「ナナシさん、おはようございます!」

4月に入ってきたばかりの新人の看護師が、大きな声であいさつをして病室の中に入ってきた。


(もう検温の時間か…。)

いつもより深く眠っていたらしい。久しぶりに寝れたとぼんやり考えていると、新人の看護師がたどたどしい手つきで私の右脇に体温計をはさみ、左腕で血圧を測り始めた。
巻かれて間もなく、左腕に緩い圧迫感を感じる。右側でピピッと小さく電子音が鳴り、体温計と血圧計が外された。「お熱も血圧もいつもと変わりないですね」。看護師は測ったばかりの値を忘れないようにカリカリと検温版に書き、窓の外へと目を向けた。


「今日はすごくいい天気です、ナナシさん」

せっかくのお天気なんで、窓を開けて空気の入れ替えをしますね、と看護師が窓を開けると、少し肌寒い空気が部屋の中へと入ってくる。その空気に寝ぼけていた意識がはっきりと覚め、今日も長い1日が始まったのかと憂鬱な気分になった。


「あ、そういえばナナシさん、この間…」


この新人の看護師はいつも検温が終わった後、2、3つほど最近あったニュースの話や他愛もない話を、楽しそうに私に聞かせてくれる。中堅の看護師なんて熱と血圧を測ったらさっさと出ていくのに。何とも変わった看護師だ。
外の情報が得られない私にとってこの看護師の話は楽しみでもあり、貴重な情報源でもあった。新人の看護師はいつものように2、3つ他愛な話をすると「今日はお昼ごろに体拭きをしますね」と言い、病室を出て行った。


(…あったかい…)

看護師が言っていたように今日はいい天気のようで、足の方が日に当たっているのかポカポカと気持ちいい。窓から風が入る度にふわりと、白いレースのカーテンがなびく気配がする。心地よさに少し深めに息を吸えば、肌寒い空気の中に微かに桜の匂いが鼻腔をくすぐった。そういえば病院の敷地内には何十本の桜が植えられていて、ちょうど今が満開だと昨日私を担当していた中堅の看護師が言っていた事を思い出す。


(そっか…)

私が全く動けなくなって、ちょうど7回目の春だ。

早いのもので鎖野郎と旅団の戦いから60年が過ぎ、私は80歳を超えていた。私1人を残し、旅団のみんなはとっくにこの世からいない。
みんなのいない世界なんて考えられなくて、何度も死のうとしたがなかなか死ねず、気が付けばこんな年になっていた。
7年前に脳梗塞で倒れ、私は自分で身体を動かすどころか、目を開けることさえできない。

こんな姿になってまで誰が生きたいと思うのだろう。
一層の事、楽にして欲しいと何度願っても、口から食べられないのなら太い血管や鼻から管を入れ栄養剤を流し、痰で窒息しそうになれば、鼻からチューブを入れて痰をとられ気道を確保された。

どうしてそこまで生かそうとするのか。指1本どころか目を開けることもできない、ただ息をしているだけの生活は逆に拷問としか言えない。毎日が苦痛で苦痛でしょうがない。いっその事頭がおかしくなれたら、幸せだったろうに。それすらなれない自分のなんと惨めな事か。
舌を噛んで死ぬ事すらできない私は、この心臓が1秒でも早く止まればいいのにと、規則的に脈拍を表示する電子音を呪いながらまた眠りに落ちた。


**


春の風と日向にうとうとと微睡んでいると、カツン、カツンと高い靴音が聞こえ、意識を浮上させた。

回診にくる嫌味な医者の革靴の音でも、口が少々悪いが身体を綺麗に拭いてくれる看護師の足音でもない。なにより高い音にも関わらず、元蜘蛛であった私でもよく耳を聞きこらさなければ、聞き落しそうなくらい静かな足音だった。普通の人なら到底聞こえないだろう。
私が身体を動かせなくなってから、こんな足音のする人物と会った事はなかった。音からして一般人ではなく私と同じ闇側の人間なんだろう。気配もまったく感じられない。賞金ハンターが私の命を狙ってきたのだろうか。もしそうなら大歓迎だが、それにしてはその足音からは殺気も怒気も感じられなかった。


(……一体誰だろう…)

当てはまりそうな人を想像してはみるものの、どれもしっくりとこない。その間にも足音は迷うことなく、真っ直ぐと歩き、そして廊下の一番端にある私の病室でピタリと止まった。

お世辞にも新しいとは言えないこの病院の扉は、開けるとギィィィ…と耳障りな音を立てるにも関わらず、その足音の人物は音も立てずにいつの間にか私の病室に入っていた。戸惑う私をよそに、その人物はゆっくりと口を開いた。


「相変わらずね」


(……!!)

