目の前の二人は笑っているのに、ちっとも心の底から笑い合っている様には見えない。部室にこの空気が流れてはっとしたものの、既に他に部員はなく。
他の人に比べて随分のんびり着替えていたことを、今になって後悔した。寧ろ、二年生なんかは俺よりずっと早くにこの空気を察知して出て行ったんだろう。
「俺ですかね?」
「いやぁ、俺じゃないか?」
「いやいや、冗談っすよね、大地さん!」
「はは、俺は冗談なんか言った覚えないけど?」
大地と西谷、プレー中は声かけしあって烏野最強の防御力を誇る二人だけれど、相手への攻撃となると水面下で行われているとかいないとか。それは、俺の勝手な推測だけれど。
どうしたものかとハラハラしながら、セーターを着込んで立ち尽くす。そんな俺に気付いた西谷が、自信満々の笑みでこっちに体ごと向き直った。
「俺ですよね!旭さん!」
「えっ!?何で俺に聞くの?」
「ほう、お前が判断するとか、偉くなったもんだよなぁ。へなちょこ」
にこやかに笑っているのに、大地の醸し出す雰囲気は滅茶苦茶怖い。何で?俺が悪いの?まだ何にも言っていないし、事情も深く知らないのに。
とは言え、最近よく話題になっているので中心人物くらいは知っている。ちょくちょく体育館に顔を出すようになった、背の高い美人だ。
俺は名前も知らないから、同じ学年で大地と仲が良く、西谷がちょっかいかけていることしか知らない。あれ、これって話の全貌な気がしてきた。
手を胸の前に持ってきて知りませんポーズをしていると、部室の戸が開いて救世主が現れる。ジャージ姿で警戒もなく入ってきた顔に思わず泣きついた。
「……すっスガぁ!」
「何でも俺に泣きつくなよー」
「聞いてんスか、大地さん!」
「逃げんなよ、へなちょこ」
スガが入ってきたのに矛先は変わらなくて。あ、これ駄目なやつだと確信した。大地だって、いつもと違って全然冷静じゃない。
恋って恐ろしいんだなぁ。いや、人間って凄いんだなぁと思った。
恋とはするものではなく落ちるものである。先人が言った言葉の受け売りを俺に教えてくれたのは、なまえだった気がする。
そう思って恋ってすごいよなと告げれば、何か気味悪いものに遭遇したみたいな顔をするので俺の名誉の為に一から弁解する羽目になった。
「……で?」
「でって……何か言ってよ」
「え、ああ。どんまい?」
「もっと癒しとか!もう疲れたー……」
「それを私に言われても、ねぇ?」
紙パックのジュースのストローに口をつけ、横を向いたなまえは凛としたままだ。対する俺は思い出すだけで力尽きて、ぐったりと彼女の机に突っ伏した。
昔から変わらないのは、すぐ俺がなまえに泣きつくところか。家がご近所の幼馴染である彼女は、俺と違って随分ハッキリ物事をいうタイプだ。
それでも俺の泣き言をとりあえず最後まで聞いてくれるから、何でも報告してしまう。そうして決まって、最後には何か言ってくれるから。
「旭さぁ、そんなの自分でなんとかしなよ?」
「う、分かってるよ。でもアイツら結構迫力あるし怖くて」
「同級生と後輩にビビってどうするの?」
「なまえー、俺やっぱりお前がいないと駄目かも」
いつも泣き言を聞いてもらった後のお決まりの言葉。それを言ったら呆れた様に笑いながらも、俺の頭を撫でてくれる。
人から頭を撫でられるなんて機会が滅多にない俺には、奇妙な感覚だけれど嬉しいものだった。それなのに、今日は違っていて。
いつまで立っても降ってこないなまえの手を、待ちきれなくて顔を上げた。すると、彼女が想像とはかけ離れた顔で言い放つ。
「……また言ってる」
「ふへっ、冷たい!」
「ジュース美味しいなぁ」
「わぁ、無視とかやめてくれよ!」
「はいはい、またそんなこと言ってたら大地にへなちょこって言われるからな?」
