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二人の秘密基地


 玄関を開けると、脱ぎ散らかされたパンプスが目に留まる。いつもはきっちりと揃えられているお気に入りらしい淡いピンクのそれが、裏面の赤を晒しているのは珍しい。
 でも、初めてのことじゃない。そう思いつつ二口が廊下に目を向けると、途中でカーディガンが脱ぎ散らかされて忘れ去られていた。
 ため息をひとつ吐き出し、スニーカーを脱いで奥へと進む。途中でカーディガンを拾い上げてからドアを開けると、ソファの隅っこに小さな山が出来ていた。

「なまえさん、俺」
「……っ!」

 山の正体はタオルケットで、呼びかけると僅かに跳ねる。それでも返事代わりに聞こえてくるのは声ではなく鼻を啜る音だった。
 厄介だ。そう思ってもソファの隣に座って一応は様子を見る。時間にしてわずか数秒。自分の性格では、どの道我慢は出来そうもない。

「はいはい、今度は何ですか?」
「うっ、う、二口くん」
「何で懐かしい呼び方してんの?」
「堅治くん」
「よく出来ましたー」

 乱暴に捲って出てきた頭を撫で付けた。声を詰まらせながら目を擦るなまえは、キャミソールの紐が肩からずれ落ちている。
 それを指で掬って直してから、流れる様に頬をなでた。すると、泣くことに必死だったらしいなまえがこっちを向いて数度瞬きをする。
 大きな瞳が揺れながら、捉えた光を散りばめて零れそうだ。実際には落ちたりしないと分かっているのに、二口は衝動的に涙を舌で舐め取りながら軽く吸った。

「ん、っ、ぁ」
「なに?口にも欲しい?」
「いじ、わるっ!」
「俺、なまえさんにはかなり優しい自信あるんだけど?」

 彼女が女子大生だと誰かに言えば「何かエロい!」と言われたりする。しかしなまえに関して、女子大生というオプションはさしたる意味を持たない。
 ただ、流されるまま熱を上げた顔はなかなか扇情的だ。頬をつかんでたっぷりと眺めて笑った後、二口はなまえの口へ吸い寄せられた。



「う、うう。堅治くんの馬鹿」
「俺の所為?久々だしそんな薄着だし誘ってるのかと思った」
「ちが、違うし!私はそれどころじゃなかったの!」
「ハイハイ、紅茶でいい?」

 脱ぎ散らかしたパンツとズボンを履いて、勝手知ったるキッチンへと足を運ぶ。湯を沸かしている間に伸びを一つ。
 丸めたタオルケットを抱えながら睨んでくるなまえに、まるで逆効果だとはあえて言わない。

「ありがと、」
「ん」
「はー、堅治くんのいれてくれた紅茶美味しい」

 彼女が嬉しそうに飲むのは、誰が淹れたって同じ味の出せるティーパックの安物だ。それでも少しずつゆっくりと飲む顔には安堵が浮かんでいて、涙は引っ込んでいた。
 ソファに深く座りなおして、なまえが飲んでいたマグカップを持ち上げる。何するんだと顔を見上げて抗議してくる前に、二口は反対の手でなまえを引っ張った。

「うわぁ!」
「きゃ、とか言えないのかよ」
「ご、ごめん」
「別にいいけど。はい、前きて」

 倒れこんできたなまえの体を起こして、自分の足の間に座らせる。体育座りをしながら後ろを振り返る彼女の元に紅茶を戻して、空いた両手で抱きしめた。
 下から嬉しそうな声が漏れる。そのことに満足して手を緩めると、代わりに背中を丸めて顔を寄せた。正直体制はきついが、遠慮がちに頬を摺り寄せてくるなまえに悪い気はしない。

「堅治くん、大好き!」
「そ?やっすいなぁなまえさんは」
「いいの、堅治くんにだけだから」
「ずっりぃの……」

 挑発のつもりが、煽られるのは自分の方だ。育ってきた環境か、はたまた本人の性格か。素直過ぎる彼女に、結局二口は勝てない。
 なまえが体重をかけてきて、優しい重みに頬が緩む。足先をぺたぺたと床にふりおろして遊ぶ彼女は、最初の一言を言いあぐねていた。

「……今日は朝からついてない」
「へぇ」
「水かけられそうになるし、バスに乗り遅れるし、教授に立たされて嫌味ネチネチ言われるし、課題発表は緊張で上手くいかないし、バイトで失敗して怒られた」
「あー……」

 半分くらいは自業自得だと思ったけれど口にはしない。目を細めながら見下ろすと、彼女はマグカップを手の内で回しながら小さく肩で息をしていた。
 一つ一つは些細なことでも、重なればダメージになる。自分だって泣きはしないまでもいらつく事は多々ある。なまえは不満を外には漏らさない。
 いつもにこにこ笑っていて、ある日突然限界を超える。今日のこれも、理由を挙げてはいるがそれが全てではないだろう。
 鬱積したものが許容範囲を突破した為に、この小さな部屋で爆発したのだ。
 二口は今日、訪ねていく約束は取り付けなかった。自分が来なければたった一人で泣き腫らしていたかと思うと、頼りなくかかっているキャミソールの紐に口付ける。

「ひゃ、堅治くん?」
「んー?」
「くすぐった、」
「頑張ったね、なまえさん」

 サイドテーブルにマグカップを置いて、肩から首、髪の毛と頭に優しく触れるようにキスを落とす。身を捩って逃げようとするなまえの頭を掴んで、体ごと後ろを向かせた。
 真っ赤になって上目遣いで見つめてくる瞳は、やはり揺れて零れそうだ。指で瞼を下ろしながら口付けて、普段なかなか言えない言葉を口にした。

「そういう一生懸命なのになかなか上手くいかないとこも好きだよ」
「それ、褒めてるの?」
「アララ、真っ赤になっちゃってかーわいっ!」
「それはっ!堅治くんが……」
「慣れろとは言わないけど、他の男の前でそういう顔は止めとけよ」

 何度付けても跡は消えて、何度触れても慣れずに顔を赤くする。染まらないのはなまえの良いところであり、厄介なところだと思う。
 だからせめてこんな時くらい。たっぷり甘やかして、くせになるといい。

「いい子いい子、頑張りましたー」
「痛っ、ちょっと、重っ!」
「幸せな重みだろ?」
「……うん。あのね、堅治くん」
「何?」

 彼女の頭に顎を乗せながら、気のない素振りでたずねた。自分からすれば恥ずかしいと感じることを平気で言ってしまうなまえに対する、少しの劣等感と憧憬からだ。
 けれどそれは始まりに過ぎない。いつだって二口の予想を越えた彼女の言葉からは、直球で重くて逃れられない。

「今日は嫌な日だなって思ってたけど、堅治くんに会えたから幸せな日になったよ。ありがとう」
「……ばーか!ばか、こっちの台詞だっつーの!」

 覆いかぶさる様に腕を伸ばして、小さな体を閉じ込める。楽しそうに悲鳴を上げたなまえには、照れ隠しの罵倒も効果はないだろうけれど。
 甘やかしているつもりが甘やかされているという実感は、二口の心を確実に満たしていった。この狭い1DKには、穏やかな時間と空気がつまっている。



***end***

20140722

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