくれた蛍くんは、遠くを見ながら何かを考え込んでいるみたいで。しばらくの沈黙。その間も心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うくらい波打っていた。
否定すればよかったかもしれない。大したことじゃないって、言えば良かったかもしれない。何があったのか、聞かれて上手く説明出来るだろうか。
思い出すだけで怖くなるのに、口で正確に伝えられる自信が今はなかった。
「なまえ、保健室行く?」
「ううん。すぐ消えるよ」
「本人がいいっつってんだからいいだろ。もう俺は行く」
「あ……影山くん、本当にありが……」
「王様逃げるの?」
「誰が……っ!このボゲ!」
「それはいいからちゃんと説明してよ。なまえこんなだし」
蛍くんの言い様に肩が揺れてしまう。影山くんは眉毛を寄せて首を傾げる仕草をしたから、伝わらなかったのかもしれないけれど。
蛍くんは私を気遣って直接聞かないのだと思った。そんな事が嬉しい私の方がおかしい。影山くんまで巻き込んでしまったのに、これ以上迷惑をかけてしまうことになるのは申し訳ない。
「わ、私やっぱり保健室行くよ!他の人にも迷惑かけちゃうかもしれないし。すぐ消えると思うけど。い、一応隠した方がいいかもだし」
「ってか普通に痛いでしょ、ソレ」
「じゃあ俺が連れてく」
「はぁ?」
「え……?」
ナイス考え、みたいに目を丸くした影山くんに、蛍くんは露骨に嫌な顔をしたけど。聞き返しつつも、私は少しだけほっとしてしまった。
今、蛍くんと二人になってしまうのは息苦しい。どうしてだろう、悪いことをした訳じゃないのに。心の中で助けて欲しいって、願ってしまったからかな。
「お前顔怖い。みょうじさんがビビる」
「君と一緒にしないでくんない?つーかそんなに言うなら説明しろって……」
「か、影山くん。行こう」
「なまえ?」
「ごめん、蛍くん。保健室の先生に説明するのに影山くんがいてくれた方が、あの、いいと思って。お願い出来ますか?」
「おー……」
自分で提案してくれたのに、私の返しには驚いているみたいで。いつも蛍くんと喧嘩しているし、ちょっと怖い人だなぁと思っていただけに。
影山くんの印象が目まぐるしく変っていく。こんな面倒なことに巻き込んでしまって、お礼はぐんぐんヨーグル位では見合わないだろうなぁ。
心配かけてごめんねって言ったけれど、蛍くんからの返事はなかった。どんどん歩き出す影山くんに、小走りで追いつくのに必死で気にならないフリをする。
「あー……良かったの、か?」
「色々ごめんね。今度ちゃんとお礼するから」
「いやいい。それより月島に俺に八つ当たりすんなって言ってくれ」
今度は私が目を丸くする番だった。蛍くんは話を聞かないと納得してくれないとは思うけど、影山くんに八つ当たりとはどういうことだろう。賢い彼のことだから、影山くんが助けてくれたことは理解していると思う。
ハッキリしない私に苛立つことはあっても、影山くんに何かするってことはないんじゃないかな、多分。多分ね。
「大丈夫だよ。でも、蛍くんにはちゃんと言うね?」
「……。いや、やっぱいい」
「えっと、影山くんは助けてくれただけだって……」
「違う。もう俺の名前出すな。何かやべぇ気がする」
何故か前方を睨みながら手をわきわきと蠢かせる影山くんの挙動は、どういう意味なのかさっぱり理解出来なかったけれど。
やっぱりこれ以上は迷惑かけられないから、自分でちゃんと蛍くんと話をしなきゃいけないなぁということだけは分かったよ。
***続***