ある朝の一歩


 5月中旬と言っても朝はまだ肌寒い。歩きながら吐く息が冷たいのを感じて、思わず身を震わせた。

「うー……」
「はは。間抜けな声」
「つ、月島くん?」
「おはよう。珍しいね、みょうじさんがこの時間なんて」

 後ろを向いて顔を上げれば、口の端を上げる月島くん。耳につけているヘッドフォンを外してくれるのを見る限り、馬鹿にするためだけに声をかけてくれたのではないとは分かるけど。

「うん。今日は朝から手伝いしてたら時間に余裕が出来て」
「そう」
「月島くんも早いんだね!」
「部活の朝練があるからね」
「そうだったんだ……」

 ここ最近思うのは、私は月島くんのことを何も知らないんだなぁという事実。それは当たり前の事かもしれないけど、寂しいと思う自分もいて。
 変だな、こんなのこと。今まで思ったことなかったのに。

「すごいね、部活!私も今日の予習でもしようかな!」

 腕を振り上げて握り拳を作ったものの、月島くんにじーっと見られて居た堪れなくなってゆっくりと下ろした。
 うわぁ。何だか空回りしてしまったみたいで、すごく恥ずかしい!



「……ケータイ」
「へ!?」
「震えてるけど」
「わぁ!本当だ。ありがとう!」

 制服の上着に忍ばせていた携帯が、ブーっと音を立てて存在を主張していた。指を滑らせて確認すると、メッセージアプリが着信を知らせていた。

「あ……由梨音ちゃん、今日休みだ」
「……誰?」
「クラスの子だよ?」
「あ、そう?」
「……うん」

 私が貸していた雑誌を今日返してくれると約束していたから気にしていたみたいだけど、そんなのいつでもいいのに。
 そう思いながらお大事にねと弾く。月島くんがクラスの女の子を下の名前までバッチリ暗記している、なんて思ってはいない。
 もしかしたら、私の名前も知らないかもしれないし。うわ、知らない可能性が濃厚だ。

「何、変な顔して」
「え?」
「眉毛もだけど目が寄ってる。難しいこと考えてたんデショ」

 ポンポンと優しく頭を叩かれて、驚き過ぎて立ち止まってしまった。月島くんは立ち尽くした私に怪訝な顔をして、早く来いとばかりに顎をしゃくる。
 追いつくまで慌てて走ったせいか、息が上がった。運動不足かなぁ。

「で、何なわけ?」
「え……あ、うん……」
「僕には言えないようなこと?」

 そう言って、月島くんはにんまりしながら嬉しそうにした。絶対からかわれているって分かっているのに。
 面白い返しも納得してもらえるような答えも全然浮かばない。

 月島くんが私の名前を知らないかも、なんて。そんな深刻に考えるようなことでもないのにね。

「あ、のね。もしかしたら月島くんが……私の名前も知らないかもって思って。それだけ!」

 そうだよね。深刻になる必要なんかない。知らなきゃ知らないでいいじゃないか。そう思って言ってみたものの、月島くんは溜息を吐いて。

「馬鹿じゃないの?なまえでしょ?」
「あ……うん。ごめん」
「もしかして、みょうじさんは僕の名前……」
「蛍くん!知ってます!」

 私はもう、はぁはぁと肩で息をしていた。登校中にこんなに呼吸が乱れるなんて珍しい。私の声に登校中の男の子が振り返ったけど、何事もなかったかのように学校へと歩き出す。
 校門を目前にして立ち止まってしまった私に合わせてくれた月島くんは、顔を上げると面食らったように目を大きく開いていて。
 そしてゆっくりと、笑ったんだ。

「そういえば。連絡先は知らないね」
「……え?」
「貸して、ソレ」

 握りしめたままだった携帯が、月島くんにするりと渡っていく。彼の手の中にあるといつもよりずっと小さく見えた。

「あのアプリ嫌だから、メールにして。毎回返せるかは分からないけど」
「……え、あ、あの」
「僕こっちだから。じゃあ……」
「部活!頑張ってね!」

 それだけ言うのが精一杯で、後は月島くんの背中を見ていただけ。返された携帯に残るのは、月島蛍で登録された番号とアドレス。
 教室に着いたら、一番にすることが決まった。今さら叩かれた頭を撫でて、夢じゃないかと思ったけれど。そんなことはなくて。

 そういえば、試合の話をするのを忘れちゃった。メールでそのことにも触れてみようかなぁ。



***続***

20131215

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