セキエイ | ナノ

近くの体温


「それにしてもワタルがホテルとるなんて珍しいね」

 備え付けのベッドに転がり込みながら、マントを脱ぐワタルを見上げる。久しぶりの柔らかい布団の感触が心地好くて、気を抜いたらすぐにでも夢の世界へ引き込まれそうだった。

「久しぶりにリオと会ったんだ、少しくらい張り切ってもバチは当たらないだろう?」

 ワタルはそう言いながらベッドの淵に腰を掛けると、優しく髪を撫でた。あぁ、なんでこの人はこんなにいとおしそうな目をするんだろう。手で、目で、全身で、愛してると言われているみたいだった。なんだか恥ずかしくなって枕に顔を埋めるようにうつぶせになると、ワタルは小さく笑ってベッドから立ち上がった。少しの名残惜しさを感じながら、枕と髪の隙間から覗き見るとどうやらお茶を入れているらしかった。
 しばらくして名前を呼ばれ顔をあげると、目の前に湯気の立ち上るカップがあった。起き上がりベッドに腰掛け、カップに口をつける。ミルクたっぷり甘めの紅茶が、じんわりと体に溶け込んでいくようだった。飲み慣れた味は、しかし一年ぶりで。小さな味の好みまで覚えていてくれることが嬉しくて、つい口許が緩む。ワタルはそんな私を見ながら、くすりと含みのある笑みを浮かべた。

「わざわざ家でなくてホテルに来たってことは、それなりに下心もあるんだが」
「したごこ…え!?」

ワタルの言葉を復唱しようとして、ようやく意味に気がついた。思わず持っていたカップを落としかける。零れなくてよかった、と安堵の息をつくと同時に、小さくワタルを睨んだ。

「…そういうのは言わずに隠しておくべきだったんじゃないかな」
「リオが自分から気付いてくれてたら言わなかったさ」

 そう言われると、弱い。初めてでもあるまいし、今更恥ずかしがる必要はないかもしれない。けれど、会うこと自体一年ぶりなのだ。そういった行為なんて、尚更。

「…結構、耐えたんだぞ」
「……ごめ、ん?」

 謝るところなのかは汲み取りかねたが、切羽詰まったようなワタルの表情に思わず謝ってしまった。あまり見慣れない色っぽい熱を孕んだ表情に、不覚にもどきりと胸がざわついた。さらり、と顔にかかる髪を掬われる。壊れ物を扱うように触れられて、私はそんな大したものじゃないのに、と思う。
 頬に手を添えられて、目が合う。あ、だめ。ペースに飲まれる。そう思った瞬間、ワタルの視線から逃れるように目を閉じ、両腕を強く前に突き出した。

「私、けじめつけに来たの」

 ワタルの胸を押し返しながら、勢いで言った。ポッポが豆鉄砲喰らったような顔で私を見つめるワタルは、しかし徐々に怪訝そうな顔つきになっていった。ひるむものか、ここで臆してしまえば、何のために決心してジョウトに帰ってきたのかわからない。

「別れよう」

 目を見て言えた自分を褒めてやりたい。どこか客観的に見つめている自分に気が付いて、存外冷静なことに驚く。決心するまで、長かったのに。怖くて顔を見ながら言えない、と思っていたのに。

「…理由を、聞こうか」

 平静を装いながらも、少し震える声でワタルが訊ねた。今からそういう行為に及ぼうとしている矢先に、予想外の言葉で拒絶をされて混乱しているのだろう。普段見ることのないワタルに、悪いと思いながらも小さく笑ってしまう。

「私たち、付き合って5年以上経つけど、一緒にいたのはそんなに長くないでしょ?別れずにここまで続いたのって、何て言うか、会ってなかったからこそ、だと思う」

 ずっと一緒にいたら、こんなに長く続かなかったんじゃないか。この1年、ずっと考えていたことだった。ずっと考えてはいたが、上手く言葉にならず、ワタルにはさらに意味がわからないだろう。
 険しい顔で私の言葉を聞いていたワタルは、しばらくの無言の後、ゆっくりと口を開いた。

「…悪いがオレはリオと別れる気はない。今の説明だとリオの気持ちがわからないし、別れる理由にはならない」
「うーんとね、ちょっと待って、」

 やっぱり、うまく伝わらない。もどかしい。必死に頭を回転させながら、伝えられない自分に苛立つ。

「えっとね、色々すっ飛ばして結論を言うと、一度別れて、もう一度やり直したい、の」
「……は?」
「だからね、私たちもそろそろいい年だし、ちゃんと決めないとって思って」

 しどろもどろになりながらも言うと、ぽかんとしていたワタルが突然笑い出した。先程までの真剣な表情はどこへやら、豪快に笑い出すものだから今度は私がビックリする番だった。

「ワ、ワタル…?」
「珍しくリオが考え込んでると思ったらそんなことかと思ってな」
「失礼な!私はワタルとの将来を真面目に考えて…!」

 未だに収まらないのか、くつくつと笑いながらワタルは私から離れた。そう言えばずっと跨っていたのか。今更だが改めて認識すると恥ずかしいもので、顔に熱が集まる。そんな私をそっちのけに、ワタルは荷物を漁っていたかと思うと、また私の元へ戻って来ると、上半身だけ起こしていた私の腕を思いっきり引っ張った。

「っ!?」

 ぽすっと柔らかな音とともに、私は見事にワタルの腕の中に収まった。恥ずかしいよりも暖かい、落ち着く、と思うあたり、相当だ。

「奇遇なことに、オレもリオとの将来を真面目に考えていてな」

 顔は見えないけれど、上から聞こえる言葉に年甲斐もなくドキドキする。落ち着いているけど、どこか楽しさを含んだ声の続きを待つ。

「リオがなんと言おうと、オレはリオが好きだ。所在無く旅をしていても、滅多に連絡をよこさなくても、な」
「…耳が痛いです」

 くつくつと笑うワタルに、やっぱり気にしてたのかと申し訳なくなる。なんだか今日はワタルのペースに飲まれっぱなしだ、と思う。
 不意に体がワタルから離れた。ベッドの淵に腰掛けるワタルと向かい合うように座らされ、やっと顔が見える。照れた様子でもなく、ただただ愛しそうに見つめてくるワタルが、どうしようもなく愛おしかった。

「旅に出ても構わない。だが、心だけは一生オレの傍にいてくれないか」

 愛してる。言われた瞬間、涙が頬を伝った。悲しくないのになんで、と涙をぬぐうも、次から次へと溢れ出して止まらない。嫌がっているかと勘違いされないか心配する私を余所に、ワタルは優しく笑って「リオの返事は?」と尋ねた。

「…つまり、どういうこと?」
「はは、こんな時でもリオの強がりは健在か」

 泣いているくせに、わかっているくせに。可愛くない返事をした私を笑うと、ワタルは小さな箱を取り出して、私の前に差し出した。

「リオ、オレと結婚してください」
「…はい、喜んで」


(121124)