独特な訛りの中性的な声。
思わず自分の耳を疑うが、聞き間違える事などない。懐かしい声。いやでも、そんなはずは…。


「ハハ、ついに私も声も分からなくなたか」

どうやらついに頭もおかしくなったらしい。
もうこの世にいるはずもないフェイタンの声を、気配を感じるのだから。
フェイタンは60年前に確かに死んだ。私が流星街に運んで埋葬したのだから間違いない。その時の顔も、身体の冷たさも、胸が張り裂けそうな悲しみの痛みも。まるで昨日のことのように覚えているのだから。どう考えてもこのフェイタンは私の幻覚だ。
いや、幻でもいい。あんなにも焦がれた彼にまた会えたのだから。ふてぶてしい態度も、人を見下した言い方も、何一つ変わらず彼のまんまだ。頭をおかしくしてみるものだ、と思わず自嘲する。声からして、きっと死んだあの頃と変わらないと気付いたところで、急に恥ずかしくなった。


(わ…たし、こんなに…醜くなって…)



右の足の付け根と両腕には3本の点滴が。
左の鼻腔からは栄養を入れるための管が。
性器には尿を排出する管が。
胸と足には24時間私の鼓動を記録する機械が。
生かされるための無数の管たちが、私の身体につながれていた。

なによりあれから60年もたったのだ。手も足も、顔も、身体もすっかりと年老い、何重ものしわが、深くくっきりと刻まれていた。7年間全く身体を動かせないため、筋肉や脂肪は削げ、骸骨のように骨ばっている。
おまけに寝たきりだったため両方の足首が変な方向に曲がっているし、しばらくお風呂にも入っていないから肌も髪も乾燥してポロポロと剥けているし、臭い。
とても女とは言えない、みすぼらしい身体。

今ほど自分の身体を動かせない事を呪ったことはない。動けさえしたら、こんな醜い姿をあなたの前に晒さなかったというのに。神様はどこまで私を陥れれば気が済むのだろう。
動かすこともできない顎でギリリと奥歯を噛みしめると、「ハハ」とフェイタンは再び乾いた笑いをした。何かおかしい事を言っただろうか。こころの中で首を傾げる。


「お前が醜いのは前からよ。今も昔も大して変わりないね」


「そんな事も知らなかったのか、馬鹿な女ね」フェイタンは鼻で笑い目を細めると、もう二度と動くことのない私の右手にそっと触れた。人よりすこし低い体温が、じわりと触れたところから私の身体へと浸みる。
その熱に、目頭が熱くなる。


「死んでも私から逃げられると思うな」


ビービーとけたたましいアラーム音が鳴る中、何年も使っていない目から水がこぼれ、頬を伝い、枕にまだらな小さなシミをつくった。



**



コンコン…と2回短いノックをして若い看護師と中堅の看護師は病室へと入った。



「ナナシさん、体拭きを持ってきました、………ナナシ…さん?」


不審に思った中堅の看護師がナナシに近づくと、顔色がみるみる青ざめた。急いでナナシの右手をとり脈をはかるが、全く触れない。


「私は先生を呼んでくるからあなたはここにいて!!」
「は、はい…!」


中堅の看護師が医師を呼ぶためにバタバタと病室を出て行く。
初めての状況に新人の看護師はどうしていいのか分からずおろおろとするが、ナナシへと視線をうつすと一瞬目を見開き、すぐ頬を緩ませた。



「…ナナシさん」

幸せに、逝けたんですね、

だってとても
綺麗で、
安らかで、
女性の顔をしているもの



小さく新人の看護師が呟くと、返事をするようにふわりとカーテンが静かに揺れ、枕元にあった1枚の黒い羽根が床に落ちた。






最初で最期のラブストーリー
(それは死からはじまる恋)

2014.4.21



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