*死ネタ
*明治時代頃




うだるように暑い夏の日。
うるさいまでの蝉の大合唱。獅子脅しがカラン、と音を立てて岩を打つ。

「臨也!」

急に、本当に何の前触れもなく臨也が倒れた。







黄昏







臨也が倒れてすぐ、俺は近隣の町まで知り合いの医者を呼びに走った。
そいつは臨也の紹介でつい最近知り合った人物で多少風変わりなところがある。しかし腕は確かで、薄い障子一枚を挟んで診断結果を待つ間は気が気でなかった。
だらだらと流れる汗も、煩わしい蝉の鳴き声も、高い音を立てる獅子脅しも、何もかもが気にならない。ただ、臨也の無事だけが気がかりでそればかりを願った。

経過した時間は何分か。十分だろうか。三十分だろうか。六十分だろうか。
不意に背後の障子がパタン、と音を立てて開く。反射的にびくりと肩を跳ねさせて上を見上げれば医者の姿。

「…新羅。臨也は、大丈夫か?」

今すぐ飛び付いて肩を揺すってやりたい衝動をぐっ、と堪えて冷静を保つ。ここで感情的になったところで何かが変わるわけでもない。
そんな俺の心情を見て取ったのか、新羅は誤魔化すでもなく、言った。

「いいかい、静雄君」

折原臨也、彼は――結核だよ。

瞬間、愕然とした。時が止まったかのような錯覚に陥る。いや、実際に俺の周りの時は止まっていた。
何も言えない俺に新羅は続ける。

「彼、大分前から無理をしていたんじゃないかな。症状も良くない」
「…でも、アイツは毎日5個はトマトを食べる。食事だって…、食事だって作ってやったものは全部食べる」
「…それは結構」
「じゃあ──」
「でももう治らないんだ。手のつけようがない」

なんとか言葉を捻り出す俺を無情にも非情な言葉が貫いた。

その後の事はしっかりと覚えていない。
ただ、下唇を噛み眉を寄せている新羅の表情と、聞いてしまった聞きたくもなかった答えだけが俺の中を何度も反響していた。







暑い夏が過ぎて、秋がきた。
蝉の声は止み、鈴虫が合唱を始める。

あの日、臨也の不治を宣告されてから幾月。
あいつは今まで通り、昼は散歩に出かけ、時折は本よ読み、夜は本を書いた。食事も俺の作ったものを残さず食べてくれた。朝も夜も決まった時間に寝起きし、暇な時は適当な話をして他愛の無い会話を繰り返した。
今まで通りの生活がそこにはあった。それでも散歩に出かける回数は目に見えて減っていった。

嘘だ。臨也が死ぬ訳がない。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。臨也は規則正しく起きてご飯も食べる。目は綺麗に紅く澄んでいる。こんなにも笑う。大丈夫。死ぬわけがない。

そう何度も、自分に言い聞かせ続けた。
何度も、何度も──。







ザーザーと雨が降る。まるで桶を引っくり返したかのように、ザーザー、ザーザーと。雨粒が地面を穿ち泥を跳ねさせては弾けて消えていった。
今は仕事の上司のトムさんと隣村まで行った帰りで、一刻も早く帰って疲弊した体を休めたかった。それに何より、家に残してきた臨也が気になって仕方がない。

「あちゃー…川が氾濫してやがる。これじゃあ橋も渡れねえし、今日は近くに泊まるしかねえべ」

目の前の泥氾した川を前に、トムさんが言う。
確かに、目の前の茶色く濁った川はとてもじゃないが渡れそうにない。

「そうみたいっすね。……臨也の奴、今頃どうしてんのかな…」

早く帰って独りぼっちのアイツの世話をしてやらねえと。寂しさを癒やしてやらねえと。
そう思いながら気付けば言葉が漏れていた。ほんの独りごとのつもりだった。

「何言ってんだ?静雄」

対岸を見詰める俺にトムさんが言う。
そして、何がっすか。そう聞き返す前に、トムさんはゆっくりと口を開いた。
まるで心臓を貫く刃物のように。ゆっくりと体内を進む弾丸のように。じわじわと体を蝕む病のように。脳を揺らす鈍器のように。