彼女の肩を掴もうかと手を伸ばすと、スガがいつの間にか机の横に立っていて。俺の伸ばしかけた手をチョップの形で墜落させた。
地味に痛いと手をさすりながら、言われたことを反芻する。そういえばここは3年4組で、スガとなまえとそれから大地がいることの方が自然だと気付かされた。
周りを見ると、女子生徒が遠巻きにひそひそと何か話している。なまえと俺が一緒にいると、俺が彼女を脅している様に見えるらしい。
とんだ誤解だ。そりゃ、昔から頭の出来は違ったから、高校まで一緒だったことが奇跡だと思う。なまえは進学クラスだから、ここから先はきっと別々だろうけど。
ぼんやりと昔のことまで頭が飛んでいたら、なまえがスガに向けて眉毛を垂れて優しい顔をした。何だ、いつもの彼女だ。
「菅原くん、ごめんね」
「いや、旭が悪い」
「そんな、酷い!俺となまえは……」
「幼稚園から一緒だったーって話は長いし菅原くんに迷惑だからしないでね?」
「うう、はい……」
「あはは、まるで旭の教育係だなぁ、みょうじは」
「笑い事じゃないよ」
項垂れた俺の頭に結局手を乗せるなまえはすごく優しい顔をしながら笑っていて、結局いつも許されていると思う。居心地が良過ぎて、どうしても頼ってしまうから。
それでは駄目だって心の何処かで分かっているのに、解決策なんか無さそうだから困る。俺が彼女を頼りにしているように、彼女も俺に頼ってくれたらと思うのに。
「じゃ、じゃあ。俺もなまえの話聞くよ!」
「唐突にどうしたの?」
「だから、恋の話とか。愚痴があるなら話だけでも楽になるし、ほら」
「おい、旭。唐突過ぎ……」
「なまえは好きなやつとかいるの?」
女子が教室で話しているようなノリで、軽く言ってしまったのがいけなかったのか。スガの表情がすっと消えていくのが見えた。
次になまえの顔を見て、俺の発言が間違いだったと確信する。まるで初めて見た女の子が、俺の目の前に座っている感覚。
どうしたらいいのか分からずにおろおろ二人を見ていると、急に深呼吸を始めたスガがいて。何だろうと注目していると、いきなり背筋を伸ばして大声を出した。
「だーっ!大地!」
「何だよ、スガ。大きい声出して」
「うわぁ、大地?」
「あん?何でそんなにビビるんだよ、へなちょこ」
「旭が大地のこと告げ口してましたー!」
「小学生の女子か、スガ!」
「おう、4組でそんな話してるなんていい度胸だな」
告げ口はスガの方だろう、なんて言う暇は勿論与えられなくて。なまえの方を気にしつつも大地に体ごと体勢を傾ける。
俺がぶんぶんと手で滅相もございませんと否定しているのに、がっちりと大地に肩を掴まれてしまった。予想通り、その後は俺の声が響き渡る。
大地の腕で狭まる視界からなまえを覗き見たけど、少し俯いて座っているだけで。俺たちの会話に混ざることも、その顔に笑顔が戻ることもなかった。
なまえの様子を気にはしていたけど、部活の厳しさや練習ですっかり頭の隅に追いやられている。でも忘れることはなかった。
家に帰る途中で、彼女の部屋の窓に明かりがついているかと確認するのが日課になっていたから。俺となまえの家は目と鼻の先だ。
けれど、今日は窓を見上げる必要なんてなかった。外灯に照らされた表札の前。見知らぬ男とごく近い距離で楽しそうに喋っている彼女の顔が浮かんでいた。
足がその場で動かなくなって、急に部活での疲れが体に圧し掛かった様な錯覚を覚える。すぐ先で繰り広げられている光景は、まるで別世界のことみたいに遠かった。
「……なまえ」
掠れた声は口の中から出て行くと、夜の空気に溶けていく。楽しそうに会話を弾ませる二人には当然届かなかったらしく、振り向いてもくれない。
