まだ寒い5月の朝、息を切らして第二体育館に駆け込んでくるあのヒトを初めて見た。
「夕!やっぱり此処だ!」
「うお、なまえ?何でここに?」
「お弁当忘れて行ったでしょ?」
朝練が終わった時間を見計らったかのように、その人は声をあげる。西谷さんの下の名前を呼んでいて、かなり親しそうだった。
「ん、マジかぁ!」
「マジだよー!夕のお弁当重い!」
重いなんて文句を言いながら、その顔は幸せそうに緩んでいた。嬉しそうに息切れして上気した顔も、急いできたんだと分かった。
「ん、誰?」
「なまえちゃんだ」
「なまえちゃんだべ」
「相変わらずちっこいなぁ」
三年生の父親みたいな会話を聞きながら、俺は頭の中になまえ、という名前をぐるぐる回していた。普段なら人の名前なんてすぐ忘れてしまうのに。
ドリンクを飲みながら、西谷さんとなまえさんの会話に聞き耳を立てていたのは、無意識か意識か知らないけれど。
「教室でも良かったのに」
「だって!夕がバレーしてるとこ、見たかったんだもん」
そう言われてつられたように西谷さんが笑って、何の躊躇もなく頭を撫でていた。西谷さんが部活に顔を休止して心配だったのは、何も部活の人間だけじゃなかったってことだ。
「それにしても、1年生に大きい子が入ったねー?」
「う、翔陽は俺くらいだぞ!」
「夕より大きいよ?」
クスクスと笑うなまえさんと目が合って、軽く会釈されたのを覚えている。あまりにも急に笑いかけられたから、俺はどうしていいか分からなかった。
「……」
「あ、ごめんなさい?」
「ん?コォラ、影山!顔が怖えーよ!」
田中さんに背中をバシバシと叩かれ、自分がその人を睨んでいたことに気づかされる。眉間の皺を確認しながら、手で伸ばして頭をさげた。
「……ちわッス」
「あはは、怒ってる訳じゃないんだ」
「すんません」
「なまえちゃん気にしないでねー、コイツちょっと見た目アレだけど怖くないよ」
菅原さんがニコニコしながらフォローにならないフォローを繰り出している間も、なまえさんは「旭さんみたいですね」なんて笑っていた。
その返しに月島がブフっと噴出して、東峰さんが分かり易く傷ついていた。
「じゃあ、私は先に行くね。皆さん、お疲れ様です」
小さな白い手がふわふわと動いて、その動きを必死で追った。朝の光に溶けて消えた様に見えて、俺は目をゴシゴシ擦る。
「お疲れー!」
「行っちゃったなぁ」
「大地、オヤジ臭いよ!」
「ノヤさん!今の人誰ですか?」
日向が気持ちを隠しきれないみたいで、体が前後にそわそわしている。コイツは小動物か。いや、俺も気になるけど。
「ああ、俺の幼馴染……いや腐れ縁?」
「ちくしょおおお!そこは本当にノヤっさんが羨ましいぜ!」
第二体育館中に田中さんの大声が響いた。女の幼馴染なんて漫画かよ!とか何とか。俺にも幼馴染どころか女友達なんていないから、気持ちは分かる。
「田中さんって女なら誰でもイイんだ」
「ツッキー、聞こえるよ!」
「西谷も戻ってきたし、これでなまえちゃんもちょくちょく顔出してくれるなぁ」
主将の声に思わず目を向けた。菅原さんと東峰さんと話しながら、うんうんと頷き合っている。
「うん。可愛いしね、なまえちゃん」
「潔子さんの方が美しいっす!」
「……」
「潔子さんに睨まれたぁぁぁ!」
「ノヤっさん俺も、俺も!」
田中さんと西谷さんのノリはたまに理解出来ない。睨まれたとか言いながらハイタッチして喜ぶなんて、あの二人はすごい。
(なまえさん……)
「どうした、影山?また眉間が寄ってるぞ!」
「……何でもないっス」
菅原さんに指摘されて顔に力が入っていたことを知る。でもその理由までは分からなくて、教室までちょっと考えてみたけど。
結局何も分からず、頭はふわふわしたままで。一限目の古典の授業の内容をまるで覚えていなかった。
***続***
20131025