「折原臨也はもう、墓の下だろ」







「っー…!」

気付けばそこは布団の上で、漸くアレが夢であったのだと理解した。
ダラダラと冷や汗が流れ落ちる。その所為でべた付いた寝間着が気持ち悪い。体を絡み取る衣服が、まるで逃れられない運命を予兆しているようにさえ思えて気味が悪い。

「いざや、」

ふと心配になって隣を見やる。そこにはいつも通り、静かに眠る臨也の姿があった。寝る前にかけてやった布団は少しとして乱れていない。まるで死んでいるかのような、或いは精巧な人形のような。ぞっと悪寒が走る。


──まさかまさか。そんな筈はない。


急に怖くなって、ゆっくりと触れた頬は暖かかった。そこには確かに人間としての温もりがあった。それが嬉しくて、俺はその唇にそっと口付けた。

外ではザーザーと雨が降っている。







その後、数週間のうちに臨也の容態は急変した。
一人で起き上がるのが困難になり、ほぼ寝たきりの状態になった。手は腫れて農家暮らしの老婆のようになった。こんな醜い手を俺は知らなかった。俺の知る臨也の手は細くて白い。あの綺麗な手は、永遠に見られないのだろうか。







秋も終わりかけの涼しい日。初冬に入りかけているというのにいやに暖かな日。
俺は月に1度の診断の為、新羅を招いた。臨也を心配する俺と新羅の意見の一致で決まった事だ。
しかし、臨也の意向で俺はその場に立ち会わない事になっている。

俺が知りあう前から旧知の仲だった奴らだ。積もる話もあるから二人だけで話したい、というのが臨也の主張だが、後から新羅に聞いた話だとそれは俺に心配をかけたくないが為の建前だと教えてくれた。
だから俺は無理に押し入る事はしないが、それでも障子一枚隔てた廊下は耳を澄ませば二人の会話はよく聞こえた。新羅も臨也も多分、それを知らない。


『臨也。最近どうだい?』

新羅が言う。

『別に、何も変わらないよ』

臨也が答える。

『そう、なら良かった』
『毎日ね楽しいんだ。こんな状態でも』
『静雄君かい?』
『うん。最初は喧嘩ばかりだったのに…今となってはとても献身的に看病してくれてさ。料理だって美味しくて、ついつい平らげちゃうんだ』
『まだ付き合いの浅い僕に彼の事は解らない。でも、彼がとても優しくて良い人だという事だけは解るよ』
『やっぱりそう思うだろ?』

ふふ、と臨也が静かに笑う声が聞こえた。何だか照れくさくてらしくもなくポリポリと頭を掻く。

『残念至極だけど…、待っている患者もいるし僕はそろそろ行くよ』
『……もう、行くんだね』
『うん。ごめんね』

ここで、僅かに畳が擦れる音が聞こえた。新羅が立ち上がった音。
いつもなら此処でバレないようにと立ち去るが、今日はどうも様子がおかしい。

なにか、あったのか?
ふと頭をよぎった何の気なしの疑問。そしてそれはは的中する事となった。数秒後、最悪の形で。

『ねえ、新羅』
『……』
『早く、楽にしてよ』
『……』
『もうね、シズちゃんに迷惑かけたくないんだ。自由にしてあげたいんだ。彼は、俺なんかじゃなくて他の誰かと幸せにならなくちゃいけない』
『……ごめんね、臨也』

途端、体が動かなくなった。新羅が立ち上がって此方に向かってくる音が聞こえるというのに。此処から退かなければならないと解っているのに。そうでなければ臨也達に俺が立ち聞きしていたという事がバレてしまうというのに。動けない。ただ、臨也の言葉が俺をその場所に縛り付けていた。
木の擦れる音とともに扉が開かれる。もうダメだ。きっと出て来た新羅に不可解そうな顔でこう言われるのだろう。どうして君がここにいるんだい、と。
それを覚悟して目を瞑ったのにいつまで経っても声はかけられない。かわりに障子が閉まる音が聞こえて、トントンと肩を叩かれた。恐る恐る目を開ければ新羅が目で付いて来い、と合図する。いったいどうしたのかとついて行けば、新羅は玄関を臨む廊下の角で漸く立ち止まって此方を向いた。

