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 理想と静寂の世界

ぱたん、と読んでいた本を閉じて窓の外へ視線を向ければ、群青色に染まる空が目に映った。慌てて時計を見れば、19時の少し前を指している。反射的に読んでいた本をカバンに突っ込み、紅茶一杯で5時間近く居座った喫茶店を飛び出した。からん、と軽快な音を立てる扉とありがとうございましたという定員の明るい声を背に、私はすっかり日も暮れた静かな港町へ吸い込まれていった。約束の時間まで、あと5分を切っていた。



いつの間にか降り始めた雪の中を走りながら、待ち合わせのベンチまで走った。全力で走ったおかげで、ぎりぎり一分前の到着である。

「やぁリオ、走ってきたのかい」
「気付いたら、5分ま、えで、」
「そんなに急がなくても、逃げやしないよ」

息も絶え絶えに言葉を搾り出す私を見て、ゲンさんは笑った。膝に手を付きながら息を落ち着け、改めてゲンさんを見やる。いつもと同じ青いスーツを纏うゲンさんに雪が薄く積もっているのを見るに、少なくとも10分以上はこの場にいたようで、申し訳なさがこみ上げる。

「ごめんなさい、待たせちゃいました」

謝りながら、服に積もった雪を払う。サラサラとした雪はいとも簡単に地面に落ちて、アスファルトにじんわりと染み込んでいく。

「そんなに待ってないよ。それより、何を読んでたんだい?」

ゲンさんの視線を辿ると、慌てて突っ込んだせいでカバンからはみ出している、先程までのめり込んで読んでいた本に向けられていた。

「シンオウ神話集成です。シロナさんに借りたんですけど、面白くってつい時間を忘れちゃいました」

本を読み出すと止まらなくなるのは、私の悪い癖だ。苦い笑しか浮かばない私を余所に、ゲンさんは私の持つ本を興味深げに眺めている。

「懐かしいな、まだその本を読む人がいたんだね」
「ゲンさん、読んだことあるんですか?」
「もう何年も前にだけどね。その本はシンオウ神話研究の中でも革新的な内容で、すぐ絶版になったんだよ」

そんな貴重な本を貸してくれるなんて、流石はシロナさんだ。手の中の本が急にお宝のように思えて、ソワソワと落ち着かない。

「でも、なんで絶版になったんですか?」

ふと疑問を口にすれば、ゲンさんは眉尻を下げて静かに笑った。どことなく淋しそうな様子が、ふわふわと漂うように降る雪とよく合っていて、綺麗だと思った。

「常に真実を追い求めて研究していても、自分の思う真実が揺らぐことを恐れる人もいるんだ。この人の研究は、それを恐れる人が多かった」
「神話に真実も何もあるんですか?」
「絶対的な真実とは言えないけど、筋も通って誰にも反論の余地がないほどに完璧な論説だったんだよ」

だからこそ、他の人はなかったことにするしかできなかったんだ。そう言って、ゲンさんは淋しそうに笑った。
研究者ではない私は、学会のことに詳しくない。それでも、ゲンさんの言わんとしてることはわかったし、学者の気持ちもわかる気がした。変わらないものなんてないけど、変わらないでほしいと願うものが、私には多かった。

「この本、すごく面白かったです。でも、絶版になった理由も理解できます。
信じてたものが実は違うって言われたら、私だったら何を信じていいかわからなくなります」

表紙に描かれた神話をモチーフにした抽象画を眺めながら、呟くように言った。自分の思うところを、上手く言葉にできなくてもどかしい。考えを一冊の本としてまとめて言葉にできる人が、羨ましく感じた。

「リオはリオが見たもの、聞いたもの、感じたことを信じればいいんだよ。
誰にも本当に正しいことなんてわからないんだから」

いつものように柔らかく笑いながら、ゲンさんは私の頭を撫でる。
上手く言葉にできなくとも私の考えていることを汲み取ってくれるゲンさんは、かけがえのない存在だ。撫でられる心地良さに目を閉じると、世界にはまるで私たちしかいないように静かだった。

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(130905)

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