*来神





シズちゃんの投げた椅子が窓ガラスに直撃したのが5秒前。
耳をつんざく音と共にガラスが割れたのが4秒前。
割れて散ったガラスを認知したのが3秒前。
右目に痛みが走ったのが2秒前。
そして。

「いざ…や?」

名前を呼ばれた気がしたのが1秒前。
そこで俺の景色は赤から黒に変わって、意識が途切れた。










「あ、臨也。僕の事が判るかい?」
「……新羅?」

目を覚ませば俺を覗き込む誰かの顔。頭がぼうっとするお陰でそれが誰で有るか特定するのに時間がかかったが何とか頭に浮かんだ名前を呟く。すると、良かった、左目は問題ないみたいだね、なんて言いながら笑う新羅を余所に視線を左右に遣れば見覚えのある場所。いや、それよりも左目って……。
体を起こそうと体に力を入れたらズキリ、と右目が疼いた。正確には右目の少し上。おまけに左目を閉じたら視界は真っ暗。そこに手を当てればピリリとした痛みと伴に柔らかな感触がした。恐らくはガーゼ。あぁ、さっき怪我したんだっけ。
お陰で再びベッドに身を横たえる事になった。

「…て言うか、何?保健室?」
「そうだよ。静雄が僕の所に血だらけの君を運んできたから、治療の為に少し借りたんだ」
「シズちゃんが?」
「うん。多分、君が気を失った上にそんな大きな怪我したもんだから責任を感じたんじゃないかな?」

ね、静雄。
第三者に同意を求める新羅の視線を追えば離れた場所に座るシズちゃんの姿。じっと其方を見詰めたら数秒の視線の交差の後、気まずそうに視線を反らされた。
いつもは平気で暴言付きの暴力を奮う癖に、人間の重要な器官が危うくなればこれだ。気に食わない。

「いいかい、臨也」

右から新羅の声が聞こえてもう一度視線を逆に戻す。視界が狭いせいでいつもより大きく首を回した。

「幸い、僕達は明日からゴールデンウイークに入る。君の事だからあちこちに喧嘩の火種を作りに東奔西走しそうだけどそれはしないこと。右目自体に影響は無いと思うけど、後の祭はごめんだからね。1日に1度、君の家を訪れるよ。それから、念のために今日は静雄君と一緒に帰ること。勿論、喧嘩何かは以ての外だからね。それについて彼に話はつけてあるから」
「はぁ?俺が?シズちゃんと?寝言は寝て言えよ、新羅。俺とアイツの仲が悪いことくらいお前も知ってるだろ?なのに一緒に帰れだなんて…ばかばかしい。それに怪我も失明に至らなさそうならいいよ、別に来なくて。ゴールデンウイークは忙し――」

そこまで言った次の瞬間、ひゅっ、と風を切る音に言葉を奪われた。
新羅ふうに言うなれば、電光石火。何が起こったかも解らぬまま、はらりと目の前を落ちていった黒い影を追えば白いシーツに散らばる数本の髪の毛と、そこに突き刺さる鋭利なメス。
嫌な予感がしてそれを持つ腕を辿り目線を上げた先は、にこりと笑う新羅の顔が合った。
多分、俺の後ろの方でシズちゃんは絶句している。更に言えば、多分、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。俺も同じ。こうなった新羅に逆らうのは不可能だ。

「いいかい?君は今、常人の半分しか視界が無いんだ。友人に何か有れば僕の大事なセルティも悲しむ。それに何より、医者として泥船渡河な君の行動を見逃すわけにもいかない。…もう一度だけ言うよ、臨也。一つ。君は今日、静雄と帰る事。二つ。ゴールデンウイーク中は家にいる事。いいね?」

矢継ぎ早に紡がれる言葉。最早選択の余地はない。俺はただ、縦に頷く事だけを許された。










「普段、静かな人が怒ると怖いって本当なんだね」
「俺、もうアイツだけは怒らせねえ」

帰り道、校門を出るのを見送られた後も俺達は肩を並べて歩く。別に新羅の姿が見えなくなった後に別れる事もできたけど、そうしなかったのは言わば保険の為。もしもどこかで見られでもしたら洒落にならない。
だから、仕方なくシズちゃんと帰る。そう、これは不可抗力だ。

「て言うか、シズちゃん凄い静かだよね。いつもの勢いはどうしたの?…あ!もしかして俺の眉目秀麗な顔に傷付けちゃった事に罪悪感を感じた?」

ポツポツとしか続かない会話。調子が狂う。こんな怪我をさせたからって遠慮するなよ。今までだって散々傷つけてきたくせに。
それなのにシズちゃんはいつまで経っても何も返してくれなくて。黙ったまま俺の隣を歩く。

心が、痛い。
何でだか解らないけど、痛い。鼻がツンとして目頭が熱くなる。きっとシズちゃんはもう今までみたいに喧嘩をしてはくれない。俺が幾ら彼を罵り、謀かり、陥れようとも、きっと俺を見てはくれない。化け物の癖に人一倍優しいコイツは、人間を傷付ける事を酷く嫌う。今まで俺を相手どってきたのは俺を同類に見ていたから。怪我をしても立ち上がる俺を、彼は人間とは見ていなかったから。なのに、今回の件で俺は人間に成り下がってしまった。
俺はもう、喧嘩相手という特別な存在にはなり得ない。俺はただの、大衆の一人だ。…なーんだ、俺、シズちゃんの特別になりたかったんだ。喧嘩相手としてでも良いから特別に。彼のたった一人に。……これじゃあまるで…俺がシズちゃんの事、好きみたいじゃん。