幼稚園から一緒の幼馴染。最近はそれを誰かに言う前に止められていた。やんわりとしたものだったけれど、あれは何かのサインだったのかな。
重い足を引き摺って、件の二人へ近づいていく。何も疚しいことはしていない。ここは公共の道で、俺のいつもの通学路だから。
そんなことを言い聞かせているのに、胸の痛みがドクドクと刻まれる度に広がっていく。なまえと目が合うと、視線を逸らされないことに安堵した。
「なまえ」
「旭。お帰り」
「……ただいま」
「ああー……じゃあ、俺、これで」
「ありがとう。またね」
俺が視線を向けただけで、相手の男は顔を強張らせながら駆け出していく。また変な誤解を生んでしまっただろうか。
そんなに迫力があるつもりはないのに、どうも初対面の人には怖がられてしまう。でもほんの少しだけ。今日は怖がられて良かった、なんて思う自分がいた。
「あ、あれ?」
「どうしたの、旭」
「ええ、ああ……今の誰?」
自分の胸に手を当ててもその理由が分からなくて首を傾げる。それなのに、心配そうに視線を向けてきたなまえには妙に棘のある声をかけてしまった。
別に咎めているつもりなんかない。今の誰だろうって、単純な質問。首元にネクタイが見えたからきっと他校生。髪なんか短くて、爽やかそうな男。
見たのはほんの一瞬なのに、事細かに覚えていることに気付いた。そんな自分に驚きつつ、視線をなまえに戻すと彼女はまたあの顔をする。
あの、俺が好きなやつがいるかと聞いた時の顔。その顔を見て、俺の聞いたことは間違いだったのかもしれないとまた不安になった。
「旭の知らない人」
「いや、それは分かるんだけど」
「……」
「どうした?何か、怒ってる?」
事実だけを述べるなまえの口数は少ない。追求してもいいのか悩んで、何も答えないままの彼女を見ているのが辛くなってきた。
この固い表情は、もしかしたら怒っているのかもしれない。はっきりと意見を言ってくるなまえだから、甘えているところもあった。
俺が何か嫌な思いをさせても「やめてよ」って言ってくれる気がしていたから。それでもやっぱり、向かい合って立っている女の子は真っ直ぐに俺を見てきた。
薄暗い中、淡い黄色の光に照らされる顔は綺麗で体が硬直する。
「私は、する気ない」
「へっ?」
「私は旭と、恋の話とかする気ないんだ」
やっぱりハッキリと意思表示されて、それは完全な拒絶だったけれど。俺はごくりと言葉を飲み込んで立ち尽くしていた。
終わりじゃない。なまえの覚悟を決めたみたいな目が、そう訴えていたから。
「だから、好きな人とか聞いてこないで」
「え……あ……ごめん」
「うん。旭の愚痴なら聞くからさ」
見たことも無い顔をしている幼馴染に、綺麗になったなぁと場違いな感想が浮かんだ。頭の中が混乱していて、色んな人間の言葉が浮かぶ。
恋はするものではなく落ちるもの。なまえはそう言っていた。だから、誰かを好きになっていたとしても。俺がどうこう言ったって、何も変わらないのかもしれない。
胸に手を当てて考えた。寂しいと思う気持ちと、ズギズギと音を鳴らす心臓が違う感情を主張してくる。一番近くにいられると思っていたのは俺だけだったのかもしれない。
「分かった。またな、なまえ」
「ん」
なかなか声が出ないまま何度も頷いて、搾り出せたのはたったこれだけ。なまえにも俺の動揺は知られていると思うのに、何も聞かれることはなかった。
こんな風に自分の気持ちを気付かされるなんて、きっかけは何になるか分からない。でももう遅すぎるのかもしれないなぁ。
振り返らずに家へと入っていくなまえの後ろ姿は、いつもと同じで凛としていた。その背中に縋ることも、何か言うことも出来ない。
自信たっぷりな大地や西谷が、俺は羨ましくて仕方ないよ。
***end***
20151011