「静雄君、」

いつもは穏やかな瞳が鋭く俺を見つめていた。

「君はいつから立ち聞きをしていたんだい?」
「……。お前が、臨也に調子を尋ねたところから」
「そう。それなら質問の仕方をかえよう。君は過去の何度に渡り立ち聞きをしていたんだい?」

ドクン。核心をつく質問に心臓が張り裂けるのではないかという程に大きく鳴った。
鋭い視線。間違いない。新羅は俺が全てを聞いていたことを知っている。確信している。

「…分かった。もう一度質問の仕方を変えよう。君は僕が臨也と二人きりで話した全てを聞いていた。違うかい?」

核心への確信。
俺はもう何も答えられなかった。答えられる訳がなかった。俺の頭の中では新羅が何も知らない臨也にこの事実を伝えるのかどうかで一杯だった。いや、もしかして器用な二人ならば会話をしながらの筆談だって有りうる。もしかしたら臨也も俺の今までの行動を知っているのかもしれない。
いつまでも否定は愚か肯定すらできない俺に、新羅は静かに言った。

「無言は肯定だよ。静雄」







「臨也、調子はどうだ?」
「うん。頗るいいよ」
「そうか」
「ふふ、シズちゃんのお陰だね」

まるで子供のように笑う臨也の姿。今まで何度も見て来た筈その笑顔が新鮮で、愛おしくて。そう思うと目頭が熱くなるのを感じた。こんなふうに笑う人間が死ぬわけがない。

そうだ。臨也が死ぬわけがない。死ぬわけが──



***



「でもね、静雄君。臨也にはこの事を話してない」
「……!なんで…」
「それが、彼の為と判断したからだよ」
「臨也の為?」
「静雄君。いいかい、落ち着いて聞くんだ」

嫌なフレーズだと思った。
しかし、俺がそう思ったところで吐かれる言葉は変わらない。

「臨也はもう、長くはない。今生きているのも不思議なくらいだ」


──だから、それなりの覚悟はしておいてほしい



***



「─……ちゃん、シズちゃん!」

ほんの数分前の出来事を思いだしていた俺は、臨也の声で我に還った。
見れば心配そうな顔。どうして自分が死にそうな時にそんな顔ができるのか。自分の事には人一倍聡いこいつがそれを知らない訳はない。

「大丈夫?ぼうっとしちゃってさあ。気分でも悪い?」
「いや、何でもねえよ」
「…なら良いんだけどさあ…」

澄んだ赤い瞳が俺を見つめる。
もうすぐこの瞳が見れなくなると考えると、胸が痛んだ。

ダメだ。こいつが死ぬ筈はないと思っても、目に見えて変化が現れると嫌でも信じざるを得なくなる。
その嫌な考えを振り払うように、俺は口を開いた。

「それより、元気になったらどこか行きたいところはあるか?」
「行きたい所?」
「この際だ。海外でも地の果てでも連れて行ってやるよ」
「はは、流石にそこまではいいよ。ただ…」
「ただ?」
「静かな所に行きたい。人がいない静かな所」
「人ラブ。だとかぬかす手前にしては珍しいな」
「確かに人は好きだけど、君と二人だけで静かな時間も過ごしてみたいしさ」




そう言ってはにかむように笑ったその顔を、俺は今でもまだ覚えている。

そしてこれが――臨也と交わした最後の会話だった。

三時間後。秋の静かな黄昏。
今日は沢山話して疲れたから少しだけ眠るよ、と言って眼を閉じた臨也が目を覚ますことは二度と無かった。
ゆっくりと、その正確な時間さえも判らないくらいゆっくりと、酷く幸せそうな顔をして、臨也は俺だけに看取られ静かに息を止めた。
呼吸が止まっただけで顔の色は変わらない。その顔は相変わらず綺麗で、生きていた頃より艶めかしかった。














―――――
『斜陽』/太宰治。より元ネタ抜粋。
しかし全く時代を活かせていない。




20110903


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