「…いざや?何で泣いてンだよ」

ハタとして我に還ればシズちゃんの顔。て言うか、何?泣いてるって誰が?俺?
つう、と冷たい雫が頬を伝い、唇に触れたそれがじわりと輪郭をなぞる。…しょっぱい。

「泣いてないよ、バカ」
「バカは手前だろうが。如何にも傷つきました、って顔してボロボロ涙零しやがって」
「だから、泣いてないってば!」

いい加減しつこい。同情したみたいな顔するな。どこまでも言及するだなんて野暮な真似、デリカシー無いのかよ。
俺の心はズタズタ。新羅には悪いけどこれ以上は限界だ。

右手にナイフを滑らせ、顔面目掛けて右に大きく手を払う。こういう時のシズちゃんは鈍いから必ず当たる。
なのにナイフの切っ先は空を切り、感情に身を任せ行き場を失った矛先はそのまま旋回した。
視界が狭くて鈍った距離感。確信が外れ、反応が遅れた俺の体は重心を見失い前へと倒れ込む。
倒れる。頭では理解しているのに体だけが付いていかない。多分成す術もなく地に伏す俺を彼は嗤う。そう思ったのに。

「臨也!」

横から伸びてきた手に支えられ、ガクンと動きが止まった。圧迫された肺が少し苦しかったが痛みはない。

「っとに…危ねえな…。怪我してる時くらいは大人しくしてろ」

ゆっくり顔を上げた先にシズちゃんの顔。心配そうな、ほっとしたような。
何でそんな顔。訳が分からない。

「離せよ!」

手に握っていたナイフを捨てシズちゃんを突き飛ばす。その後はもうしっかりと覚えていない。俺の頭は真っ白で何かを考える余裕なんてもうこれっぽっちも無い。

「何でここまで俺に構うのさ!新羅に頼まれたから?罪悪感から?それともそうするのも俺への嫌がらせ?あっはは、シズちゃんも考えたね。おめでとう、大成功だ!お陰で俺は心底気分が悪いよ」
「いざや…」
「…俺が、君のその気遣いでどれだけ傷ついてると思ってんのさ。お願いだから、優しくするなよ。いつもみたいに喧嘩してよ。俺だけを…見て、意識してよ」

気付けば俺はシズちゃんの腕の中で嗚咽混じりの声を上げていた。
ああもう、格好悪い。シズちゃんにだけはこんな姿見られたくなかったのに。でももう、あらがえやしない。俺を優しく包む腕を、体を、もう突き離せやしない。
本当に最悪だ。







一頻り泣いて、ゆっくりと酷い顔を上げる。涙で目を腫らした酷い顔。そんな俺の目元に溜まった涙を無骨な指が拭う。

「臨也、悪い…。お前の願いは聞けねえ」
「……いいよ。解ってた事だから。それより最後にこんなみっともないところ見せて、ごめん。でもこれが俺の正体なんだ。俺もどんなに粋がったところで、1人の人間でしかない。触れたくもあれば愛されたくもある。…幻滅しただろ?」

これでお別れ。
さよなら、シズちゃん。さよなら、俺の恋心。
これが最後なら優しくしてくれて嬉しかった。

俺を包む温もりから離れようと、そっと厚い胸板を押す。なのにそれは太い腕に阻まれて、俺は再びそこに埋まる事になる。

「お前は、俺を人間と認めやしねえだろうけど…俺だってこんなんでも人間だ。触れたい。愛したい。愛されたい。喧嘩しながら毎日毎日、そんな事考えてた。伝えようとも考えたけど……手前はいつも巧い具合に逃げやがる。今日だってやっと捕まえたと思ったら…ンな怪我させちまって、いつか、取り返しの付かない事になると怖くて。だから壊しちまう前に離れようと思ったのに……手前が、…っ手前がンな事言うから離れられねえじゃねえかよ」

俺の後頭部を震える手で胸板に押し付けるシズちゃんの声は祈るようにさえ聞こえた。

「自分だけが好きでした、みたいな言い方しやがって。俺だって…、お前が好きなんだよ」

消え入るような声、縋るような声。こんな時に告白だなんて何考えてんだか。本当に、コイツの考える事は理解ができない。本来ならもっと驚くべきなんだろうけど、今の俺は気持ち悪いくらいに冷静でだった。
肩を支えられながら、徐に互いの距離が開いていく。

「なあ、言えよ。お前も、ちゃんと好きって言えよ。俺は言ったんだ。だから、逃げんなよ」
「……」
「臨也、」
「俺も、好きだよ。俺だって、君の事が好きなんだよ…っ」

涙なんてもう枯れたと思ってた。なのにもう一筋だけ涙が俺の頬を伝った。








右目と怪我と
(両想いになれた、ってのに泣くなよ)
(うるさい、バカ)







―――――

書いてるうちに書きたかった事から脱線した結果。



20110521

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